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第八章 帰る場所

 高瀬と一緒に暮らし始めて、まだ一ヶ月も経っていない。朝、目を覚ました時に隣の部屋から物音が聞こえることにも。洗面所に歯ブラシが二本並んでいることすら、まだ完全には慣れていなかった。  正確には「一緒に暮らす」と決めたわけじゃない。自然にそうなった。ふたりで頭を悩ませて契約した家で朝飯を食べて、そのまま眠って、起きたら彼がコーヒーを淹れていて。  冷蔵庫を開けるたび、俺のものだけだったスペースに高瀬のビールや好きなチーズ、ヨーグルトが当たり前のように並んでいることに、まだ少し違和感を覚える。パックの牛乳も、いつの間にか大きなサイズに変わっていた。  以前は一人で十分だった食材が、今は二人分として考えられている事実に、胸の奥がじんわりと熱くなる。  洗濯機を回せば、明らかに増えた衣類が目に入る。高瀬のワイシャツや大きめのタオルが、俺の服と一緒に絡まっているのを見ると、面倒だと思うより先に、胸の奥が不思議と温かくなった。干す手間は確実に増えたのに、その重みがどこか心地いい。  こんなふうに誰かの生活の痕跡が、自分の日常に溶け込んでいく感覚に、まだ完全には慣れていない。 「直人、よそいきのネクタイどこだっけ」 「左の引き出しです」 「助かる」  朝の慌ただしい時間。高瀬は相変わらず要領がいいようで、どこか抜けている。ネクタイを締めながら鏡の前で少し苦戦している背中を見て、思わず口元が緩んだ。  ――こんなふうに思うのは、まだ慣れない。  以前なら、ここで一歩引いていた。役として、条件として、適切な距離を測っていた。でも今は、その必要がない。  代わりに、別の緊張がある。選ばれたという事実が、まだ体に馴染んでいない。 「……直人?」 「はい」 「ぼーっとしてる」  ネクタイを締め終えた高瀬が、こちらを見る。心配そうでも、急かすでもない、いつもの目だ。 「ここのところ、夜勤続きで」 「無理すんなよ」  その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。無理をしないという選択肢を、自分が持っていいなんて思っていなかった。 「恒一……今日は、定時で帰ってきますか」 「ん。残業がなければ」 「そうですか。夕飯、どうします」 「直人が食べたいものでいい」  その一言が、何度聞いても嬉しい。自分の希望が、生活の前提に組み込まれている感覚。条件でも役でもなく、「一緒に暮らす人」として扱われている。 「じゃあ、魚にします」 「渋いな」 「警備員なので」 「それ、関係ある?」  屈託なく笑い合う。こんなやり取りも、以前は想像できなかった。  玄関まで見送り、高瀬が靴を履く。 「直人」 「はい」 「……行ってきます」  一瞬、言葉に迷ったあとで、彼はそう言った。  ――行ってきます。  それが「戻ってくる」という意味を含んでいることを、今はもう疑わない。 「……いってらっしゃい」  扉が閉まる音を聞いて、静かな部屋に戻る。さっきまであった体温が、まだ空気に残っている気がした。  テーブルの上には、ふたり分のマグカップ。洗い忘れたわけじゃない。あえて、そこに残してある。  ひとりになって、ようやく気づく。自分はまだ、少し怖い。こうして一緒に暮らしていく内に、また選ばれなくなるんじゃないか、じゃなくて。この穏やかさを、失う覚悟ができていない。  それでも――高瀬は言った。「おまえを選ぶ」と。条件を壊して、合理性を捨てて、それでもなお――だから俺も逃げない。不器用すぎて完璧な恋人にはなれないし、期待に応えられる保証もない。それでも、一緒にいる努力は続ける。  窓から差し込む朝の光が、床に伸びている。  夜はもう終わった。役を降りたのは、あの日。これからは、恋人として生きる。  俺はエプロンをつけて、夕飯の献立を考え始めた。帰ってくる場所を、ちゃんと守るために。今夜もきっと、あの人は当たり前みたいに「ただいま」と言って帰ってくる。

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