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第二章 無意識に選ばれた部屋

 店を出たのは、二十一時を少し回った頃だった。 「今日はありがとうございました」 「こちらこそ。楽しかったです」  先輩に紹介された彼女は礼儀正しく気遣いもできて、悪いところは何一つなかった。先輩が安心して、俺に薦めた理由もわかる。  ――ちゃんとした人。結婚を考えるなら、こういう相手なんだろう。  彼女と駅の改札で別れ、電車に乗る。座席に身を沈めた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。  悪くなかった。彼女と会話も弾んだ。それなのに、胸の奥だけが置き去りにされたみたいに落ち着かない。  スマートフォンを取り出して無意識に画面を見るが、通知はない。 (……直人に連絡する必要はない)  そう思って、画面を伏せた。  あれこれ考えているうちに降りる駅を間違えそうになって、慌てて立ち上がる。改札を抜けて夜風に当たったところで、ようやく気づいた。 (――ここ、直人の家の最寄りじゃないか)  一瞬、足が止まる。自宅に戻ろうと思えば、戻れる距離。でも俺の手はポケットに伸びていた。合鍵の感触が指先に伝わる。迷いはなかった。 「……」  理由を探す前に体が動く。合鍵で直人の家の扉を開ける音は、驚くほど静かだった。  玄関に入ると、リビングの電気は消えている。直人はまだ帰っていないか、もう寝ているか。 「……」  靴を脱ぎ、室内に入る。この部屋の匂いを、もう知っていることに胸がざわつく。電気をつけてソファに腰を下ろした瞬間、深く息を吐いた。  今日は、ちゃんとした夜のはずだった。未来につながるかもしれない時間だった。なのに――。  これまでのことを反芻しながらキッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。中には、見覚えのある常備菜。三好が作ったものだ。ここで生活しているのが彼だという証拠みたいに、俺の目に映る。 (……なんで)  自分で自分に問いかけて、答えが出ない。そのとき、玄関の鍵が回る音がした。反射的に冷蔵庫を閉めて、玄関に視線を注ぐ。 「……恒一?」  やけに疲れた声だった。夜勤明けの少し掠れた声が耳に届き、リビングの扉の前に立つ。廊下に立つ三好と目が合った瞬間、時間が止まったように感じた。 「……おかえり」 「……ただいま」  言ってから違和感に気づく。ここは、直人の家だ。 「……今日、彼女と会ったんですよね」  三好は責めるでもなく、確認するように言った。 「ああ」 「そうですか」  それだけ言って制服姿のまま、ゆっくりリビングに入ってくる。 「恒一……なんで、ここに」  三好に聞かれて、初めて言葉に詰まった。 「……わからない」 「わからない?」 「気づいたら、ここに来てた」  俺の返事を聞いた三好は、少しだけ目を伏せた。 「合鍵、使っていいって言いました」 「……ああ」 「だから、責めません」  淡々とした口調が、逆に胸を締めつける。 「でも」  三好は一歩、あからさまに俺から距離を取った。 「条件は、忘れないでください」  条件――本命ができるまで期待しない。深入りしない。  三好に条件を告げられたことで、はっきりと自覚した。 (――破っているのは、どっちだ)  問いかけた瞬間、答えはもう出ていた。 「直人」 「はい」  反射的に名前を呼ぶと、三好は顔を上げた。俺に注がれる視線はまっすぐで、そこに濁りはない。 「……今日は泊まらない。このまま帰る」 「わかりました」  その返事は完璧だった。役として正しい。なのに、玄関に向かいながら思ってしまう。  彼女と会った夜に無意識に選んだのが、この部屋だったという事実を。  合鍵は、ただの合理性なんかじゃない。それを認めた瞬間、もう戻れなくなる気がして――一番怖かった。

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