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番外編 同棲準備中の些細な喧嘩
それは、本当に些細なことだった。
「……炊飯器、買い替えます?」
「え?」
休日の昼。同棲準備のために、俺の部屋で生活用品のリストを広げていた時だ。
三好はスマホを見ながら、いつも通り淡々と言った。
「今の、容量小さいですよね」
「まあな。でも、まだ使えるだろ」
「……でも」
その返事が、少しだけ遅れてなされる。そのことに、俺は気づかなかった。いや、正確には気づこうとしなかった。踏み込めば壊れる気がして、見ないふりをした。
無表情を決め込んだ三好は、静かな口調で告げる。
「どうせ一緒に住むなら、最初から揃えたいです」
「金、結構かかるぞ」
「俺も出します」
「いや、俺が――」
そこまで言ったとき、三好が唇を引き結ぶ。視線が、テーブルの端に落ちた。
「……そうですね」
その言い方に、よそよそしさを感じた。
「直人?」
「大丈夫です」
明らかに、大丈夫じゃない時の声だった。
室内に嫌な空気が漂う。しばらく沈黙が続いたあと、不意に三好が立ち上がった。
「コーヒー、淹れますね」
「……俺がやる」
「いえ」
俺から顔を逸らして逃げるようにキッチンに立つ背中が、妙に遠い。怒っている、というより――自分の居場所を畳むみたいに引っ込んでいる。
「なあ」
「はい」
返事はある。でも、三好はけして振り向かない。
「さっきの、何が嫌だった?」
「……」
俺に背中を向けたまま、仕方なさそうに答える。
「嫌、というか……」
小さく息を吸う音と、無造作にコーヒーカップを調理台に置く音が耳に届いた。
「俺、また勝手に“準備する側”に戻ってたなって」
三好が告げた言葉が、胸に鈍く刺さる。俺は、すぐに言葉を返せなかった。
「恒一に選ばれたのに」
「……」
「一緒に暮らす話なのに、俺だけ外側で考えてました」
きっと炊飯器の話――それだけのことだ。でも、三好にとっては違う。“生活に入っていいかどうか”の話になってる。
「直人」
ソファから腰を上げてキッチンまで行き、三好の隣に立つ。
「さっきの話、俺が全部決めるみたいになってたな」
「……」
「ごめん」
三好は驚いたように、こちらを見た。
「直人、怒ってる?」
「いえ……」
否定は早い。でも、そのあとがお互い続かない。どうしたらいいか思案していると、三好がぽつりと呟く。
「……怒るの、慣れてなくて」
(ああ、そうか。この男は今まで、不満より先に引くことで生きてきた)
「じゃあさ」
三好の肩に手を置き、顔を覗き込む。逃げられるかもしれないと思ったが、それでも言った。
「拗ねてみればいい。拗ねた直人はきっと可愛いし」
コーヒーを淹れる三好の手が止まった。
「それ、本気で言ってます?」
「マジ。むしろ見てみたい!」
笑いながら、思ったことを口にしてみる。
「それに甘えるのも、喧嘩するのも、生活のうちだ」
三好はしばらく黙っていたが突然、俺の袖を引いた。すごく弱い力で。
「……じゃあ」
「ん?」
「今日は、俺が炊飯器を決めます」
「いいぞ」
三好の意見を気分よく肯定して傍にある頭に頬を寄せるなり、すりりと頬擦りした。俺の行動に三好は一瞬だけ固まって、それから力を抜く。目に映る表情は、さっきよりもいい感じになっていた。
「色は、白がいいです」
「却下、黒がいい」
「……もしかして今の、喧嘩ですか?」
「そう」
一瞬きょとんとしてから、三好が吹き出した。
「ずるい」
「何が」
「喧嘩なのに楽しい!」
そう言って俺の腕に、遠慮がちに体を預けてくる。
「……これも、甘えになります?」
「そうだな」
「慣れるまで、時間かかります」
「それでも待つ」
炊飯器はまだ決まらない。でも、生活はもう始まっている。こうやって言い合って、拗ねて、戻ってくる。きっとそれが同棲だ。
俺は三好の頭に顎を乗せながら、ぼんやりと思った。
(喧嘩できるようになったの、進歩だな――)
炊き立てのご飯みたいに、少しずつ温度を揃えていけばいい。焦げても、柔らかすぎても――一緒に食べるなら、きっと悪くない。
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