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第三章 条件を守るための嘘

 真由と二度目に会ったのは、休日の午後だった。駅前で待ち合わせをして、映画を一本観たあと、近くのカフェへ入る。  前回と同じように会話は途切れなかった。互いに映画の感想を話して、仕事の愚痴を少しこぼしつつ、有意義な休日の過ごし方を笑いながら聞く。  楽しい時間だった。少なくとも、そう感じているはずだった。 「高瀬さんって――」  コーヒーカップを両手で包みながら、真由がふと笑う。 「思っていたより、優しいですよね」 「そうですか?」 「はい。もっと堅い人かと思ってました」  自覚はない。首を傾げると、真由は小さく肩をすくめた。 「紹介の話を受けてくださった時も、断るなら断るで、ちゃんと会ってからにしようって考える人なんだろうなって」  図星だった。返事に困っていると、真由が少しだけ視線を落とした。 「高瀬さん」 「はい」 「ひとつ、聞いてもいいです?」  そのかしこまった物言いに、なぜか背筋が伸びる。彼女は落とした視線を再び上げて、俺の顔をきちんと見る。 「何ですか?」 「誰か、いるんですか?」  真っ直ぐに注がれるまなざしと同時に、訊ねられたセリフの意味が、一瞬わからなかった。そのせいで妙な間が空く。 「……誰かって」 「好きな人とか――」  どこか遠慮がちに告げられた言葉を聞いて、思わず苦笑する。 「や……そんなの、いませんよ」  そう答えながら、脳裏に浮かんだ顔があった。夜勤明けで眠そうな顔や、味噌汁を飲みながら、はにかむように笑う顔。遠慮がちに「朝ごはんとか」と言った声まで。  その全部を振り払うように、冷めたコーヒーを飲む。最初に飲んだ時よりも酸味が際立ち、苦手な風味になっていた。 「そうですか」  真由は静かに頷いた。そして、少しだけ困ったように笑う。 「でも、高瀬さん」 「はい」 「たぶん、その人のことばかり考えてますよね。今も――頭の中に浮かんでいません?」  言葉が止まった。反論しようとして、できなかった。しかも、真由は責めるような顔をしていない。むしろ、どこか優しかった。 「だから、私じゃないと思うんです」 「あ……すみません」  自然と頭が下がる。真由は慌てたように首を振った。 「謝らないでください」  言いながら瞳を細めて、少しだけ寂しそうに笑う。 「高瀬さんと話すの、すごく楽しかったです。でも話せば話すほど、高瀬さんの影に誰かがいるなって言うのが、時折目についてしまって」  その言葉に、ハッとさせられる。目を泳がせて、前回と今回のことを反芻してみるが、思い当たるフシが見当たらない。  しばらく沈黙が続いたあと、真由が勢いよく立ち上がった。 「次はちゃんと、その人を追いかけてくださいね」 「……え?」 「高瀬さん、案外鈍そうなので」  そう言って笑う真由は、最初に会った時よりずっと柔らかく見えた。  一緒に店を出て駅まで歩く。別れ際、真由は軽く手を振った。 「今日は、ありがとうございました」 「こちらこそ……」  改札を抜けていく背中を見送りながら、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。  好きな人なんていない。そう思っている。なのに、真由の言葉だけが妙に胸に残って離れなかった。  ――そして三日後。その言葉の意味を考える暇もないまま、俺は直人に突き放されることになる。  夜勤明けで、外はまだ薄暗い。俺は有給消化日で、珍しく直人の帰りを自宅で待っていた。合鍵で入ってくる音と制服姿のままの疲れた顔。それは、いつもと変わらない。 「おかえり」 「……ただいま」  三好は靴を脱ぎながら、少しだけ視線を逸らした。その仕草が、これから聞く言葉の予告みたいになぜか思えた。 「シャワー、先に使いますね」 「ああ」  バスルームのドアが閉まる。水音を聞きながら、胸の奥の違和感を整理しようとした。 (――彼女と最初に会ったあの日、なぜ自分は合鍵で直人の家に行ったのか。なぜ、直人は何も言わなかったのか)  シャワーが止み、三好が出てくる。髪はまだ湿った状態で、部屋着に着替えている。 「……恒一」 「ん?」  少しだけよそよそしい呼び方が、俺の耳に落ちた。 「この前のこと、なんですけど」 「……ああ」  三好は、きちんと向き直った。警備の報告書を書くときみたいに、妙に姿勢が整っている。それに対し俺は前屈みでソファに座り、彼を見上げた。いつもより真剣なまなざしが俺を捉える。 「考えてみたんです」 「何を?」 「合鍵の使い方」  合鍵という言葉に、胸がざわついた。三好の前髪から水滴が落ち、こめかみから頬を滑っていく。まるで、涙のように。 「不便、だったか?」 「いえ。むしろ、助かってます」  即答だった。それから、ほんの一瞬だけ間を置く。 「でも……」 「……」 「勘違いしないように、しておこうと思って」  なぜだかわからないが、嫌な予感がした。 「だから、正直に言いますね」  まぶたを伏せた三好は頬を濡らす水滴を無造作に拭い、静かに言った。 「恒一が彼女と会った夜、俺の家に来たのが……」  ここで一度、息を吸う。その妙な間が、さらに俺を不安に陥らせた。 「少し、都合がよかったです」  その言い方は、わざと感情を削いだみたいに平坦だった。しかも告げられた言葉が、すぐに意味を結ばない。 「それ……どういう意味だ」 「あの時は夜勤明けで、頭が回ってなかったんです」 「……」 「誰かがいる部屋に帰るの、すごく楽で――」  淡々と説明する三好の声を、俺は凝視しながら聞き入る。目に映る三好の面持ちから、彼の感情を読み取ろうと必死だった。 「恒一、俺にとっては」  俺からの視線を避けるように、三好は顔を俯かせる。 「恋人として恒一に選ばれたとか、そういうことじゃなくて」 「……」 「たまたま近くにあった都合のいい場所、みたいな」  その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。そう言われて安心するはずだった。契約通りなら、それでいいはずなのに。 「そうか……」  大学からの長い付き合いだからこそ、イヤでもわかってしまう。三好の嘘は、必ず自分を低く見積もる形を取る。相手を傷つけないためじゃない。自分が傷つく方を進んで選んでしまう。 (これ以上直人を傷つけないためにも、俺がやらなきゃならないのは――) 「直人」 「条件、守りましょう」  三好は静かに言った。俺が口火を切る前に、先に線を引かれてしまう。 「本命ができるまでの関係。期待しない、深入りしない」  三好は、一つずつ口にする。まるで、自分に言い聞かせるように。 「だから――」  ようやく俺を見た三好の顔は明らかに作り笑いで、どこか悲しげだった。 「だから合鍵を使うのも、用事があるときだけにしませんか」 「……用事、って」 「生活上、必要なときです」  俺は、何も言えなかった。  それは正しくて合理的。しかも契約通り――なのに、胸の奥が次第に冷えていく。 「俺は、それで大丈夫です。だって役ですから」  三好は、最後に笑いながら言った。目の前で見せつけられるぎこちない笑みに、目が釘付けになる。『役』――それは俺たちの関係を始めたときの言葉で、そして今、終わらせるために使われた言葉だった。 「……わかった」  そう答えた瞬間、三好の瞳がほんのわずかに揺れた。でも、すぐに戻る。 「ありがとうございます」  礼を言われる筋合いじゃない。そう思ったのに、言葉にできなかった。  その日の夜、三好は自分の家に帰った。  ――三好直人は、条件を守るために嘘をついた。そして俺は、その嘘を受け入れてしまった。  それが、どれほど取り返しのつかない選択か。条件を守った代わりに、何を失ったのか。この時点では、まだ理解していなかった。

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