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第三十一章 憧れの先輩の、最近

 俺、黒川悠真は、入社三年目で高瀬恒一先輩のことを心底尊敬している。理由はシンプルだ。  仕事ができる。誰にでも公平で優しい。後輩の面倒見が異常にいい。そして何より——あの人は、いつも余裕があって、ちゃんと「大人」……のはずだった。 「高瀬先輩、今日の10時の重要会議、遅刻されますよ?」  俺は会議室の前で、先輩のスーツの袖を軽く引いた。先輩はスマホをポケットにしまいながら、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。 「ああ、悪い。ちょっと朝、用事が長引いてな」  用事って……朝の何時から、何やってたんですか? 先輩は最近、明らかに様子がおかしい。  朝イチのミーティングで、急に遠い目をしてニヤニヤしたり、資料をまじまじと見つめながら突然「ふっ……」と小さく笑ったり、今みたいに大事な会議の直前だというのに、スマホを見て幸せそうな顔をしていたり。  昨日もそうだ。会議が始まって15分遅れで入室した先輩は、謝罪の言葉を述べたあと、席に着くなり、ふっと頰を緩めた。  隣に座っていた俺には見えた。先輩の指が軽く自分の首筋を触って、まるで何か思い出してるような仕草をしていた。 (……絶対に、誰かいる)  社内では「高瀬先輩に彼女ができた」という噂が、ひそかに流れている。でも俺は違うと思う。先輩のあの顔は彼女ができたというより、人生で初めて本気で恋をした男の顔に見える感じ。  休憩時間、俺は思い切って先輩にコーヒーを渡しながら聞いてみた。 「先輩、最近……なんか幸せそうですね」  高瀬先輩はコーヒーを一口飲んで、目を細めた。 「わかるか?」 「はい。会議中も、資料を見ながらニヤニヤしてましたよ」  先輩は小さく笑った。珍しく、照れくさそうな笑い方だった。 「悪いな。ちょっと、朝からかわいいヤツに翻弄されててさ」  かわいいヤツ――その言葉だけで、先輩の表情がとろけるように柔らかくなる。  俺は、胸の奥が熱くなった。 (……ああ、そうか)  高瀬先輩は、こんな顔もするんだ。  いつも完璧で、余裕があって、後輩の俺たちから見上げていた「理想の大人」が、誰かに夢中になって、遅刻して、仕事中に思い出し笑いして、幸せそうにしている。  それが、なんだかすごく嬉しかった。  先輩はコーヒーカップを両手で包み込み、ぼんやりと窓の外を見ながら呟いた。 「黒川」 「はい」 「人生ってさ、完璧にコントロールしようとしても、結局大事なところで振り回されるもんだな」  先輩は少し自嘲気味に笑ったあと、目を細めて続けた。 「でも、その振り回される相手が、めちゃくちゃかわいいと……全然嫌じゃないんだよ」  俺は、思わず笑ってしまった。 「先輩、完全に落ちてますね」 「落ちてるな」  高瀬先輩はあっさり肯定して、満足そうに笑った。その笑顔を見ていると、俺は妙に胸が熱くなった。  憧れの先輩が誰かを本気で愛して、幸せそうにしている。それが仕事ができることや、余裕があることと同じくらい、すごく「大人」で、すごく「素敵」だと思った。  俺もいつか、あんなふうに誰かを想って遅刻して、ニヤニヤして、仕事中にぼーっとするくらい、本気で恋がしたい。  高瀬先輩は、今日も会議の資料をめくりながら、ふっと優しい笑みを浮かべていた。きっと、また「あのかわいいヤツ」のことを思い出してるんだろう。  ……先輩、今日は午後の会議も頑張ってください。俺、陰ながら応援してます。

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