8 / 20

3-2

 夜まで仕事をし、家に帰ったヒヤマは遮光カーテンを閉め切った部屋でぼんやり眠気と戯れていた。どれだけ時間が経ったのかすら曖昧になり、夜が更けていく。やがて遮光カーテンの隙間から光が注ぎ出す。朝になったのだ。それでヒヤマは眠れない。そのままに、まどろみの中を彷徨った。  それでも漏れ出す光が力強くなり、ようやくヒヤマは時間を確認した。――午後一時半。眠れないながらも横になっていたおかげで、多少だが体力が回復した。そして腹も減っている。  すこし出かけようとヒヤマは思った。着替えて家を出る。近くを散歩でもしようと思っての外出だったが、気が変わり地下鉄へと乗り込んだ。まだ特に目的地は決めていない。  車内に視線をやった。ずいぶんと静かだ。空気の中に重たい沈殿物があって、それを見つめているみたいに皆が少し下を向いている。中には耐えきれずうとうとと船を漕いでいる人もいるが、すぐに現実に引き戻されて苦い顔をしている。  以前は、電車の中で熟睡する人を見ることは珍しくなかった。――今、そういう人を見ることはほとんどない。  みんな、眠りに飢えている。  そう考え、そうだ、あの展示を見に行こうとヒヤマは思いついた。財布に関係者用のチケットを入れていたはずだ。  地下鉄を降り、地上へと出た。天気は快晴で、眩しい光がヒヤマに降り注いだ。平日だったので、街中に人は多くない。  美術館に着いた。開放的な空気の美術館はガラス張りで光をよく取り込んでいた。ここで『眠り』がテーマの展示をやっていることを面白く思った。 「あれ、ヒヤマさん」  受付に向かったとき、声がかけられた。振り返ると、あの青年だ。 「――偶然ですね」  彼はそう言う。ヒヤマは自分の名前をコウダが覚えていたことが意外だった。 「展示、見にこられたんですか」  ヒヤマの手元のチケットに視線をやる。 「あ、ああ。そうです」 「俺もです」  そうですか、それじゃあこれで、というわけにもいかず、成り行きでそのまま一緒に見ることになった。 『眠り』というテーマに沿って、展示スペースは全体的に黒を基調にデザインされていた。  ――現在ひとびとの間から失われつつある『眠り』。  ――狩猟生活をしている生物からすれば、眠っている状態はあまりに無防備で、克服することには大きなメリットがあります。それでも睡眠というものを進化の過程で切り捨てない――もしくは、切り捨てられなかった――のには、何らかの大きな理由があるはずです。  ――睡眠の重要さが再確認されているこの世界で、この展示が皆様にとって改めて『眠り』に向き合うひとつのきっかけになればと思っています。  そんな展示に向けたメッセージが、入り口に書かれていた。  その文章を読んでいる人々はみな眠たそうな目をしていて、コウダだけがきらきらした目でそれを見ていた。  それからはお互いに好きなように中を見た。  コウダはイルカなどが『片目を閉じて半分だけ眠る』というところに興味がそそられたようで、ずいぶんと熱心にその説明文を読んでいた。 「この仕組みを人間に応用できないかという研究があります」  ヒヤマはコウダの後ろから話しかけた。  数日前に、そういった論文をヒヤマは読んだ。 「そうすれば人類は睡眠を克服できるかもしれない」 「それは、この不眠恐慌の解決のためにですか?」 「どうでしょう。以前からあった研究だから、直接は関係ないのかもしれない。そもそも、眠れないのだから半分眠れても、ね」 「確かに。それに、半分寝ている状態、あんまり想像できないですもんね」  当然だがヒヤマはもともと知っている話が多く、中身というよりは展示方法を興味深く見ていた。なので通常とは違った動きで見ていたのと、場内がそれなりに暗いのもあり――少しして、コウダを見失った。  とはいえ、彼はかなりじっくり展示を見ているようだったから、まだここまでは来ていないだろう。そう思いヒヤマは今いる展示を見て待つことにした。  ちょうどそこは、『空想/想像の眠りと夢』というコーナーで、フィクションに出てくる眠りや夢のモチーフを紹介するコーナーだった。  羊と眠りの関係。雲の中で目を閉じて眠るかわいい羊のイラスト。  その隣には、一匹の豚のようなイラストがある。  それを見ていると、隣にコウダが立った。 「バク、ですか?」  ――研究所では、それまで眠れていたにも関わらず眠れなくなることを、『バクが来る』と呼んでいた。最近ではバクが来ない人の方が珍しい。ヒヤマは隣のコウダを見た。  彼のもとにも、それがいつか来るのだろうか。  そう思って、どうにもそれが来ることはないようにヒヤマには思えた。彼はきっと、そんなものと無縁な世界に生きているのだろう。  合流して、残りの展示を見て歩いた。 「これ、面白いですね。知ってますか」  終盤のフロアでコウダが指差した先に書かれていたのは、  ――『自分が眠っているときに、世界は果たして存在しているのか』。  それは有名な思考実験だった。哲学的な問題だ。  自分が眠っている間には世界は止まっており、自分が起きると何でもなかったような顔をして再開しているのだという仮定。  有名な映画のモチーフになったので、今ではこの発想を知っている人間も多いだろう。 「ヒヤマさんはどう思いますか」  ヒヤマもそのことについてはもちろん知っていた。考えたこともあった。  ヒヤマの回答は明確だった。  ――どちらでも構わない。  なぜなら、それを確認する手段は絶対にないのだから。どんな手を巡らせても、それを認識することはできない。なぜならそれがこの思考実験の大前提なのだから――そしてどうやっても確認できないんだったら、どちらでも同じことじゃないか。 「僕は」  ヒヤマは言った。 「どちらでも変わらないと思う。僕から見れば、それはどちらでも同じだ」  呆れられただろうか。そう思いコウダを見ると、 「すごい。予想外です」  彼はそう言って、改めて展示を見た。 「俺は存在していてほしいです。俺が眠っている間にも、ちゃんと世界に存在してほしい」  まっすぐにそう言われて、ヒヤマは申し訳ない気持ちになった。 「でも、ヒヤマさんの考え方は面白いですね。すごく強いです。羨ましい」 「そんなことないですよ」  褒められるようなものではない。そう思っていたから、ヒヤマは居心地が悪い。  展示会場を出ると、明るい夕日がガラスから注いでいる。 「この前に言われたことを考えました」  夕日に顔を赤く照らされたコウダが言った。 「メジャーリーグの選手の話です」 「――ああ」 「だとすれば、それは希望じゃないかって思ったんです」  ヒヤマはコウダを見た。夕日に目を細めている。黒目がオレンジ色に染められて、きらきらと光っていた。 「もし、みんながまだ俺の眠りを羨ましく思うなら、それがまだ手に入るって思ってるってことで――それって、きっと嬉しいことじゃないですか?」

ともだちにシェアしよう!