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第六章 嘘をついた代償

 高瀬に嘘をついてから、気がつけば一週間が過ぎた。  夜勤明けの帰り道。始発電車の窓に映る自分の顔は、思った以上に疲れて見えた。眠いからじゃない。理由はわかっている、原因は別だ。  電車の窓ガラスに額を当てて、ぼんやり車窓を眺めていたら、胸ポケットの中のスマートフォンが震える。なんの気なしに取り出して画面を確認すると、短いメッセージが映し出されていた。 『お疲れさま』  高瀬からだった。それだけの言葉なのに、胸が痛いくらいに締めつけられる。夜勤明けの帰宅時間を把握している、彼らしいメッセージだった。  口角を上げながら、返信欄を開く。 『ありがとうございます』  少し考えてから、端的なメッセージを送信する。  だけど前なら違った。今日あった仕事の話をしたかもしれない。他にも、帰ったら何を食べるのか聞いたかもしれない。眠いとか、寒いとか。互いにどうでもいいことを、何通も送り合った。  でも今は違う。本当に必要なことだけ。条件から外れないように。期待しない。深入りしない。これらは、全部自分で言ったことだ。だからこそ、守らなければならない。  それなのに――。 (――なんで、こんなに苦しいんだろう)  スマートフォンを胸ポケットにしまい、目を閉じた。  答えはわかっている。守りたかったのは条件なんかじゃない。それは自分だった。  高瀬が本当に誰かを好きになった時、自分だけ取り残される未来が怖かった。だから先に、見えない線をくっきり引いた。  自分から傷つく前に――高瀬を失う前に……。  なのに気付けば、高瀬のことばかり考えている。  朝ごはんは食べただろうか。仕事は忙しいだろうか。またスーパーの総菜で済ませているんじゃないか。  そんなことばかり、考えないようにしても浮かんでくる。まるで癖みたいに――好きだった時間の名残のように。  自宅へ戻り、制服を脱ぐ。洗濯機を回しながら、無意識に冷蔵庫を開いた。中には作り置きの煮物がある。高瀬と二人で食べるつもりで作った量。  それを見た途端、今さら気付く。最近、自分一人分の料理を作れなくなっていた。味噌汁も卵焼きも煮物も、作るもの全部――高瀬が食べる前提で、自然と作ってしまう。 「これって……かなり重症だな」  思わず苦笑が漏れる。  ただの恋人役のはずだった。互いが納得しあった契約だった。しかも期間限定だった。最初から終わりが決まっていた。それなのに、まるで本物みたいに大事にしてしまった。  下唇を噛みしめながら冷蔵庫を閉めて、ソファに座る。  やけに静かな部屋だった。俺が嘘をついてまで高瀬と距離を置いたことが、こんなにも胸が苦しくなるなんて思わなかった。  ソファに深く腰を沈めたまま、俺は息を吐く。部屋の中から高瀬の気配が消えてしまっただけで、こんなに広く感じるなんて。  高瀬が初めてここに来た日のこと。合鍵を渡した日のこと。名前で呼び合った日のこと。朝ごはんを食べた日のこと……。  笑った顔。怒った顔。呆れた顔。全部、鮮明に覚えている。忘れられるわけがなかった。忘れたくないとさえ思ってしまう。  高瀬は優しい。優しいから勘違いしてしまう。自分だけが特別なんじゃないかと。  風邪を引けば、仕事帰りに食材を買ってきてくれる。夜勤明けには「帰ったら寝ろ」と当たり前みたいに言う。彼は気付いていないのだろうけど、そういうところがずるい。  でも違う。違うと知っている。知っているから――俺だけが彼を好きだから、これ以上は進めない。  そう思ったはずなのに――テーブルの上に置かれたマグカップを見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。以前、高瀬が泊まった時に使ったものだった。  洗ってあるし、片付いている。それでも、そこにあるだけで――この部屋に彼がいた痕跡が消えない。 「……会いたいな」  誰もいない部屋に落ちた言葉は、そのままふわりと消える。  高瀬のことを考えるだけで、否応なしに胸の奥が締め付けられる。実際に離れてみたら、こんなにも彼の存在が大きいことに気づかされて、情けなくて仕方ない。  好きだからこそ、離れなければいけない。このままではまた、都合のいい恋人役に戻ってしまう。  高瀬に本気で選ばれる資格がないのに、いつまでも彼の優しさにすがっていたい自分を、俺はもう見たくなかった……それでも。  静まり返った部屋で、俺は小さく唇を噛んだ。  本当に、これでいいのか。このまま高瀬を失っても、後悔しないと言い切れるのか答えは出ない。ただ胸が痛いことだけが、はっきりしていた。

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