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第三十六章 過去の恋人と、今の恋人
それは、本当に偶然だった。営業先から会社へ戻る途中、駅前の交差点で信号待ちをしていた時だった。
「あれ、高瀬さん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこに中村真由が立っていた。
「真由さん?」
最後に会ったのは、別れ話をしたあの日以来だ。気まずさを覚悟したが、意外とそうでもなかった。驚いた顔をした後、彼女はすぐに笑った。
少し話をしようと近くの喫茶店に入り、コーヒーを注文して向かい合う。昔なら緊張したはずの間合いも、今は不思議と穏やかだった。
「元気そうですね」
真由が言う。
「そっちも」
「はい」
彼女は少し照れたように笑った。
「実は、婚約するんです」
思わず目を見開いた。
「おお」
「高瀬さん、反応が何だか父親みたいなんですけど」
「いや、驚いただけだ」
真由はくすくす笑う。
「会社の後輩なんです」
「へえ」
「高瀬さんと付き合ってた話を、誰かから聞いたらしくて――」
「うん」
「そこから、しつこいくらいアタックされました」
想像できた。真由は面倒見が良くて優しい。押しに弱そうなところもある。
「最初は断ってたんですけどね」
「だろうな」
「気づいたら、負けちゃいました」
心から幸せそうだった。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
そう言うと、真由は少しだけ首を傾げた。
「高瀬さんは?」
その質問に、一瞬考える。俺はコーヒーカップを置いて、静かに答えた。
「付き合ってる人がいる」
思いきって告げたセリフを聞いた途端に、真由の目が丸くなった。
「え?」
「同棲もしてる」
「嘘!」
本気で驚いている。
「すごい」
「何が」
「高瀬さんが同棲――」
地味に失礼だと思う。
「しかも付き合う前から、互いの家を行き来していた」
さらに驚かれた。
「待ってください」
「ん?」
「それって、どういう経緯ですか?」
真由から詳しい説明を求められたことに、俺は苦笑した。
「実はさ――」
そして話した。真由と出会うより前に、偶然出会った相手がいたこと。最初は曖昧な関係だったこと。その後も関係を続け、会っていたこと。
話し終わった頃には、真由は渋い表情のまま額を押さえていた。
「高瀬さん……はあぁ……」
「ん?」
「すっごく最低ですね」
「だろうな」
否定できない。
「恋人がいる時じゃなかったとはいえ」
「うん」
「その状態で、私と付き合ってたんですか」
正論だった。
「今思うと、本当に最低だと思う」
あの頃の俺は誰かを好きになることも、自分の気持ちを認めることもできなかった。
真由は、再び大きなため息をつく。
「昔から不器用でしたけど」
「面目ない」
「想像以上でした」
ぐうの音も出ない。だが、しばらくして真由は小さく笑った。
「でも」
渋い表情から一転、瞳を嬉しげに細めて顔を上げる。
「今の高瀬さん、とても幸せそうです」
その言葉に少し驚いた。
「そう見えるか?」
「見えます。幸せオーラが漂ってますよ」
即答だった。
「たぶん私と付き合ってた時より、ずっと――」
胸の奥が少しだけ痛む。それは後悔に近い感情だった。
「真由さん」
「はい」
「悪かった」
改めて言うと、真由は少しだけまぶたを伏せる。
「知ってます」
そして笑う。
「だって、もう時効です」
その言葉に救われた気がした。
「高瀬さん、おめでとうございます」
「ありがとう」
席を立って、店の前で別れかけたその時。
「高瀬さん」
「ん?」
真由が悪戯っぽく笑った。
「きっと、かわいい恋人なんでしょう?」
思わず固まった。
「顔に書いてあります」
見透かされていた。
「もう泣かせちゃ駄目ですよ」
真由は続ける。
「ちゃんと幸せにしてあげてください」
その言葉に、俺はゆっくり頷いた。
「もちろん」
真由は満足そうに笑う。
「それなら安心です」
店を出ると、夕方の風が思ったより涼しかった。さっきまで向かいに座っていた真由は、駅へ向かう人混みの中に溶け込んでいく。最後に軽く手を振り返してくれた姿も、もう見えない。
(……終わったな)
不思議と寂しさはなかった。昔付き合っていた相手と偶然再会して、近況を話して、笑って別れた。ただ、それだけだ。それなのに胸の中は、どこか温かかった。
『きっと、かわいい恋人なんでしょう? もう泣かせちゃ駄目ですよ。ちゃんと幸せにしてあげてください』
真由の言葉が、ふと蘇る。
「……かわいい、か」
思わず苦笑が漏れた。本人の前では絶対に言わない。いや、言ったら真っ赤になって否定されるだけだ。
でも――。
(直人、かわいいんだよなぁ)
朝起きれば無意識に寄りかかってくるし、「構ってください」と勇気を振り絞って言ったと思えば、その後は一人で反省している。嫉妬しているくせに頑なに認めないし、風邪を引いた俺を看病しながら「元気になったら覚悟してください」なんて、妙な宣言までしてきた。
あれだけ遠慮ばかりしていた男が、少しずつ「欲しい」と言えるようになった。
その全部を思い出して、また笑ってしまう。
(――彼女には悪いことをしたな)
あの頃の自分は、恋愛をどこか器用にこなせると思っていた。夜の寂しさを紛らわせる相手がいて、その延長でほかの誰かと付き合う人がいても、きっと問題ないのだと。
でも違った。誰かと過ごすことと、「帰りたい」と思えることは、まったく別だった。
今は仕事が終われば、自然と足が家へ向く。
今日は何を作ってくれているだろう。もう帰っているだろうか。夕飯を食べたあと、ソファで並んで座るだろうか。
そんなことばかり考えている。
スマホで時間を確認すると、思ったより遅くなっていた。
「いかん」
直人が待っている。
そう思った瞬間、自然と歩く速度が少し速くなる。別に急かされているわけじゃない。「早く帰ってきてください」と言われたこともない。
それでも帰りたくなる。
玄関を開ければ「おかえりなさい」と迎えてくれる人がいる。それだけで、一日の疲れがほどけていく。
真由は「幸せそうだった」と笑っていた。たぶん、その通りなんだろう。今の俺は、自分でも呆れるくらい幸せだ。だからもう、過去を振り返る必要はない。
俺が帰る場所は、一つだけだから。
夕飯の席は、いつもと変わらなかった。向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせる。味噌汁の湯気が立ちのぼり、箸を動かす音だけがリビングに響いていた。
「今日の生姜焼き、美味しいな」
「ありがとうございます」
照れたように笑う直人を見て、ふと昼間のことを思い出す。真由も昔、「美味しい?」と同じように聞いてきたことがあった。でも、不思議と比較する気持ちは湧かなかった。
思い出は思い出――今、目の前にいる直人とは何も重ならない。
「直人」
「はい」
「今日会った知り合いなんだけど――」
箸を置く。直人も、ゆっくり顔を上げた。
「直人と同時に付き合った、元恋人だった人だ」
一瞬だけ、時間が止まった気がした。直人の表情は変わらない。けれど、一緒に暮らしてきた俺にはわかる。
ほんの少しだけ、肩が強張った。
「……そうだったんですね」
「偶然、会社の近くで会ってさ。そのまま喫茶店に行って、近況報告だけしてきた」
隠す理由はない。隠したほうが、きっと直人は余計なことを考える。
「婚約するそうだ」
「え?」
「会社の後輩と付き合ってて、近いうちに結婚するらしい」
その言葉を聞いた三好は、小さく息を吐いた。わずかに肩の力が抜ける。本人は気づいていないだろう。
(……安心したな)
まったく、かわいいやつだ。
「おめでたい話ですね」
「ああ」
「よかったです」
本心からそう言っている顔だった。
少し前なら、それでも心のどこかで抱え込んでいただろう。でも今日は違う。安心したことも、嬉しいと思ったことも、全部そのまま表情に出ている。
「あと」
少しだけ笑う。
「俺、結構怒られた」
「……え?」
「昔の俺が最低だったって」
直人が目を丸くする。
「否定できなかった」
「そう、なんですか?」
「ワンナイトのことも、ちゃんと話したからな」
その瞬間、直人の箸がぴたりと止まる。
「契約のことも……全部?」
「ああ」
「言ったんですか」
「だって、今さら隠すことでもないし」
三好は困ったように笑った。
「彼女、驚いたでしょうね」
「呆れてた」
「でしょうね」
二人で顔を見合わせて笑う。昔の俺なら、こんな話は絶対にできなかった。知られたくない過去だったから。
でも今は違う。直人には、知っていてほしいと思う。いいところも、格好悪いところも全部ひっくるめて、今の俺だから。
「最後にさ、言われたんだ」
少し照れくさくて、頭を掻く。
「『かわいい恋人、もう泣かせないように幸せにしてあげなきゃ』って」
三好が固まった。
「……かわいい?」
「そこか」
「そこです」
耳まで赤くなっている。相変わらず、その反応は反則だ。
「俺は否定しなかった」
「し、してください」
「無理」
「恒一」
「だって本当だろ」
三好は観念したようにため息をつくと、小さく笑った。
「……敵いません」
「最初から勝負してない」
そう返すと、直人もくすりと笑う。その笑顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。
過去の恋は、ちゃんと終わっていた。そして今、俺の向かいには、何でもない夕飯を一緒に食べる恋人がいる。
それだけで十分だった。
食器を片付け終えた直人が、「コーヒー淹れますね」とキッチンへ向かう。その後ろ姿を眺めながら、俺は静かに思う。
幸せって、特別な出来事じゃない。「おかえり」と迎えてくれる人がいて、「いただきます」と向かい合って食卓を囲み、「おやすみ」と同じ部屋で眠る。そんな何気ない毎日を、明日も繰り返せること。
きっと、それが一番幸せなんだ。
そう思いながら俺は、今日もこの家に帰ってきた。
***
ベッドに入っても、すぐには眠れなかった。隣では高瀬が本を読んでいる。ページをめくる音だけが静かな部屋に響いていて、それが妙に心地よかった。
(……今日は、いろいろあった)
夕方。高瀬は偶然、昔付き合っていた女性と再会した。帰宅すると、そのことを夕飯の席で何一つ隠さず話してくれた。喫茶店へ入ったことや、近況を話したこと。彼女が婚約すると聞いたことも。
そして――俺と出会う前、自分がどれほど未熟だったかまで。普通なら、言わなくてもいい話だったと思う。むしろ、隠した方が平和だったかもしれない。
それなのに、高瀬は笑いながら言った。
『後で誰かから聞く方が嫌だろ』
その一言が、胸の奥に残っている。
もし。本当に、もしも。契約だけの関係だった頃の俺が、今日の話を聞いていたら。きっと笑えなかった。
(……たぶん)
眠れなくなっていた。何度も何度も考えただろう。本当は喫茶店だけじゃないんじゃないか。まだ好きなんじゃないか。俺には言えないことがあるんじゃないか。そんな証拠もないことばかり考えて、勝手に傷ついて。きっと、何も聞けずに一人で苦しくなっていただろう。
昔の俺は、そういう人間だった。誰かを信じるより先に、自分が捨てられる理由を探してしまう。だから「契約」という形なら安心できた。
期待しなくて済むから。裏切られなくて済むから。でも――。
(――今は違う)
高瀬は、最初から全部話してくれた。隠さず。誤魔化さず。俺が聞く前にそれが、どれほど安心できることなのか。
昔の俺は知らなかった。
隣でページをめくる音が止まる。
「直人」
「……はい」
「眠れないか?」
「少しだけ」
本を閉じる音がした。次の瞬間、肩にふわりと腕が回る。
「考え事?」
「……してました」
「悪いこと?」
その聞き方がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「違います」
「ならいい」
本当に、それだけだった。
問い詰めない。無理に理由も聞かない。ただ抱き寄せる。昔なら、この優しささえ疑っていた。どうしてそんなに優しくするのか。何か理由があるんじゃないか、と。
でも今は違う。理由なんて、もう知っている。高瀬は俺が好きだから。ただ、それだけ。
それだけで十分だった。
「恒一」
「ん?」
「今日は……ありがとうございました」
「何が?」
「全部、話してくれて」
少しだけ間が空く。それから、高瀬が静かに笑った。
「恋人だからな」
恋人だから。
その言葉が、すっと胸に落ちた。
契約ではなく役割でもなく、恋人だから隠さない。だから信じてもらいたい。だから俺も信じたい。
高瀬の胸に額を寄せる。鼓動は穏やかで、規則正しい。
(……信じるって)
こういうことなのかもしれない。
全部疑わなくてもいい。全部確認しなくてもいい。相手の言葉を、そのまま受け取れること。それは少し前の俺には、できなかったことだった。
「直人」
「はい」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
目を閉じる。もう、不安はなかった。高瀬の過去は変えられない。でも今日も、明日も、その隣にいるのは俺だ。
そう思えたことが、何より嬉しかった。
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