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第三十五章 初めての旅行
旅行に行こうと言い出したのは、高瀬だった。
「直人」
「はい」
「温泉に行くぞ」
休日の朝。コーヒーを飲みながら、まるで「今日の夕飯はカレーだ」くらいの気軽さで宣言された。
「温泉ですか」
「ああ」
笑顔で即答する高瀬。見るからに行く気満々だ。
「二人で旅行したことないだろ」
言われてみれば、その通りだった。同棲してから半年以上。外食もしたし、映画も見たし、買い物にも行った。
けれど、泊まりで出掛けたことはない。
「嫌か?」
少しだけ不安そうに聞いてくる。その顔を見ると断れない。
「嫌ではないです」
「よし!」
高瀬は満面の笑みになった。そして――。
「旅館候補十六件」
テーブルに分厚い資料が置かれたことに、俺は絶句した。
「……十六件?」
「ああ、しかも比較表付き」
恐るおそる資料を手に取ると、料金・食事内容・露天風呂の有無・口コミ評価まで、色分けまでして完璧にまとめられていた。
「恒一」
「ん?」
「旅行会社ですか」
俺の指摘に、高瀬は誇らしげな面持ちを見せつけた。
そして当日、朝六時に目覚ましとともに、高瀬が騒ぎ出した。
「直人、起きろ」
目を擦りながら起きて、窓の外を見るがまだ暗い。
「……集合時間は?」
「九時」
三時間前だった。
「恒一」
「ん?」
「修学旅行ですか」
高瀬は、至って真顔だった。
「初旅行だからな」
高瀬は当然のように言った。まるで一生に一度のイベントであるかのように。
しかも駅に着いたのは、出発の一時間前だった。
「早いです」
「時間の余裕は大事!」
そう言いながら、駅弁を買い始める。さらにお菓子と飲み物、ガイドブック。なぜか、酔い止めまで手にする。
「車酔いしません」
「念のためだって。体調の善し悪しで、どうなるか分からないだろ」
俺は、深くため息を吐いた。
「……あれ?」
呆れ果てた俺はそのまま駅に向かい、改札をくぐろうとしたのに、高瀬が直前で固まる。
「どうしました」
高瀬は黙って、ポケットを探り始めた。胸ポケットや上着に鞄、財布、全部。
「恒一?」
この時点で、嫌な予感がした。
「ヤバぃ……チケット」
青ざめた顔で呟く。
「忘れた」
俺は天井を見上げた。
旅館比較表十六件。持ち物リスト二ページと行程表作成。その結果、本人がチケットを忘れた。
「なんで忘れたんですか」
帰宅して取りに行く羽目になった電車の中で、高瀬を肘でツンツンしながら聞く。
「直人の着替えを確認してた」
真顔で答える高瀬に、俺はうんと嫌そうな顔をした。
「自分のは?」
「確認忘れた」
意味が分からない――。
結局、三十分遅れで出発した。車窓を眺めながら、高瀬は深いため息を吐く。
「失敗した」
珍しく落ち込んでいた。
「……」
「直人との初旅行だったのに」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなる。高瀬は本気だったのだ。だから張り切りすぎた。そして、盛大に空回りした。ただ、それだけ。
「恒一」
「ん?」
「旅行、まだ始まったばかりです」
そう言うと、高瀬がこちらを見る。
「だから――」
一瞬だけ迷って、そっと袖を掴んだ。
「そんなに落ち込まなくても、大丈夫です」
高瀬の目が見開かれる、次の瞬間。
「直人」
「はい」
「今の録音したい」
「やめてください」
即答した。だが高瀬は満面の笑みだった。さっきまで落ち込んでいた男とは思えない。
(単純だな……本当に)
呆れながら窓の外を見ていると、袖を掴んでいた俺の手を、高瀬がそっと包み込むように握ってきた。離そうと思えば離せる力加減。でも、俺は離さなかった。
「楽しみだな」
子供みたいに笑う声を聞きながら、俺は小さく息を吐いた。
「そうですね」
初めての旅行は、まだ始まったばかりだった。この後さらに高瀬が旅館で大騒ぎすることを、この時はまだ知らなかった。
旅館に着いた瞬間、高瀬のテンションが明らかに上がった。
「直人!」
「はい」
「見ろよ、これ」
「何をですか」
「旅館だぞ!」
旅館だった。当然である。俺たちは、旅館に来ているのだから。それなのに高瀬は、本気で感動していた。
玄関、中庭、ロビーに案内係。すべてに反応している。修学旅行の中学生でも、もう少し落ち着いていると思う。三十代の男がはしゃいでいる様は、さぞかし可笑しく見えるだろう。
(……楽しそうだな)
少しだけ笑いそうになった。
案内された客室は広かった。和室と洋室があり、窓の外には山並みが見える。
「おお」
高瀬が感嘆の声を上げる。
「いい部屋ですね」
「ああ」
そこまでは普通だった。問題は、その次。案内係が襖を開けた瞬間だった。
「こちら、露天風呂でございます」
部屋の奥に、小さな庭付きの露天風呂は、源泉かけ流し。木の香りと静かな景色。完璧すぎて怖いくらいだった。
そして高瀬が固まった。
「……」
「恒一?」
「……」
「恒一」
「直人」
嫌な予感しかしない。
「一緒に入るか」
早かった。到着から三十秒だった。
「入りません」
即答した。
「まだ何も言ってない」
「言いました」
「そうか」
高瀬は残念そうなくせに、まったく反省していない。
荷物を整理していると、高瀬が旅行用のしおりを取り出した。例のしおりである。全十二ページで周辺の地図と旅館情報付き。しかも、高瀬が手描きしたイラスト付きの表紙までついているのである。
「直人」
「はい」
「予定を確認するぞ」
「それ、必要あります?」
「ある」
真顔だった。俺は諦めて隣に座る。
「十五時到着」
「到着しました」
「十五時十分、お茶」
「飲みました」
「十六時、温泉」
「はい」
「十七時、旅館散策」
「はい」
「十八時、夕食」
「はい」
「二十時」
高瀬が一瞬黙ったことで、嫌な予感がした。
「……何ですか」
「内緒」
「絶対、ろくなことじゃないですね」
俺は思いきって指摘する。
「まさかとは思うけど……」
「大丈夫だ。俺が全部計画してある」
「それが一番、不安なんですけど」
高瀬は視線を逸らした。完全に図星らしい。
夕方。大浴場から戻った俺は、部屋の扉を開けて固まった。
「……」
「おっ」
浴衣姿の高瀬が振り返る。問題はそこではない。問題は、その顔。ほんのり頬を染めて、明らかに数秒停止している。
「恒一」
「……」
「恒一」
「……直人」
「はい」
「その浴衣、反則じゃないか」
意味がわからない。
「普通の浴衣です」
「違う」
「何がですか」
「似合いすぎる」
高瀬は頭を抱え始めた。本気で困っている顔だった。
夕食中も様子がおかしかった。俺の皿だけがどんどん豪華になっていく。
「恒一、自分で食べてください」
「食べてる」
「全然食べてません」
結局、高瀬は俺の世話をするのに夢中だった。
食後、部屋に戻って一息ついた頃だった。
「直人」
「はい」
「二十時だ」
思い出した。しおりの空白時間、これから何をやろうというのだろうか。
「だから何ですか」
高瀬は得意そうに笑って、鞄からトランプを取り出した。
「……」
「旅行と言えば、これだろ」
俺は天井を見上げた。
「恒一」
「ん?」
「何歳ですか」
「三十一歳」
「知ってます」
高瀬は本気だった。心から本気で楽しんでいた。
結局、神経衰弱を三回。七並べを二回。大富豪を一回付き合わされた。
「楽しいな」
「そうですね」
「直人」
「はい」
「旅行っていいな」
その声が、あまりにも嬉しそうだった。
「……そうですね」
だから今度は、ちゃんと本音で答えた。すると高瀬が少しだけ笑う。まるで、その言葉だけで十分だと言うみたいに。
「なぁ、次の大富豪で勝った方が、負けた方を好きにできる勝負しないか?」
いきなりの真剣勝負に、俺は逃げ出したくなる。目の前にいる高瀬は、大富豪に関して勝ったばかりだった。勢いがついて、連勝する可能性がある。
(これ、俺がゲームをしないと言ったら、あの手この手で何としてでもさせる気だろうな)
結局、俺は惨敗した。高瀬は意味深にニヤリと笑い、俺を布団の上に押し倒す。浴衣の合わせを乱暴に開かれ、熱い舌が胸の先端をねっとりと這う。
「あ……っ、恒一……待っ……」
「負けた方を好きにできる権利を得たのは俺だ。黙って、されるがままでいろ」
高瀬は俺の脚を大きく広げ、腹部からへそ、そして最も敏感な場所へと舌を滑らせた。喉の奥まで俺のを咥え込まれ、舌が絡みつくたび、腰が勝手に跳ねてしまう。
「はあっ……んんっ……」
高瀬の目が愉しげに細まる。俺が顔を背けようとすると、顎を掴まれて正面から見つめられた。
「直人、顔逸らさないで。……すごくエロい顔してる」
そのまま指を二本押し入れられ、敏感な一点を的確に擦られる。声が抑えきれなくなり、甘く掠れた。
「もっ……そこ、ダメ……あんっ!」
高瀬の息が荒くなる。三本に増やされ、激しくかき回された。俺はシーツを握りしめながら、腰をくねらせて高瀬を誘うように動いてしまった。
「……恒一の指、奥……気持ちいい。もっと掻き回して……」
「直人……わざと声を出してるだろ?」
高瀬の喉が低く鳴った。限界だったのだろう。脚を肩に担ぎ上げられ、一気に最奥まで埋め込まれる。
「あああっ……!」
激しい抽送が始まった。俺は高瀬の背中に爪を立て、甘く喘ぎながら腰を振りたくる。
「恒一……もっと深く……俺を、めちゃくちゃにして……」
高瀬の動きが一瞬乱れた。耳元でさらに甘く囁く。
「……恒一の、いつもより大きい……奥の奥まで届いてる……すごく、いい……」
「くそ……直人……」
高瀬が低く呻き、ピストンがさらに激しくなる。俺は何度も達し、最後は高瀬が奥深くで熱く放った。
荒い息の中、高瀬は俺の汗ばんだ髪を優しく撫でながら、幸せそうに笑った。
「……勝ったのは俺のはずなのに、完全に翻弄された」
俺は高瀬の胸に顔を埋め、小さく笑った。
「だって……恒一が、欲しくてたまらなかったから……」
温泉宿の夜は、まだ静かに甘く続いていた。
朝、目が覚めた。障子の隙間から柔らかな光が差し込んでいる。隣を見ると、高瀬がものすごく幸せそうな顔で寝ていた。
(……バカ)
昨日の夜のことを思い出しそうになり、慌てて思考を止めた。アレは朝から心臓に悪い。俺は静かに起き上がろうとした瞬間——。
「直人」
目を閉じたまま、低い声がした。
「起きてたんですか」
「起きてない」
いやいや、しっかり起きている。
「六時だぞ」
「まだ六時です」
「予定では起床時間」
やはり起きている。しかも、しおり通りだ。この男は本当に、真面目なのか馬鹿なのか分からない。
朝食を終えた後、俺たちは温泉街を散策することになった。旅館を出るなり、高瀬が例のしおりを取り出す。
「まず神社」
「はい」
「次に足湯」
「はい」
「その後、食べ歩き」
「はい」
「完璧だな」
十分後、完璧な計画は開始早々に破綻した。
「恒一」
「ん?」
「道、違います」
「え?」
その後もトラブルは続いた。ソフトクリームを買った直後にスマホを落とし、店員さんに笑われ、高瀬は肩を落としていた。
「俺、疲れてるのかな」
「旅行中ですから」
「直人」
「はい」
「慰めて」
「自業自得です」
そう言ったのに、高瀬は俺の袖を掴んだ。
「直人」
「……何ですか」
「慰めて」
「子供ですか」
「迷子になった大型犬」
「自分で言いましたね」
俺は思わず吹き出した、その瞬間だった。
「笑った」
「……」
「今、笑ったな」
高瀬の目がキラキラと輝いた。
「直人」
「何ですか」
「旅行、来てよかった」
本気で嬉しそうな顔をされては、もう何も言えない。
結局、神社でお守りを買い、足湯では熱いと騒ぎ、食べ歩きでは俺より高瀬の方がはしゃいでいた。
夕方、帰りの電車を待つベンチで並んで座っていると、高瀬がぽつりと呟いた。
「楽しかったな」
「そうですね」
自然に返事ができた。高瀬が少し笑う。
「直人」
「はい」
「また来ような」
胸の奥がじんわりと温かくなった。
初めての旅行は計画通りに進んだことなど、ほとんどなかった。高瀬は忘れ物をし、道に迷い、スマホを落とした。予定は狂い、しおりはほぼ無意味になった。
それでも――。
「……また一緒に行きましょう」
こういうのでいいのだと思った。高瀬が楽しそうで、俺も楽しくて、帰る場所が同じである。それだけで十分だった。
――ちなみに帰宅後。
「次回の旅行候補なんだけど」
高瀬は、もう新しい分厚いパンフレットを開いていた。学習能力は、一切なかった。
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