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第10話 エストレヤ イグニス
毎日が憂鬱だった。
刺すような視線や心無い陰口。
いや陰口ではない、僕に聞こえているのだから。
肉体的に何もされていないのは、侯爵家という立場が僕を守ってくれていた。
学園はとても苦しくて辛い場所となり、早く卒業したかった。
お父様から王子に近付きなさいと言われていたけど、こんなことになってしまい失望するに違いない。
報告…したくないな。
教室の片隅で信じられない話を聞いた。
「グラキエス様が記憶を失われた。」
走って教室に飛び込んできた生徒の言葉にその場にいた生徒が注目した。
あのグラキエス様が記憶喪失…。
王子の婚約者でとても聡明で我が国に必要不可欠な人。
そんな人が記憶を…。
誰もが言葉を失った。
聞けば、王子と平民の彼に「権力を盾に相手を陥れるようなことはするな。醜く不愉快だ、相手に注意するのは良いが事実を確認してから行うべき。間違った正義を振るえばあなたの信用は失墜する」と王子を責め立てたと。
グラキエス様の言葉に不満を感じ勢い余ってグラキエス様を突き飛ばした。
その直後、グラキエス様は記憶が曖昧になったらしいと話していた。
教室が混乱や動揺といった、人を不安にする感情に支配されていた。
授業があったかが、なんだか皆そわそわしていた。
皆、グラキエス様の記憶が戻ることを望み安心したかったんだと思う。
グラキエス様は数日学園を休んだ。
更に僕たちを驚かせる事実が飛び込んできた。
「リーヴェス アフェーレ王子とアティラン グラキエス様婚約解消。」
その話題は一瞬にして広まり、学園だけでなく貴族社会全体にも波紋を呼んていだ。
第二王妃や側室を狙っていたのは、大前提にグラキエス様がいてこそだ。
公の場や国の中枢には彼の存在が今後必要不可欠になると言われていたから。
それなのに婚約が解消されてしまった。
グラキエス家といえば、隣国にも強力な繋がりがあり和平が保たれているのはグラキエス家の功績とも言えた。
王族とグラキエス家との婚約は国内だけではなく国外にも影響を与えてしまう。
それほど貴重な存在であった。
なので、どの貴族達にも決してグラキエス家と王家の婚約を阻害してはならないと言われていた。
第二妃については「世継ぎの問題や二人の関係を考慮するべき」とグラキエス公爵が発言された為、否定でも肯定でもなかったので結婚後一年間は様子を見る事と表向きにはなったが多くの貴族は第二妃・側室の座を狙えと王子と年齢の近い子供には伝えているようだった。
そのように決まっていたにも関わらず、今回の事件が起きてしまった。
アティラン グラキエスとの婚約解消だけでなく、記憶喪失まで…。
婚約解消だけならば王宮で働いてもらえば問題なかった。
役職はもちろん宰相としてだが。
なのに、記憶喪失ではそれすらも絶たれてしまった。
この事でグラキエス公爵がどのような判断をするのか王族だけでなく、貴族達も固唾を飲んで見守った。
親たちから頻繁に手紙が状況報告を迫られる貴族達も、緊迫感に襲われグラキエスの記憶喪失の元凶二人を観察するようになっていた。
あの事件から安易に王子と平民の彼に近付くものは居らず、それどころか彼等二人を見る視線は僕が感じていた視線より厳しいものになっていた。
僕は人が居ない所を探して歩いていた。
学園にも寮にも僕の居場所はなく部屋からでなければ良いんだけど、少し散歩したかった。
何処にいても息が詰まるので、まだ外の方が良かった。
僕の前を歩く人がいた。
夕日を浴びながらプラチナブロンドがキラキラとしている。
その美しいか見色で誰かわかった…こんなところで何してるのかな?
もしかして迷ってしまったのかな?
こ、声…かけた方がいいかな?
「ぁっ、王子の元婚約者様のグラキエス様じゃないですか?どうされたんですか?」
あれ?間違っちゃったかな?
振り向くと、澄んだ蒼い瞳が良く似合う端正な顔の彼がいた。
真正面からグラキエス様に対面したのは初めてだと今頃になって気付いた。
こ、この後どうしたらいいんだろう。
「誰だ?」
僕の名前を知らないのは別に…傷付いたりしない。
ただ、グラキエス様の聞き方?話し方や表情に違和感があった。
「…記憶を失われたと言うのは…本当ですか?…」
しまった、グラキエス様の質問に答えてない。
急に雰囲気が…お…怒らせたっ。
「なっなんでしょう?」
勝手に言葉が、何を言っているのか分からない。
怖いっ。
「ん~?」
グラキエス様は見たこともない表情だった。
夕日の影で陰影が濃くなり観劇などに出てくる悪役の人みたいだった。
ここから逃げ出したいのに、足が動かない。
漸く動いても僕が後ずさるよりグラキエス様が向かってくる方が早くて距離が次第に縮まってしまう。
とんと背中に壁が当たり逃げ道がないことを知った。
心臓の音が耳元に聞こえる。
息も上手く出来ない。
怖いよ、ごめんなさい。
胸の前で手を重ね本能から心臓を守っていた。
後ろに下がることが出来なくなると左右に逃げるしかない。
逃げ道を探しているとグラキエス様の手に塞がれていた。
反対側と視線を送ればそちらも塞がれてしまった。
もうなにもしませんお願いです、助けてくださいという一縷の望みをかけてグラキエス様に視線を送った。
「…なっなんですか?」
「お前、名前は?」
「…エ、エストレヤ イグニス…です」
「ふぅん、エストレヤ」
グラキエス様の手が近付いてくるのを「殴られる」と咄嗟に思った。
グラキエス様はそんなことをしないと分かっていても、怖くて正常な判断ができなかった。
目を瞑って備えると唇が塞がれていた。
「…ぁ……んっんんん?ふっんんっんふぅんぁんぁんあん」
何が起きているのか分からず、確認すると目の前にはグラキエス様の美しい瞳と目があった。
これはきっと僕の妄想だ。
グラキエス様がそんなことをするはずがない。
とうとう僕はおかしくなってしまったんだ。
こんな夢を見てしまうなんて。
だったら、現実では決して起きないこの妄想に浸りたかった。
グラキエス様の舌に僕からも絡めた。
終わらないキスに戸惑い翻弄され足が震え出しグラキエス様に掴まっていた。
こんなこと現実なら絶対に出来ない。
夢ってすごい。
「んっんぁんあんんっあんっあぁはぁはぁはぁはぁ」
一度唇が離れ何かを確認された気がする…。
それが何か分からないまま再び唇が重なった。
「ぁんっんぁんあんふぅんっんはっあむっ」
「ふっ、お前可愛いな」
「はぁはぁはぁ…ふぅぇっ?はぁはぁ」
「なぁ、お前婚約者いんの?」
何を聞かれたの?
婚約者?
僕は首を振った。
「ふぅん…なら俺と婚約するか?」
グラキエス様と婚約?
婚約って婚約の事?
えっ?それが本当なら是非にとお願いしたい…なんて幸せな夢…と浮かれたが冷静な自分もいた…だって起きたら虚しいよね…全部夢なんだもん。
「ぇっ?…んっんぁんあんんっんんっあむっんふっん」
唇が離れると何がなんだか分からず座り込んでしまった。
「なぁ、どうするエストレヤ」
色々ありすぎて正常に判断できなくなっていた。
「ぇっぁっ…本当に…僕でいいの?」
夢なのに確認をとるのが可笑しい。
「あぁ」
「グラキエス様は忘れてるから…僕は…」
これは全て僕の都合のいい夢なのに…僕みたいな奴が夢でもグラキエス様の婚約者になってはいけないと思った。
「これから知っていけば良いだろ?…うわっ軽っ」
物語の主人公のように抱き上げられた。
グラキエス様をより近くに感じ良い香りに包まれ、肌の感触もとても現実味がある。
「グ、グラキエス様っ」
「大人しく掴まってろ。」
「はっはぃ」
言われた通り掴まった。
「…ふっはは、掴まってろって言ったけど本当に掴むなよ。そういう時は首に腕を回すんだよ」
「えっ?…こっこう?」
笑われてしまった。
こういう経験がないから全くわからない。
首に腕を回すってこう言うことかな?あってる?
「俺の部屋とエストレヤの部屋どっちが良い?」
部屋?
「ぇっぁっ…じゃあ…グラキエス様…の…部屋…で」
夢の中でもグラキエス様がどんな部屋なのか見てみたかった。
起きたらきっと僕の部屋なのに…。
「あぁ」
すごい、建物も廊下も全部本物と一緒だ。
すれ違う人に見られるのもまるで現実みたい。
「ぁ…ぁの…本当に、グラキエス様…ですか?」
変な質問してしまった。
これは僕の都合のいい夢なのに。
夢の中のグラキエス様は全く違う人で、きっと僕の理想の人なんだと思う。
僕ってこんな感じの人が好きなんだ…知らなかった。
「ん?どうだろうな」
僕は今のグラキエス様も好きです。
はぁ…このまま夢から覚めなければ良いのに。
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