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「近くで飲んでいて」  コウダは普段通り言葉少なだった。彼の前髪は雨で額に張り付いて、滴が顔に伝っていた。ずいぶん降られてしまったのだろう。 「スマホも、財布も全部入った鞄を盗まれてしまって」  無表情な彼らしくさほどの動揺や落胆は伺えなかったが、沈んだ目にはさすがに疲労の色が見て取れた。  ヒヤマは彼を中へと案内し、とりあえずとタオルを渡した。彼は髪の毛や顔を拭いながら、 「近くだったんで一か八かで来てみたんですけど。ヒヤマさんがいてくれて良かったです」  彼はそう言った。その顔はやはり普段の彼の印象から少し離れていた。 「シャワーを浴びてくるといい。ずいぶん冷えているようだ」 「ありがとう、ございます」  なぜ自宅に帰らないのかと思い、ヒヤマは住所のことを思い出した。  コウダがシャワーを浴びに向かったので、ヒヤマはデスクのパソコンを立ち上げ、コウダの『住所』を検索した。最初・二回目はどこかのネットカフェ、三回目は何かレンタルアドレスの類、直近のものは通常の住居のようだった。  だとしたら、今日の彼は――。  モニタを見つめながら、ヒヤマは考えに耽った。 「ありがとうございました。温まりました」  声が聞こえ、ヒヤマは動揺のない手つきで検索していた画面を閉じると、ウォーターサーバーからマグカップに白湯を注いでコウダに差し出した。コウダはそれを受け取った。 「どうぞ。座って」 「はい」  本来カウンセリングのために準備されている椅子にコウダを案内した。 「大変だったね」  ヒヤマの言葉にコウダは首を振った。 「大丈夫です」  それはまるで自分に言い聞かせているようだった。  ヒヤマはあえて踏み込むことにした。  別に踏み込まなければいけない理由もなかった。面倒ごとを抱える可能性もゼロではない。この良質な研究対象を逃す結果に繋がるかもしれない。  それでもヒヤマは、雨に濡れてこの研究所にやってきた彼をそのまま追い返したくなかった。だから逆にこう言った。 「もう夜も遅い。自宅まで車で送ろう」  コウダはゆっくりと視線をあげ、ヒヤマをじっと見つめた。その目は、間違いなくヒヤマを値踏みしていた。  話しても良いのかと判断している。  ――自分の秘密を打ち明けて良いのか?  ――この人は本当に信用できるか?  それはカウンセリングでよく見る目だった。  ヒヤマはその視線を予測していたから動揺しなかった。うっすら口元に笑みを浮かべて、優しそうな顔つきを意識する。  もし彼がごまかしたら、それ以上は追及しないつもりだった。  そしてぽつりとコウダは言った。 「家……、ないんです」  ヒヤマは何も言わない。ただ相手に話しやすい空気を作る。それは彼の仕事の一部だった。彼には慣れたものだ。コウダは額に手をあてて、どうしようかと少し迷った後、しっかりとした口調で話し出した。 「いつも友人の家とか、ネカフェとかを転々としてて……俺、自分の家ないんです。実は今日も、……その、財布をとられたというのは、嘘で……」 「そうなんですね」  適切なタイミングで相槌を打つことを意識しながら、ヒヤマは椅子をわずかにリクライニングさせて音をわざと出した。その金属質な音は、会話のアクセントになるに違いなかった。  案の定コウダはその音に促されるように話し出した。 「今日も、友達の家にいたんです。それで寝ていたら急に起こされて。俺の目の前で堂々と寝るなって怒られちゃって。それで、喧嘩して――」  ヒヤマはカンザキとの会話を思い起こしていた。  ――あんな寝顔、見せられる方の身にもなって欲しいよな。  誰がその友人を責められるだろうか。もはや眠りは――眠ることのできる体は、特権そのものだった。  彼は常にそういった羨望の眼差しに晒されているのだろう。 「ヒヤマさんもそう思いますか?」  コウダはヒヤマを見た。その口調には珍しくしっかり表情があり、切実にヒヤマに訴えかけていた。そのコウダから、あえて少し視線を落としてヒヤマは話し出した。  自分自身のことだ。 「僕はずっと眠れていない。今だけでも、三十時間を通してほぼ不眠――前回の睡眠は二時間半、断続的な浅い睡眠だ」  すらすらと自身の睡眠状態について話すヒヤマを見るコウダの目が少し大きく開いた。ヒヤマは下げた視界の上の端にそれを認めて、そのまま話し続けた。 「君も気づいているかもしれないけれど、僕は完全不眠者だ。一般に処方される一番強い睡眠薬を使っても、僕は安定した継続睡眠が取れない。今まで多くの人の睡眠状態を検査してきたが、ここまで重度の不眠者には遭遇したことがない」  コウダの視線がすっと下がった。何かを言いたそうにしているようにも見えたが、ヒヤマは話し続けた。 「だけど、僕はもうずっとこの状態が続いている。世界がこうなる前からだ。僕は二十歳の誕生日を迎える直前に不眠症を発症して、それからずっとこういう状態の中にいる」  言葉にして、ヒヤマは自身の現状を改めて理解した。痛感した、と言ってもいい。脳裏にはあのグラフが浮かぶ。美しいグラフ、醜いグラフ。  それでも。 「――だけど、今更君のことを羨ましいなんて思わない」  それは、決意だったのかもしれない。  ヒヤマは視線をあげてコウダを見た。  コウダも、それに釣られて視線をあげた。  二人の視線は正面から交差した。  ヒヤマはぼんやり、コウダはしっかりと相手を見つめた。  ヒヤマは言った。 「君の眠りは美しくて素晴らしい――だけれど、僕は君を羨まない」  ヒヤマは思い出した。野球選手の話。自分の人生に関係がない話。  だから、ヒヤマはコウダを羨まなかった。 「……すみません」  コウダは謝罪を口にした。 「君のせいじゃない。君が可眠者なのは、君が望んだからじゃない――羨まないっていうのは、そういう意味でもあるんだ。君が責任を感じる理由はない。眠れるんだから、君は存分に眠るべきだ。謝る必要はない。君は何も悪くないよ」  それを聞いて、コウダはヒヤマをじっと見つめてきた。  不思議な眼差しだった。何か、小さな発見をしたときのような顔だ。  どうしてそんな顔で自分を見るのかヒヤマはわからなかった。  そのコウダのマグカップが空になっているのに気がつき、ヒヤマはマグカップを引き取り湯を汲んだ。手渡しながら言う。 「――そうしたら、今日はここに泊まるといい」  窓を見上げた。まだ雨がだいぶ降っているようだ。 「いえ、そのつもりで来たんじゃなくて、ほんとに。その、――」 「大丈夫。データをとらせてくれれば、それで十分だから。さすがに僕の権限では謝礼は出せないけど」  どうせ朝まで誰も来ない予定だから、とヒヤマが言うと、 「あ、……ありがとうございます。助かります」  コウダは安心した顔になった。普段無表情に近い彼のその顔が、ヒヤマには印象深かった。 「コウダさんは」 「呼び捨てでいいですよ。年下ですし」 「じゃあ、コウダ――くん」 「なんか、むずがゆいですね」少し照れたようにそう言う。「でも、ありかも」 「コウダくんは、眠るときにはどういうことを考えているの」  施設では可眠者の睡眠データは採取しているが、しっかりとヒアリングを行う機会は少なかった。ヒヤマにはこれは少なからず良いチャンスだと思えていた。コウダも断りづらいだろうからだ。 「眠るとき、ですか」 「そう、何かルーティーンとかはあるのかな」  コウダは人差し指の爪で鼻の頭をぽりぽりと掻いて、少し恥ずかしそうにこう言った。 「俺は羊を数えています」  ヒヤマは思わず笑った。冗談だと思ったのだ。あの日の展示の羊のイラストがヒヤマの脳裏に浮かんでいた。  しかしコウダはその後何も言わない――。むしろ口元に笑みを浮かべ、 「本当ですよ」  そう言った。 「そう、なんだ」 「母に教えられて、それからずっと」  その言葉に、何か強い意味がある気がした。それは研究者としての勘だった。だから本当は尋ねるべきだった。母との関係についてや、他にどういったことを教えられたかを。  だが今度は、ヒヤマは踏み込むのを躊躇った。それは、今気軽に取り扱うような話題ではなさそうだったからだ。先ほどのコウダの目には、何か特別なものがこもっているようにヒヤマには見えた。それは、きっと土足で踏み込む場所じゃない。  それでも、コウダが話したいと思ってくれれば良いと思った。彼が話すのならば、ヒヤマはもちろん聞くつもりだった。  コウダは黙ったままマグカップを両手で持ち直し、それを一口飲んだ。  話さないということなのだろう。 「すまなかった、これじゃまるでカウンセリングだ」 「いえ、大丈夫です」  コウダは首を振った。 「何かくだらない話をしよう」 「くだらない話」 「そう、本当にどうでも良い話、だ。好きな食べ物とか、好きな映画とか」 「いいですね、それ」  ヒヤマは、ここで出会う人々と一定の距離を保つようにしていた。不眠の相談にくる人はもちろんだが、可眠研究への協力者に対してもだ。  そう言った意味において、コウダは都合の良い研究対象だった。こちらの言うことに過剰に反応もせず、淡々と非常に有用なデータを提供してくれる。  しかし、ヒヤマはだんだんこの青年の表情を理解できるようになった。彼は無表情ではなかった。ヒヤマは研究熱心な一人の学者として、その些細な変化の奥に意味を見出す遊びを楽しんだ。眉の動き、口角の上がり具合、話す速度、目線の位置。それらを観察し意味を推測する作業は楽しかった。  そして二人は話した。  人生で一番面白かった映画。彼は興味深そうな顔をした。  人生最後に食べたい料理。彼は懐かしそうな顔をした。  人生で最大のカルチャーショック。彼は驚いた顔をした。  会話が一段落して、コウダは言った。 「ヒヤマさんって、もっと気難しい人なんだと思ってました」 「そうかな」 「ええ、でも、思っていたのと違いました」  どう違っていたのか、悪い意味ではないのだろうが、なんとなくヒヤマは聞きづらかった。  思わず黙ってしまって、沈黙が流れる。ふとコウダが時計を見て言った。 「眠らないと、夜は長いですね」  時計の針は綺麗な直角を描いていた。深夜三時。 「ああ、もう眠いだろう。もう寝た方がいい、いつものところでも大丈夫かな」  慌てて立ち上がったヒヤマに、 「ヒヤマさん。最後にいいですか」  そうコウダは言った。 「眠れないのって、どんな感じですか」  ヒヤマはコウダを見た。コウダはまっすぐにヒヤマを見つめて――それはやはり、昼の住人の目だった。ヒヤマの中に、大きな夜が広がった気がした。  コウダは続けた。 「最後にぐっすり寝たのは、いつですか」  ヒヤマはコウダから視線を剥がし、顔を背けて言った。 「覚えていないよ、そんなことは」  嘘だった。  本当はちゃんと覚えている。日付も、時間も言える。  だけど、それをコウダに伝える気はなかった。 「もうずっと前のことだ」 「そう、……ですか」  ヒヤマは明確に拒絶を示してしまったと思った。そんなつもりではなかったのだが、これではそう受け取られてしまうだろう。  先ほどのまでの盛り上がりが嘘のように彼らは気まずくなった。 「そしたら、……そろそろ、寝ますね。おやすみなさい」  立ち上がったコウダにそう言われ、ヒヤマの中にひらめきが浮かんだ。その眩しい光に目がくらんでヒヤマは思わず口走った。 「もし、」 「え?」  コウダは振り返った。 「家のことで――行く場所に困っているのなら、僕の家に来るといい。僕は基本研究室にいて、家にはほとんど帰らない。人がいないと家は劣化すると言うし、誰かがいてくれれば僕はとても助かる。すぐに決断できる話でもないと思うから、じっくりと考えてくれていい。気持ちが決まったら、教えてくれ」

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