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第十五章 三好が安心してしまった夜
三好と一緒に暮らし始めて、まだ二週間も経っていない。段ボールは片付いた。生活リズムもだいたい噛み合ってきた――なのに、三好は相変わらず一線を引いたままだった。
距離を取るわけじゃない。避けるわけでもない。ただ、寄りかからない。それが三好の「選ばれ方」なのだと、頭ではわかっている。
その日、俺は残業で帰りが遅くなった。玄関を開けると、リビングの灯りがついている。
「……直人?」
リビングの扉を開けたら、ソファに座っていた三好がゆっくり顔を上げた。
「おかえりなさい」
穏やかな声と柔らかい微笑み。でも、その瞳の奥に少しだけ疲れが見えた。
「まだ起きてたのか」
「夜勤前なので」
俺はネクタイを緩めながら近づき、三好の隣に腰を下ろした。自然と肩が触れ合う距離。三好は一瞬だけ体を強張らせたが、逃げはしなかった。
「飯は?」
「簡単なものなら」
颯爽とキッチンに立つ背中を見ながら思う。
(――やっぱり、甘えないんだな)
夕飯を済ませてシャワーを浴びて戻ると、三好はもうソファに横になっていた。いつもおこなっている、夜勤前の仮眠だ。
起こさないように、そっと横を通り過ぎようとしたその瞬間――不意に袖を引かれた。袖を弱く、けれど確かに引かれた。
「……?」
力はかなり弱い。指先が、布を掴んでいるだけ。それでも、確かに俺を引き留めていた。
「直人?」
「……」
三好は目を閉じたまま、何も言わない。なのに呼吸が、少しだけ乱れている。
「どうした」
「……行かないでください」
呼びかけると三好は長いまつ毛を震わせながら、小さな声で呟いた。眉根を寄せながら、一瞬意味を測る。
夜勤前だ。いつもならドライな感じで「先に休みます」「行ってきます」で終わるはずの時間。それなのに、『行かないでください』とはいったい?
「……今?」
「……はい」
それだけ。そこに理由も説明もない。ただ、袖を掴んだまま離さない。
胸の奥が、静かに鳴った。
「それさ、甘えてる自覚あるか」
「……」
少し間があってから、三好が呟くように言った。
「……ないです」
「だろうな」
俺は苦笑しながら、ソファの端に深く腰を下ろした。
「離していいぞ」
「……このままがいいです」
三好の声が、恥ずかしそうに掠れた。指先に、ほんの少しだけ力がこもる。それは俺を捕まえる力ではなく、ただ「ここにいてほしい」と伝えるだけの、か細くて愛おしい力だった。
初めて見た。条件も、役も、理屈もない三好の行動。
「眠れないのか」
「……恒一が帰るまで、起きてようと思ってたので」
「それで?」
「何だか……安心してしまって」
(ああ、これは――確実に甘えてる。しかも、本人だけが気づいていない)
俺はそっと、三好の手に自分の手を重ねて、反対の手でゆっくりと髪を梳くように撫で続ける。三好の呼吸が、少しだけ深くなった。
「夜勤、行けそうか?」
やんわり訊ねたら、恥ずかしそうで、でも確かに甘えた声で呟く。
「……少しだけ、こうしてからなら」
目を閉じたまま、三好が言う。
拒否じゃない。依存でもない。ただ、寄りかかる許可を出しただけ。
俺は背もたれに体を預けた。
「じゃあ、五分な」
「……はい」
俺は三好の身体を優しく抱き寄せ、ソファの背もたれに体を預けた。三好は俺の胸に顔を埋めるようにして、安心したように体を寄せる。
夜勤前の短い時間。言葉は少なかった。でも俺の胸に預けられた額と、袖を掴む指先が、三好の「安心」と「甘え」を静かに物語っていた。
それを意識しただけで、心臓が妙に落ち着く。
「直人」
「……はい」
「こういうのは、もっとやっていい」
「……」
少しだけ間を置いてから、とても小さな声で返事をする三好。
「それって……慣れてからで、いいですか」
「いい」
即答すると、三好がほっと息をはいた。安心するように――。
それから、少し迷うような沈黙の後に。
「……恒一」
「ん?」
上目遣いの窺うような視線を注がれる。
「もう少しだけ」
「……」
「このままで」
言った途端に、三好の目の下がほんのり赤く染まる。
「いいよ」
「……ありがとうございます」
その言葉が、役でも条件でもないことがわかる。
初めての甘えは、けして派手じゃない。言葉もかなり少ない。でも確かに「選ばれたあと」の距離だった。
俺は肩に触れる温もりを感じながら思う。
――ああ、これからだ。恋人になるのは、これから。甘やかすのも甘えるのも。全部、ここからだ。
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