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 コウダは研究に非常に協力的だった。  コウダは研究所に来て、眠り、データを提供して帰って行った。  不眠恐慌は当初の勢いは失ったものの、じわじわと相変わらずに拡大を続け、研究所には不眠相談の来客は絶えなかった。  ヒヤマは二連休の終わり、まだ休みの間に研究所に向かった。  家にいてもすることも特になかったし、その日の夜は研究所は研究者も被験者もいないはずで、だから非番のヒヤマが意味もなく研究所にいても、誰も咎めることはない。  ヒヤマは自分の研究室に入って、ジャケットをハンガーにかけてデスクについた。  見慣れた自分の机からの景色。  彼にとってそこは唯一落ち着くことのできる場所だった。  おそらく家が落ち着かないのは、ほとんど家に帰っていないから――家には、寝るために帰っているだけだ。そしてほとんど寝ることができないのだから、家の居心地が悪いのは当たり前だった。  そしてここは研究所。研究をするための場所だ。  膨大に蓄積された睡眠のデータを見ていると、眠れない自分を忘れることができた。眠りというものに近づくこと、眠りというものを少しでも理解することが、眠れない彼にとっての『眠り』だった。  ヒヤマは眠りのデータがファイルされた棚から、無作為にデータを取り出して眺めていた。それなりに眠れるもの、それなりに眠れないもの、眠っているが安定しない眠り。眠りにもそれぞれに個性があった。  そして、バクが来た人――すなわち、不眠転化者。それまで安定していたはずのグラフが、ぐらりと乱れて不眠に転じる。不穏な何かの存在を感じさせるそのグラフ。しかし、そこに何がいるのか、何が起きているのか、まだ誰も知らない。  そしてヒヤマの手は抜群に優れた眠りのデータを引き当てた。  これはと思い最初のページに戻ると、やはりコウダの写真が貼られている。  短い髪の毛の青年がまっすぐにこちらを見つめている。その写真を、ヒヤマは指でなぞる。黒目をまっすぐしっかりこちらに向けている。  そのページを見て、ヒヤマはあるおかしな点に気がついた。  住所欄に何度か訂正がある。住所が変わっている。  七回の検査、四ヶ月ほどの間に、三回――つまり計四箇所の住所が申請されていた。いくつかのページを確認して、それが間違いない事実だと確認する。  なぜだろう。普通の引越しにしてはペースが早すぎる。  おそらく、何か理由があり転居を繰り返しているのだろう。  だとしても。  ヒヤマはそこで考えるのをやめた。それはヒヤマには関係のないことだった。ヒヤマは研究者で、彼は検査に協力している。それ以上でも以下でもない関係だ。謝礼は毎回手渡ししているし、彼が何か犯罪にでも手を染めていない限り問題は生じない。  そしておそらくあの青年に限ってそんなことはないだろう。  続いてページをめくると、彼の初回の睡眠データ。非常に安定。理想的な睡眠深度のカーブを描いて、目覚ましを使用せずに起床。次も、その次も似たようなものだった。  綺麗な波を描くグラフを見ていたヒヤマはファイルを閉じると、パソコンのモニタに向かった。長く息を吐いてから、覚悟を決めたようにデスクトップのフォルダを開き、ある記録データを開いた。  画面にデータが表示される。曲線。歪な曲線だ。  ヒヤマは研究者としてそれを見る。  先ほどファイルの中で見たどのデータよりも乱れた線。  なにかを引っ掻いたようにのたうつ曲線。  悲鳴をあげているようにも見える、見ているだけで不安になる曲線だ。どんなに知識のない人間でもこれは眠れていないとわかるだろう。  ヒヤマはじっとそれを見る。それは、彼自身の睡眠データだった。  ――何が違うのかね、俺らと、あいつと。  カンザキの言葉が蘇る。  ヒヤマはじっとそれを見ていた。そのまぶたが不意に重たくなって、ヒヤマの体が不意にゆらっと揺れた。そのままぼんやりと、包み込むようにヒヤマを眠気が誘った。優しく彼を、夜の世界へと誘い込む。  しかしヒヤマは知っていた。  ――こいつらはどんなに僕を誘っても、最後まで絶対に連れて行ってはくれない。浅瀬であっさり手を放して、慌てふためく僕を見たいだけだ。  混濁する意識を繋ぎ止めるように彼はうめいた。  眠くない。眠くない。僕は眠くない。  そう言い聞かせる。  本当はとても眠い。眠たい。眠りたい。  しかし、それができないことを、彼はよく知っている。誰よりも知っている。  ――僕は眠れない。どんなに眠たくても。  だから、眠らない。  彼は俯いて目をきつく瞑ってから顔をあげ、ぶるぶると何度か左右に振った。  かすかな音がして窓を見ると、雨がぱたぱたと打ち付けていた。いつの間にか降り出したようだ。予報では今夜は晴れだったはずだが、どうやらかなり強いらしい。パソコンで改めて天気予報を確認する。朝には止むようだ。いずれにせよ、この後しばらくここにいるだろう彼には関係のないことだった。  壁の時計を見上げると、十二時半を記している。まだ夜は長い。  そうだ、先日発表された論文を確認しておこう。そう思いつきマウスを動かしたとき、来訪者のチャイムが鳴った。

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