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第七章 役を降りる夜
三好が嘘をついてから、一週間が経った。連絡は減っていない。会う回数も変わらない。
なのに、距離だけが的確に測られるようになった。渡した合鍵は使われず、夜勤明けでも三好は必ずメッセージを送り、インターホンを押す。
「今から伺ってもいいですか」
「こんばんは。お邪魔します」
完璧な役――完璧すぎて、逆に息が詰まる。
その夜、俺は連絡もせずに三好の家へ向かった。合鍵で静かに扉を開けると、部屋の灯りがついていた。
「……恒一?」
三好は部屋着のまま、テーブルにシフト表を広げていた。俺の姿を見て、ほんの一瞬だけ目を見開いたあと、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。その切り替えの速さに、胸がチクリと痛んだ。
「連絡なしでごめん」
「……いえ」
三好は立ち上がり、キッチンへ向かおうとする。その背中を見ながら、俺は慌てて呼び止めた。
「直人」
振り向いた三好の顔は、丁寧に感情を殺していた。いつも見ている顔と明らかに違う。俺は意を決して口火を切った。
「……その話し方、やめてくれ」
「え?」
「役みたいな声で話すの、俺は嫌だ」
三好の指が、わずかに震えた。見ないふりをしようとしたが、もう限界だった。
「俺が決めた条件を、逃げるための盾にするな」
三好はしばらく黙っていた。やがて、静かすぎる声で言った。
「……彼女とは、どうでしたか」
その一言で、俺は確信した。三好はもう心のどこかで、身を引く準備を終えていることを。
「直人、聞いてくれ」
俺は迷わず一歩近づく。三好が後退りしないように必死に堪えているのが、妙な身体の強ばりでわかった。
(――逃げずに聞いてくれるだけ、まだありがたい)
「あの日、彼女と会った夜……俺は無意識に三好の家に来た。帰る場所が、ここだって思ったんだ」
三好の瞳が大きく揺れた。
「恒一は……そう言っても、俺は選ばれたわけじゃない」
「違う」
「違います」
「違うんだよ!」
初めて声を荒げた瞬間、三好の肩が小さく跳ねた。上目遣いに俺を見るその瞳に、恐怖と諦めが混じっているのが痛いほど見てとれる。
「もう、無理だ……」
俺は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
「直人、役を降りてくれ。身代わりなんて、もうやめろ」
三好の両手が、きつく拳になる。唇を噛みしめ、必死に何かを堪えているのが伝わってきた。
「……それは、契約違反です」
声が震えていた。涙が一筋、頰を伝う。それでも三好は、必死に無表情を保とうとした。
「違反でかまわない。俺が全部壊す」
三好の瞳から、堰を切ったように涙が溢れる。次々と涙が落ちるのを見て、俺はもう言葉を重ねるのをやめた。
「……直人」
俺は一歩踏み込み、彼の身体を引き寄せながら強く抱きしめると、三好の肩がびくりと震えた。最初は抵抗するように身体を硬くしていたが、俺が力を緩めずに抱き続けると、ゆっくりと強張りが抜けていった。
「彼女と会うのも、結婚を考えるのも……全部、やめる」
三好の背中に回した手に力を込めながら、俺は低く、はっきりと言った。
「それでも、俺はおまえを選ぶ。迷うかもしれない。怖いかもしれない。それでも、俺は直人を選ぶ」
三好の顔が俺の肩に埋まる。熱い涙がシャツに染みて、肩が小刻みに震えていた。
「……俺、恒一に選ばれる覚悟なんて……ないんです」
その言葉が、俺の胸を抉った。
ずっと都合のいい関係で誤魔化してきたのは、俺も同じだった。三好を「安全な選択肢」にしていた。選ばない理由を、条件のせいにして――。
「逃げるな、直人」
室内に、重い沈黙が落ちた。どれくらいの時間が経っただろうか。三好の嗚咽が徐々に小さくなり、代わりに荒い息遣いだけが俺の胸に響く。
俺は彼の後頭部に片手を当て、ゆっくりと髪を撫で続けた。もう片方の手は背中を包み込むように固定し、逃げられないように、けれど痛くならない程度の力で抱きしめ続ける。
三好の心臓の鼓動が、俺の胸板に直接伝わってくる。早くて、不規則で、怯えているような、それでいて縋るような——そんな鼓動だった。
俺も無言だった。余計な言葉を挟めば、また三好が「役」に逃げてしまう気がした。ただ、身体で伝える。この腕の力で選ぶという意志と一緒に、全部受け止める覚悟を黙って伝え続けた。
三好の指が、俺のシャツの背中を弱く掴む。何度も掴んでは離し、また掴む。その繰り返しが、彼の葛藤を物語っていた。
長い、長い沈黙のあと。三好が俺の胸に顔を埋めたまま、掠れた声でようやく言った。
「もぅ……ズルいです、恒一」
その声には、「役」の響きは一切なかった。それは初めて聞く、感情のこもった三好直人の声だった。
――この夜、ふたりはようやく役を降りた。
長い沈黙のあと、三好はゆっくりと息を吐いた。
「正直……今すぐ、答えは出せません」
「わかってる」
それ以上踏み込まなかった。踏み込めば、また役を与えてしまう気がした。
「直人、とりあえず今日は帰る」
「……はい」
三好は引き留めなかった。それが、彼なりの誠実さだとわかっている。
玄関で靴を履きながら、ポケットに手を入れた。この家の合鍵がそこにある。
一度、出しかけて――やめた。
「……これ」
代わりに三好が言った。小さな音と一緒に、シューズケースの上に鍵が置かれる。俺の家の合鍵が玄関の灯りを受けて、無意味に光り輝いた。
「返します」
「……理由は」
「条件、終わったので。役として、持つ理由がなくなりました」
声は落ち着いている。でもその指先がわずかに震えているのを、俺は見逃さなかった。
「役を降りたなら――」
三好はいつもの口調で続けた。
「これは、持ってるべきじゃない」
俺はしばらく鍵を見つめてから、首を振った。
「違う」
「……」
「役を降りたから、返すんじゃない」
鍵をつまみ、三好の手に持たせる。
「役じゃなくなったから、要らなくなっただけだ」
「……恒一」
「おまえを選ぶって言っただろ。こうして行き来しないで、一緒に暮らさないか?」
熱を込めた口調で、はっきり言った。三好が逃げないように。どこにも行かないように。
「俺は直人と一緒に暮らしたい。愛してるからさ」
三好は唇を噛んだ。そして、観念したように鍵を握りしめて引っ込める。
「そんな誘い文句……卑怯です」
「わかってて言ってる」
それでも俺は、逃げないと決めた。
「じゃあ」
三好は目を伏せたまま言った。
「今日は、帰ってください」
「ああ」
扉を開ける前に振り返った。
「明日」
「……」
「夜勤、明けだろ」
「はい」
「朝飯、食べに来い」
「……それは」
「合鍵、使わなくていい」
無防備でいる三好に顔を寄せて、唇を重ねた。俺の挙動に驚いたのか、顔を真っ赤にして後退りする。
「俺の家に着いたら、インターホンを鳴らせよ」
耳まで赤くした三好は、ほんの少しだけ笑った。
「……わかりました」
それは、役の返事じゃなかった。ただの、生活の返事だった。
翌朝。インターホンの音で、目を覚ました。時計を見ると、七時少し前。扉を開けると、三好が立っていた。夜勤明けの疲れた顔。でも、どこかすっきりしている。
「おはようございます」
「おはよう」
それだけで、不思議と胸が落ち着く。
「……入っていいですか」
「ああ」
部屋に入った三好は、少しだけ周囲を見回した。自分の部屋とは違う、でも、知っている匂いを嗅いでる気がした。
「コーヒー、淹れる」
「お願いします」
ふたり分、何も言わずに。
テーブルに並んで座る。条件も、役も、もう口にしない。
「……恒一」
「ん」
「選ぶ、って――」
三好は視線を彷徨わせながら、言葉を探す。
「続ける、って意味ですよね」
「そうだ」
「簡単じゃないですよ。そこのところ知ってます?」
「知ってる」
俺は、コーヒーカップを置いた。
「でも」
隣にいる三好を見る。役をしてるときの表情じゃない、自然体の彼がそこにいた。
「一緒にいる理由を、嘘にしない」
三好は、しばらく黙っていた。そして、ようやく頷く。
「……じゃあ」
「ん」
「俺も」
一度だけ息を吸って、柔らかく微笑む。
「逃げない努力、します」
恋人として完璧な答えじゃない。でも、それでいい。
窓の外は、すっかり明るくなっていた。夜は終わり、いつもの生活が始まる。役を降りたのは昨夜。恋人になるのは、これからだ。
俺は、静かに思った。
――選ばれる覚悟は、選ぶ覚悟と同じ重さだ。それを今度は、もう間違えない。愛する人が、安心して隣で笑っていられるように。
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