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Envelope - 13

 ぎょっとして顔を上げたのはテオドールで、頬に手をついたままこちらを訝しげにじろじろ眺めている。昨夜からずいぶんと悪かった機嫌はどうやら仮初めの満足を得たようだった。若い性欲の現金さがまた笑いを誘った。 「なんだ、さっきから」  憮然として呟いた主の隣に腰掛ける。ちり、と下腹のあたりに視線を感じ、そのときリュシアンははじめて自分がシャツ一枚であることに気がついた。(すそ)を引いて申し訳程度にその場所を隠すと、視線は慌ててそっぽを向いた。 「昔のことを思い出していました」 「昔のこと?」 「旦那様にはじめて抱かれた夜のことを」 「……嫌味なヤツだ。よりによって一番思い出したくもない記憶を」  渋面をつくる横顔に、泣きながら自分を抱いた少年の面影はない。  テオドールは変わってしまった。  そして、リュシアン自身も。  「わたくしは最初、貴方があの娘になにもできなかったことを恥じて泣いたと思ったのですよ」 「は。女など、私が一声かければみな喜んで股を開く」 「でしょうね」  建国以来、連綿と続く伯爵家の継嗣。社交界でその名を知らぬものはなく、隙あらば己が娘を侍らせんとする王侯貴族の多きこと時の陛下に劣らぬほど。  数多(あまた)の女性が彼と一夜の夢を共にし、そしていつしか儚い夢と散る。  ――都に住む者ならば、誰もが一度は耳にする噂話。  「(だま)し、誤魔化し、(そそのか)して……いったいどれほどの女性が『我こそはテオドール・ド・クレールの情けを受けた女』などと」  「気になるのならいますぐ門の外で叫んでみればいい。この庭が大小様々、見事な金髪で瞬く間に溢れかえるぞ。で子は生まれないが、そのなかにがひとり混じっているかもしれない」 「……ああ」  そのとき、すとん、と胸に“答え”が墜ちた。  恋多き伯爵家。献身的な愛妾。そして、衰退。  彼はこの時をずっと待っていたのだ。   そしておそらく、それはすぐ近くにいる。 「貴方は本当に用意周到な方だ」  眩い朝日を湛え、紫の瞳がほくそ笑んだ。 「私はあのとき自分に誓った。もう二度と後手には回らないと」  差し出された手をとり、腰を抱く腕に導かれて立ち上がった。広い胸に頬を寄せると逞しい獣の匂いに包まれ、そっと目を閉じた。 「貴方ほどの方が……ひとりの男の身体しか知らないなんて」  耳を叩く鼓動が徐々に激しさを増していく。髪にかかる息が荒く、速くなっていく。  この鼓動は怒りだ。  けっして潰えることのない、永遠の痛み。 「幼心に生涯添い遂げると誓った相手に女との交合を促され、やっと振り切ったと思えば、探し出した先で見知らぬ男どもに貫かれて身も世もなく泣き喘ぐ姿を見た。まだ15の子供だ。気が狂うのは仕方がない」  連れ去ろうにも生きていく術はない。巨大な父親の蔭に押し潰され、己の無力さを噛みしめて、耐えきれず欲しい男をこの腕に抱いてもなお、けっして立ち返ることのできない日々を思っては涙する。  ――そんな日々を、お前は想像したことがあるか。  訊ねる声は鋭い棘となってリュシアンの柔肌を優しく撫でる。首筋に牙を突き立てられ、思うさま血を啜られる情景が背筋を快感となって駆け上がる。熱い吐息が唇から漏れた。 「“病”ですよ。貴方は、悪い病に罹っているのです」 「この病はお前にもうつるか、リュシアン・ヴァロー」  黒髪を掻き乱す指の心地よさにまた目を閉じて、 「どうでしょうね……気が触れるほどこの身に注ぎ込まれれば、あるいは」 冬の石畳をやってくる車輪の音に耳を澄ませた。

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