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第四章 役を降りる夜

 三好が嘘をついてから、一週間が経った。連絡が減ったわけじゃない。会わなくなったわけでもない。それでも、わかってしまった。  距離が、きっちり測られるようになった。近づきすぎないように。間違えないように。  合鍵は使われない。夜勤明けでも三好は一度メッセージを送ってから自宅に来て、インターホンを押すようになった。 「今から伺ってもいいですか」 「こんばんは。お邪魔します」  役として完璧だ。完璧すぎて息が詰まる。  その夜、俺は仕事帰りに三好の家へ向かった。連絡はしていない。理由も用事もない。それでも、ここに来た。  合鍵で扉を開けた瞬間、部屋の灯りがついているのが見えた。 「……恒一?」  三好は部屋着で、テーブルに書類を広げていた。警備会社のシフト表だろう。 「ごめん、連絡しないで来た」 「……いえ」  一瞬の沈黙。それだけでわかる――歓迎されていないわけじゃない。三好にとって、想定外だっただけだ。 「用事、ありました?」 「……ない」  言ってから、取り消したくなった。三好は少し困ったように笑う。 「とりあえず……お茶、淹れますね」  その背中を見た瞬間、胸の奥で何かが切れた。 「直人」 「はい」  振り向いた顔は穏やかだ。線の内側に、きちんと収まっている。 「……その話し方、やめてくれ。役みたいな声で話すの」 「え?」 「距離を測るみたいな」 「測ってません」 「嘘だ」  言い切った声に、三好が反論する。 「俺は、条件を守ってるだけです」 「それが嫌なんだって言ってる」  自分でも驚くほど、はっきり言葉が出た。 「俺が決めた条件だろ」 「はい」 「でも……」  いつもは居心地のいい三好の家。今は、俺自身が不穏な空気を漂わせてる。そんな中で思い切って息を吸い、吐く勢いを使って二の句を継げる。自分の気持ちが届くように。 「それを盾にされるのは、違う。守るための条件を、逃げる理由にするな」  無表情の三好は、しばらく何も言わなかった。やがて、静かに口を開く。 「……彼女とは、どうでした?」 「……」 「ちゃんとした人、なんですよね」  それを聞いた瞬間、確信した。三好は、もう逃げ道を用意している。 「直人」 「はい」 「俺は、あの日」 「……」 「彼女と会った夜、ここに来た」  三好の指が、わずかに動く。 「無意識に」 「……」 「帰る場所みたいに、ここを選んだ」  言葉にしただけで、胸が苦しくなる。無自覚な行動の理由がわかっているせいだった。 「恒一はそう言っても……」  三好は、きれいな声で言った。 「俺が選ばれたわけじゃないですよね」 (――それだ。三好は、最初からここに逃げ込むつもりだ) 「違う」 「違いません」 「違うだろ!」  初めて声を荒げたことで、三好はビクッと肩を竦める。 「直人、聞いてくれ」  体を縮こませた三好は、何も言わない。上目遣いで窺うように俺を見、きゅっと唇を引き結ぶ。 「役だとか条件だとか全部、俺が作った」 「……はい」 「でもな」  一歩だけ、三好と距離を詰める。無表情だった面持ちは、今は何かに耐えるように歪み始めた。 「もう、無理だ……」  思いを吐き出した瞬間、三好が息を呑むのがわかった。その名前を呼ぶまでに躊躇したが、告げずにはいられない。 「直人、役を降りてくれ」 「……恒一」 「身代わりなんて、もうやめろ」  室内に沈黙が落ちる。三好の両手に拳が作られた。 「……それは」  三好は、絞り出すように言った。 「明らかな契約違反です」 「違反でいい」 「……」 「俺が壊す。条件も何もかも」  三好の瞳から、次々と涙が溢れ落ちる。それは役じゃない、内なる感情を露わにした顔だった。 (ここで目を逸らしたら、俺は一生コイツを失う――) 「彼女と会うのも」 「……」 「結婚を考えるのも」  嗚咽を堪えて涙を流す三好を見ながら、俺はハッキリ言った。 「全部、やめる」  三好は袖で涙を拭い、何度も首を振る。 「恒一、それでも」 「……」 「俺は、選ばれたくないです……」  その言葉は嘘じゃない。長い時間をかけて作った、三好の本音だろう。 「……俺、恒一に選ばれる、かっ、覚悟がないので」  そこで、ようやくわかった。三好を解放するには、説得じゃ足りない。 (俺が直人を選ぶしかないんだ――) 「……直人」 「はい……うっ」 「俺は」  一拍置いて、泣きじゃくる三好の頬を両手で包み込み、顔を突き合わせた。そして、心を込めて告げる。 「君を選ぶ」  迷わないためじゃない。迷っても戻る場所として。条件も、役も、全部置き去りにして。 「だから、俺から逃げるな」  長い沈黙のあと、三好はぽつりと言った。 「…… 恒一、ズルいです」  それは初めて聞く、感情のこもった声だった。  ――この夜、ふたりはようやく役を降りた。  長い沈黙のあと、三好はゆっくりと息を吐いた。 「正直……今すぐ、答えは出せません」 「わかってる」  それ以上踏み込まなかった。踏み込めば、また役を与えてしまう気がした。 「とりあえず、今日は帰る」 「……はい」  三好は引き留めなかった。それが、彼なりの誠実さだとわかっている。  玄関で靴を履きながら、ポケットに手を入れた。この家の合鍵がそこにある。  一度、出しかけて――やめた。 「……これ」  代わりに三好が言った。小さな音と一緒に、シューズケースの上に鍵が置かれる。俺の家の合鍵が玄関の灯りを受けて、無意味に光り輝いた。 「返します」 「……理由は」 「条件、終わったので。役として、持つ理由がなくなりました」  声は落ち着いている。でもその指先がわずかに震えているのを、俺は見逃さなかった。 「役を降りたなら」  三好はいつもの口調で続けた。 「これは、持ってるべきじゃない」  俺はしばらく鍵を見つめてから、首を振った。 「違う」 「……」 「役を降りたから、返すんじゃない」  鍵をつまみ、三好の手に持たせる。 「役じゃなくなったから、要らなくなっただけだ」 「……恒一」 「君を選ぶって言っただろ。こうして行き来しないで、一緒に暮らさないか?」  熱を込めた口調で、はっきり言った。三好が逃げないように。どこにも行かないように。 「俺は直人と一緒に暮らしたい。愛してるからさ」  三好は唇を噛んだ。そして、観念したように鍵を握りしめて引っ込める。 「そんな誘い文句……卑怯です」 「わかってて言ってる」  それでも俺は、逃げないと決めた。 「じゃあ」  三好は目を伏せたまま言った。 「今日は、帰ってください」 「ああ」  扉を開ける前に振り返った。 「明日」 「……」 「夜勤、明けだろ」 「はい」 「朝飯、食べに来い」 「……それは」 「合鍵、使わなくていい」  無防備でいる三好に顔を寄せて、唇を重ねた。俺の挙動に驚いたのか、顔を真っ赤にして後退りする。 「俺の家に着いたら、インターホンを鳴らせよ」  耳まで赤くした三好は、ほんの少しだけ笑った。 「……わかりました」  それは、役の返事じゃなかった。ただの、生活の返事だった。  翌朝。インターホンの音で、目を覚ました。時計を見ると、七時少し前。  扉を開けると、三好が立っていた。夜勤明けの疲れた顔。でも、どこかすっきりしている。 「おはようございます」 「おはよう」  それだけで、不思議と胸が落ち着く。 「……入っていいですか」 「ああ」  部屋に入った三好は、少しだけ周囲を見回した。自分の部屋とは違う、でも、知っている匂いを嗅いでる気がした。 「コーヒー、淹れる」 「お願いします」  ふたり分、何も言わずに。  テーブルに並んで座る。条件も、役も、もう口にしない。 「……恒一」 「ん」 「選ぶ、って」  三好は視線を彷徨わせながら、言葉を探す。 「続ける、って意味ですよね」 「そうだ」 「簡単じゃないですよ。そこのところ知ってます?」 「知ってる」  俺は、コーヒーカップを置いた。 「でも」  隣にいる三好を見る。役をしてるときの表情じゃない、自然体の彼がそこにいた。 「一緒にいる理由を、嘘にしない」  三好は、しばらく黙っていた。そして、ようやく頷く。 「……じゃあ」 「ん」 「俺も」  一度だけ息を吸って、柔らかく微笑む。 「逃げない努力、します」  恋人として完璧な答えじゃない。でも、それでいい。  窓の外は、すっかり明るくなっていた。夜は終わり、いつもの生活が始まる。  役を降りたのは昨夜。恋人になるのは、これからだ。  俺は、静かに思った。  ――選ばれる覚悟は、選ぶ覚悟と同じ重さだ。それを、今度は絶対に間違えない。愛する人が安心して、隣で笑っていられるように――

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