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第二十三章 嫉妬なんてしていない
嫉妬なんてしていない、本当に。そもそも嫉妬する理由がない。だって、過去のことなのだから。
高瀬は俺を選んだ。しかも一緒に暮らしている。同じ食卓を囲んで、同じベッドで眠る。それ以上、何を不安に思う必要があるのか。
(――ない)
そう結論は出ている。出ているはずなのに――。
「直人」
「はい」
「それ、砂糖だぞ」
味噌汁に入れようとしていたスプーンを止める。見れば確かに砂糖だった。
「……すみません」
朝から二回目の失敗。高瀬は黙って味噌を差し出してきた。
「寝不足?」
「違います」
本当だ。昨日はちゃんと寝た。ただ――目を閉じると、写真の笑顔が浮かぶだけ。それだけだ。
それだけなのに、妙に落ち着かない。
「直人」
「何ですか」
「嫉妬してる?」
「してません」
迷うことなく即答した。高瀬は笑いを堪えるように口元を押さえる。
「いや、でも」
「してません」
「俺、まだ何も言ってない」
「言う前に否定しました」
「自覚あるんだな」
しまった、と思った。隣で高瀬が吹き出す。
「可愛いな」
「可愛くないです」
「可愛い」
「可愛くないです」
同じやり取りを三回繰り返したところで、高瀬は満足したらしい。上機嫌でコーヒーを飲み始めた。
意味がわからない。本当に意味がわからない。
その日の夜。仕事から帰宅すると、高瀬はソファでテレビを見ていた。
「おかえり」
「ただいまです」
鞄を置いて隣に座る。すると高瀬が、何気ない調子で言った。
「そういえば元カノさ」
――来た。
心の中で警報が鳴る。でも顔には出さない。出していないはずだ。
「犬を三匹飼ってて」
「そうですか」
「大型犬」
「へえ」
「毎日散歩してたな」
「そうなんですね」
平静。完璧に平静。そのはずだった。
「直人」
「はい」
「テレビのリモコン、逆だぞ」
気づけば俺は、リモコンを上下逆さまに持っていた。それを横目で見ていた高瀬が、肩を震わせる。
「笑わないでください」
「ごめん」
それは、全然反省していない顔だった。俺は深いため息を吐く。
「恒一」
「ん?」
「元カノの話、好きですね」
言った瞬間、高瀬の目が丸くなった。しまった、と思った時には遅い。
「へえ」
にやり、と笑う。嫌な予感しかしない。これまで一緒に過ごしたことによる勘は、滅多に外れない。
「気になる?」
「気になりません」
「じゃあ何で、今の言葉が出るんだ」
言いながら顔を近寄せる。それに対し、俺は顎を引いて距離をとった。
「……」
「直人」
「……」
「嫉妬?」
「違います」
高瀬はついに声を上げて笑った。
腹が立つ。ものすごく腹が立つ。その理由がわからないことも含めて腹が立つ。
「なあ」
笑いながら、高瀬が肩を寄せてくる。
「本当に嫉妬してない?」
「してません」
「じゃあ聞くけど」
「何ですか」
「元カノの話すると、機嫌が悪くなるのは何で?」
言葉が詰まった。答えられない。答えがわからない。ただ――少し考えて。少しだけ迷って。
俯きながら考えて、やっと出てきた言葉は――。
「……知らない人だからです」
「ん?」
「俺の知らない恒一を知ってる人だから」
言った瞬間、自分でも驚いた。そんなことを考えていたのか、と。写真を見た時から胸の奥が落ち着かなかった理由が、今になってやっと形になった気がした。
写真の中の笑顔も昔の話も、俺の知らない時間ばかり。俺がいなかった場所だ。
「……そうか」
高瀬の声が少しだけ柔らかくなる。
「直人」
「はい」
「それを、嫉妬って言うんだぞ」
反射的に首を振った。
「違います」
「違わない」
「違います」
「違わない」
まんま、子供みたいな言い合いになる。高瀬は困ったように笑いながら、そっと俺の頭を撫でた。
「別に悪いことじゃない」
「……」
「むしろ嬉しい」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
「俺の過去なんか、どうでもいい」
「……」
「今こうして隣にいるのは、おまえだから」
『嬉しい』『おまえだから』と高瀬はそう言う。でも俺は、まだ上手く受け入れられない。欲しいと思うことや、ひとり占めしたいというマイナスの感情を持て余してしまい、うまく対処できない。
それでも頭を撫でる高瀬の手は、すごく優しかった。だから、余計に振り払えない。
「……恒一」
「ん?」
「嫉妬じゃないです」
「はいはい」
「本当に」
「うん」
まるで信じていない返事だった。そのことが少し悔しくて、少し安心した。
俺は黙って肩を預ける。高瀬は何も言わず受け止めた。
たぶん本当に嫉妬している感情を、俺だけがまだ認めていない。
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