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第十六章 我慢の限界
三好がおかしいと気づいたのは、ほんの些細な違和感からだった。
距離はあるが、触れないわけじゃない。だから、会話も日常も問題ない――ただ、寄りかからない。
ソファに並んで座っても、肩一つ分の隙間を確実に残す。夜、同じ部屋にいても、眠くなるまできっちり起きている。まるで俺が、先に寝落ちるのを待つみたいに。
(間違いなく……我慢してる感じ――)
それも、必死に――。
ある夜、残業で帰りが遅くなった。リビングの電気はついていて、テーブルには温め直せるようラップをかけた夕飯が置いてあるのを、三好が出てきた扉の隙間から確認する。
「おかえりなさい」
三好は、いつも通りの声で言った。表情にも変化はない。それは、見慣れた三好の姿だった。
「出迎えるの、遅くなってすみません」
「いや」
靴を脱いで、彼に変化がないかじっと顔を見つめてみた。そこで気がつく。三好の目の下に、うっすら影が見てとれる――夜勤明けでもないのにだ。出迎えるのが遅くなったのは、きっと仮眠をとっていたに違いない。
「直人」
「はい?」
逃げられないように、ずいっと顔を寄せる。途端に顎を引いて必死に距離をとる三好の態度に、内心ニヤつきつつ口を開く。
「最近、ちゃんと寝てるか」
「ね……寝てますよ」
一拍遅れた返事。しかも上擦った声が、嘘をついてることを示す。
「俺が寝るまで起きてるだろ。わかってるんだからな」
「それは……」
言葉を詰まらせた三好は、後退りしながら視線を右往左往させた。
「だって……先に寝ると、どうしても甘えたくなるので」
そういうことを真顔で言うから、胸がぎゅっとなる。可愛くて仕方ない!
(直人のヤツ、最近無自覚に爆弾を投げつけるようになったこと、わかってないだろうな。しかも本人は全部本音だから、かなり質が悪い)
「甘えたいなら、甘えればいい」
「それが問題なんです!」
視線を逸らしながら、三好はハッキリ言った。
「選ばれた立場で、それ以上求めるのは……」
「欲張りだから?」
三好は小さく頷いた。
その瞬間、三好の口元がほんの少し震えて、肩があからさまに落ちる。
「直人」
さらに近づいて、肩に手を置く。びく、と小さく身を強張らせる反応に、頭の中で疑問符が浮かんだ。
「……触らないほうがいいです」
「なんで」
「触られたら……」
そこで言葉が途切れた。目の前の顔は真っ赤に染まり、唇がさっきよりもぷるぷる震えていて、すぐに言葉が出ないのが明白だった。
「直人、逃げるな。言わないとこのままだぞ」
「うっ……だって我慢、できなくなるので」
そう言った途端だった。三好の指が、俺の上着の裾をぎゅっと掴む。無意識の自分の行動に驚いたのか、はっと目を見開いて固まった。
「……っ」
すぐに離そうとして、でも離れない。こわばった指先が、俺の上着をしっかりと掴み直す。
「直人?」
「……ごめんなさい」
声が、完全に崩れていた。
「これ以上甘えないって、決めたのに」
「……」
「恒一が優しいから」
上着を掴む力が、少し強くなる。それだけで引き寄せられるように、俺は近づいた。三好は潤んだ瞳でじっと見つめ、囁くように告げる。
「一回、許されると……」
「……」
「もっと欲しくなる。際限がなくなってしまって」
唇を噛みしめて必死に堪える顔が可愛くて、どうしてやろうかと考えたその時、重たい口が開いた。
「それが、すごく怖いんです」
もう限界だった。俺は、三好をぎゅっと抱きしめた。すると、堰を切ったように胸の中で身体が震える。
「……っ、恒一」
抵抗はない。ただ、しがみつく。
「離さないでください」
「……」
「今だけでいいから」
声が、子どもみたいに掠れていた。
「俺、欲張りになりたくないのに」
「なればいい」
「でも……」
「むしろ、欲張りになってくれ」
腕の中で、三好が小さく首を振る。
「選ばれたのに、これ以上求めたら」
「選ばれたから、だろ」
そう言うと、三好の呼吸が一瞬止まった。
「直人」
「……はい」
「甘えるのを我慢するな」
耳元で、低く告げる。
「我慢し続ける方が、壊れる」
しばらく沈黙。それから、三好が小さく声を漏らした。
「恒一……ずるいです」
「知ってる」
力が抜けたように、身体を預けてくる。
「……今日は」
「ん?」
「このまま、いてもいいですか」
甘え方が不器用で、しかも遠慮がちで。でも、逃げていない。
「いていい」
「……」
ぎゅっ、と背中に回された腕がほんの少し強くなった。
――我慢が崩れた夜。胸の中で力を抜いた三好は、もう離れようとしなかった。それは弱さじゃない。ようやく、三好直人が選ばれた側として生き始めた証拠だった。
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