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第二章 無意識に選ばれた部屋

 先輩が予約してくれた店は、駅前の落ち着いた和食店だった。向かいに座る中村真由さんは、写真で見た印象そのままの人だった。柔らかな雰囲気で、話し方も穏やか。相手に気を遣わせない距離感を知っている、大人の女性だった。 「高瀬さんは、営業職なんですよね」 「はい。真由さんは事務でしたっけ」 「ええ。経理を担当してます。実際地味な仕事ですけど、数字が合うと嬉しいんです。営業って大変そうですよね。私、人見知りだから絶対できません」  会話は途切れない。仕事の話や休日の過ごし方、家族のことも自然に話せた。彼女はよく笑うし、相槌も上手かった。結婚相手として考えるなら、きっと申し分ない人なのだろう。 「高瀬さん、休日は何をされるんですか?」 「最近は、映画を見ることが多いです」 「あ、私も好きです。どんな映画を見ることが多いんですか?」  そう言って微笑む彼女を見ながら、俺も笑い返した。ちゃんと楽しい。居心地も悪くない。それなのに、肩の力が抜けない。 「高瀬さんは、料理されるんですか?」  不意の質問に、一瞬言葉が詰まった。 「昔はしてましたけど、最近はあまり……」  答えてから違和感を覚える。ここ数ヶ月、自炊をする回数がめっきり減った。三好が作ってくれるから。仕事帰りに部屋へ行けば、当たり前みたいに並んでいる食卓。あったかい焼き魚や煮物や味噌汁など――。  ふと脳裏に浮かんだ光景を振り払うように、水を口に運んだ。 「いいですね。私は一人だと、つい外食で済ませちゃって」  彼女は、少し恥ずかしそうに笑う。その仕草も自然だった。自然なのに――なぜだろう。会話をしながら、何度も別の誰かを思い出してしまう。それが誰なのか考えないようにしながら、とりとめのない話を続けた。  食事を終え、店を出る。夜風は少しだけ冷たかった。 「今日は、ありがとうございました」  改札前で、彼女が丁寧に頭を下げる。 「こちらこそ。楽しかったです」 「また機会があれば、ぜひ」  改札を抜けていく背中を見送りながら、胸のどこかが妙に静かだった。もっと何か、感じるべきだった気がするのに、期待も高揚も不思議なほど湧いてこない。  代わりに思い浮かんだのは、別れ際の彼女の笑顔ではなく、夜勤明けで少し眠そうな三好の顔だった。 『恒一、お疲れさま――』  そう言って笑う声まで思い出してしまい、思わず眉を寄せる。  頭を振ってそのまま駅の改札に向かい、電車に乗る。座席に身を沈めた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。無意識にスマートフォンを取り出して画面を見るが、通知はない。 (……直人に連絡する必要はない)  そう思って、画面を伏せた。  あれこれ考えているうちに降りる駅を間違えそうになって、慌てて立ち上がる。改札を抜けて夜風に当たったところで、ようやく気づいた。 (――ここ、直人の家の最寄りじゃないか)  一瞬、足が止まる。乗り換えを間違えたわけじゃない。気づけば、自然にこの路線に乗っていた。しかも自宅に戻ろうと思えば、戻れる距離――それなのに俺の手は、ポケットに伸びていた。合鍵の感触が指先に伝わる。そこに迷いはなかった。 「……」  理由を探す前に体が勝手に動く。合鍵で三好の家の扉を開ける音は、驚くほど静かだった。そのまま玄関に入ると、リビングの電気は消えている。まだ帰っていないか、もう寝ているのか。 「……」  靴を脱ぎ、室内に入る。この部屋の匂いを、もう知っていることに胸がざわつく。電気をつけてソファに腰を下ろした瞬間、深く息を吐いた。  今日は、ちゃんとした夜のはずだった。未来につながるかもしれない時間だった。なのに――。  これまでのことを反芻しながらキッチンに立ち、何の気なしに冷蔵庫を開ける。中には、見覚えのある常備菜。三好が作ったものだった。ここで生活しているのが彼だという証拠みたいに、俺の目に映る。 (……なんで)  自分で自分に問いかけて、答えが出ない。そのとき、玄関の鍵が回る音がした。反射的に冷蔵庫を閉めて、玄関に視線を注ぐ。 「……恒一?」  やけに疲れた声だった。夜勤明けの少し掠れた声が耳に届き、リビングの扉の前に立つ。廊下に立つ三好と目が合った瞬間、時間が止まったように感じた。 「……おかえり」 「……ただいま」  言ってから、違和感に気づく。ここは、三好の家だった。 「恒一……今日、彼女と会ったんですよね」  三好は責めるでもなく、確認するように言った。 「ああ」 「そうですか」  それだけ言って制服姿のまま、ゆっくりリビングに入ってくる。 「ちなみに、なんでここに?」  三好に聞かれて、初めて言葉に詰まった。 「……わからない」 「わからない?」 「気づいたら、ここに来てた」  俺の返事を聞いた三好は、少しだけ目を伏せた。 「合鍵、使っていいって言いました」 「……ああ」 「だから、責めません」  淡々とした口調が、逆に胸を締めつける。 「でも――」  三好は一歩、あからさまに俺から距離を取った。 「条件は、忘れないでください」  条件――本命ができるまで期待しない。けして深入りしない。三好に条件を告げられたことで、はっきりと自覚した。 (――破っているのは、どっちだ)  自身に問いかけた瞬間、答えはもう出ていた。 「直人」 「はい」  反射的に名前を呼ぶと、三好は顔を上げた。俺に注がれる視線はまっすぐで、そこに濁りはない。 「……今日は泊まらない。このまま帰る」 「わかりました」  その返事は、役として完璧だった。なのに、玄関に向かいながら思ってしまう。彼女と会った夜に無意識に選んだのが、この部屋だったという事実を。  合鍵は、ただの合理性なんかじゃない。それを認めた瞬間、もう戻れなくなる気がして――一番怖かった。

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