7 / 24
エピローグ
高瀬と一緒に暮らし始めて、まだ一ヶ月も経っていない。
正確には「一緒に暮らす」と決めたわけじゃない。自然にそうなった。ふたりで頭を悩ませて契約した家で朝飯を食べて、そのまま眠って、起きたら彼がコーヒーを淹れていて。
ひとりきりだった日常が気づけば、ふたり暮らしが当たり前になっていた。
「直人、よそいきのネクタイどこだっけ」
「左の引き出しです」
「助かる」
朝の慌ただしい時間。高瀬は相変わらず要領がいいようで、どこか抜けている。ネクタイを締めながら鏡の前で少し苦戦している背中を見て、思わず口元が緩んだ。
――こんなふうに思うのは、まだ慣れない。
以前なら、ここで一歩引いていた。役として、条件として、適切な距離を測っていた。でも今は、その必要がない。
代わりに、別の緊張がある。
選ばれたという事実が、まだ体に馴染んでいない。
「……直人?」
「はい」
「ぼーっとしてる」
ネクタイを締め終えた高瀬が、こちらを見る。心配そうでも、急かすでもない、いつもの目だ。
「ここのところ、夜勤続きで」
「無理すんなよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
無理をしないという選択肢を、自分が持っていいなんて思っていなかった。
「恒一……今日は、定時で帰ってきますか」
「ん。残業がなければ」
「夕飯、どうします」
「直人が食べたいものでいい」
その一言が、何度聞いても嬉しい。自分の希望が、生活の前提に組み込まれている感覚。条件でも役でもなく、「一緒に暮らす人」として扱われている。
「じゃあ、魚にします」
「渋いな」
「警備員なので」
「それ、関係ある?」
屈託なく笑い合う。こんなやり取りも、以前は想像できなかった。
玄関まで見送り、高瀬が靴を履く。
「直人」
「はい」
「……行ってきます」
一瞬、言葉に迷ったあとで、彼はそう言った。
――行ってきます。
それが「戻ってくる」という意味を含んでいることを、今はもう疑わない。
「……いってらっしゃい」
扉が閉まる音を聞いて、静かな部屋に戻る。さっきまであった体温が、まだ空気に残っている気がした。
テーブルの上には、ふたり分のマグカップ。洗い忘れたわけじゃない。あえて、残してある。
ひとりになって、ようやく気づく。
自分はまだ、少し怖い。また選ばれなくなるんじゃないか、じゃなくて。この穏やかさを、失う覚悟ができていない。
それでも――。
高瀬は言った。「君を選ぶ」と。
条件を壊して、合理性を捨てて、それでもなお――だから俺も逃げない。
完璧な恋人にはなれないし、期待に応えられる保証もない。それでも、一緒にいる努力は続ける。
窓から差し込む朝の光が、床に伸びている。
夜はもう終わった。役を降りたのは、あの日。これからは、恋人として生きる。
俺はエプロンをつけて、夕飯の献立を考え始めた。帰ってくる場所を、ちゃんと守るために。
おしまい
★このあと、その後のふたりを番外編で連載します。お楽しみください!
「同棲すれば、全部うまくいくと思っていた」
契約関係から始まり、互いを“選んだ”はずの二人。
けれど、炊飯器の選び方、洗濯物の干し方、寝る位置――そんな些細な日常の中で、どうしても埋まらない距離が顔を出す。
甘えるのが下手な三好と、選び続ける覚悟を決めた高瀬。
怒ることも、拗ねることも、愛情だと学んでいく同棲生活。
「怒るのも愛情だって教えるのは――実際のところ簡単じゃないな」
選んだ“その先”を描く、静かで甘い同棲BL🥰
ともだちにシェアしよう!

