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第十一章 同棲準備中の残業の夜

 残業になると高瀬から連絡が入ったのは、午後六時過ぎだった。 『少し遅くなる』  短いメッセージ。それだけなのに、スマートフォンを見たまま少しだけ肩の力が抜ける。以前なら、こんな連絡はなかった。いや、必要がなかった。恋人役だった頃は、相手の帰宅時間なんて知らなくても成立していたからだ。  でも、今は違う――。 『わかりました』  返信してから、キッチンに立つ。夕飯は肉じゃがだった。高瀬が好きな味付けで、丁寧に煮込んだ。味見をしながら、ふと小さく笑ってしまう。 (――好きな献立を言えと強請られたばかりなのに……結局、高瀬の好みに寄せてしまう)  長年の癖は、そう簡単には抜けない。   鍋の火を止めて壁の時計を見る。六時半。まだそんなに時間は経っていないはずなのに、すでに落ち着かない。テレビをつけてみたが、内容は全く頭に入らない。七時、七時半、そして八時——気づけば何度も時計を確認していた。 (……帰ってこないな)  仕事だから仕方ない。わかっている。警備員をしていれば、予定通り帰れない日なんて珍しくない。それでも誰かを待つという行為が、こんなに心を占領するなんて思わなかった。胸の奥がざわざわして、ソファに座っていても落ち着かない。  八時半を過ぎた頃、スマートフォンが着信を知らせるために震えた。 『もう少しかかる』  たった一行。それだけなのに、胸の奥がじんわり温かくなる。忙しいだろうに、それでも連絡をくれる。以前の自分なら、そんなこと期待しなかった。あえて期待しないようにしていた。  でも今は違った。少しだけ期待してしまう。高瀬がここに帰ってくることを――また一緒に食卓を囲めることを。  そして九時を回った頃、玄関の鍵が開く音がした。 「ただいま……」  疲れた声――でも聞き慣れたその声に、胸の奥が大きく波打った。 「おかえりなさい」  高瀬はネクタイを緩めながら苦笑した。 「遅くなって悪い」 「お疲れさまです。飯、まだですけど……待ってました」  自分で言ってから、顔が熱くなった。当たり前みたいに「待ってました」と口にした自分が、少し照れくさかった。  高瀬が目を丸くする。 「……待ってたのか」 「はい」  どうにも照れ臭くなって、高瀬から思いっきり視線を逸らす。 「一緒に食べようと思って」  妙な沈黙の数秒後、ふっと笑う気配がした。 「嬉しいな」  その一言で、耳がぶわっと熱くなる。 「そんな大げさな」 「大げさじゃない」  高瀬は鞄を置くと、真っ直ぐこちらを見た。 「帰ったら誰かが待ってるって、結構すごいことだから。……特に、直人が待っててくれるのは」  何気なく言ったのだろう。でも、その言葉は深く胸に落ちた。  帰る場所。以前、高瀬はそう言った。  彼女と会った帰り、この部屋を選んだと。あの時は信じられなかった。自分がそんな存在になれるなんて。  でも今は少しだけ思う。もしかしたら本当に、自分は高瀬の帰る場所になり始めているのかもしれない。 「直人」 「はい」 「腹減った」  真顔で言われて、思わず吹き出した。 「ふふっ、先に着替えてください」 「了解」  高瀬は笑いながら寝室へ向かう。その背中を見送りながら、鍋を温め直した。肉じゃがの甘辛い香りが、部屋にふわりと広がっていく。  以前は静かすぎて息苦しかったこの部屋が、もう静かじゃない。今は誰かを待つ夜も、帰ってくる人がいる夜も悪くない——いや、むしろ少し幸せだと思えるようになった。  そんな変化が、静かに確かに訪れていた。

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