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それからどことなく気まずい日が続いた。
ヒヤマはあのキスのことが引け目になって、コウダと正面から会話をするのを避けてしまった。コウダもそんなヒヤマの空気の変化を察したようだ。
気まずさが連鎖して、ぎこちない空気ができてしまった。
そして、ヒヤマはまたなんとなく研究所にいるようになった。そもそもそういうつもりだったのだから何も問題はないはずだった。それでもヒヤマは家に帰りたいと思った。家帰ればコウダが待っている。そう思うと、帰りたいし帰りたくない。
「帰れ」
カンザキが言った。
「俺が夜勤の日にうろちょろするな」
そう言われた。
カンザキに事情を、味のしないスープくらいに薄めて説明した。だから今日はいてもいいだろ、と言おうとすると、
「帰れ」
また言われる。
「お前の事情なんて知らん」
カンザキは夜の検査に向けて準備をしながら、呆れた口調で言う。
「だいたい、半分は帰りたいと思ってるんだろ。だったら帰ればいい。もともとお前の家なんだから」
吐き捨てるようにそう言われて、コウダの言葉を思い出す。
――ここはヒヤマさんの家ですよ。
ヒヤマは開き直る決意を固め、ありがとうとカンザキに言うと研究所をあとにした。
家に着いて、玄関の扉を開けると、電気が点いていて、コウダがいない可能性にわずかながら賭けていたそれが打ち砕かれたが、おいしそうなにおいがして、ついついヒヤマの腹がうずいた。
「……ただいま」
ヒヤマが言うと、
「おかえりなさい」
そう声が聞こえた。
「すみません、ご飯食べちゃいました。ヒヤマさんは食べてきましたか?」
「ああ、いや、まだなんだ」
「だったら、さっき作ったお好み焼き。まだあるので、どうぞ」
「ああ、……ありがとう」
ヒヤマは自分でお好み焼きを温め直して食卓に着いた。
コウダは自分の皿を片付けて、机を拭いていた。拭きながら、
「ヤマイモを入れてあるんです。邪道だって言う人もいますけど、ふわふわになって美味しいらしくて」
そう言ってくる。
コウダはなんだか普段と変わるところがなく見えた。というか、結局自分の問題だったのかもしれない。
「どうですか?」
ヒヤマはそれを口に運んだ。確かに、今まで食べたどのお好み焼きよりもふわふわだった。
「すごくおいしい」
「よかった」
コウダの目尻が下がった。嬉しいときの顔だ、と思う。
ヒヤマは緊張がとけて、ずいぶんと空腹を感じお好み焼きを勢いよく食べた。
「ごちそうさまでした」
言って、皿を洗いに出し、
「今日は僕が皿を――」
言いかけてコウダを見ると、彼はスマホを触っているところだった。
真剣な表情だった。ヒヤマは言葉を引っ込めて、水を皿に流し始めた。それがお湯に変わる頃に、
「すみません、ちょっと出かけてきます」
そう言ってコウダは立ち上がった。
「お皿、ありがとうございます」
そういうコウダをヒヤマは意味もなく玄関まで見送った。
扉が閉まった。
リビングに戻り、ダイニングテーブルに座ってヒヤマは目元を片手で覆うように両肘をつく。
コウダはミナミダのところへ行ったのだろうと分かった。彼から何かの連絡があったのだろう。
彼はもう帰ってこないかもしれない。
ミナミダに会って、やっぱり彼が良いと思うかもしれない。
もうあの家には行かなくていいと思うかもしれない。
嫌な想像がぐるぐると巡った。
ヒヤマはとりあえず皿を洗って、それもあっという間に終わってしまうと行き場もなく家の中を歩いた。自分の家。コウダのものがだいぶ増えて、なのに居心地の悪くないこの家。
なんとなく冷蔵庫を開ける。コウダの選んだ食材がいっぱい入っている。野菜室には色とりどりの野菜があって、ずっと駆動していなかった製氷機も動いている。
そして食糧倉庫を開けて――その端に、申し訳なさそうに酒の缶が入っていた。ジュースみたいな、度数の低いサワーの酒だ。
いつ買ったのかも思い出せないくらい前のものだった。しかし、まだ飲めるだろう。
とはいえ、酒など飲まない方が良いに決まっている。
だけれどヒヤマは自分に甘えてしまった。
――今日くらい、いいじゃないか。
ヒヤマは缶を開け、冷凍庫からできている氷をコップに三個入れてそこにサワーを注いだ。
気がついたらコップは空で、缶をゆすってももう何も出てこなかった。久しぶりのアルコールに随分と酔いが回って、足元が若干ふらついた。こんなに酒に弱かっただろうかと朦朧としながら驚いて、それでももう一度食糧倉庫に向かった。
あと2本ある。
酒を飲んで、空になったコップ、そして空き缶3つをシンクに出して、うすぼんやりと不透明のビニールがかかったみたいな思考で、よくなかったなと思った。
これは逃避でしかない。わかっている。
自覚すると、もっと酒を飲みたくなった。
そういうわけにもいかず、ダイニングテーブルについて、一人で座る。思考がコウダのことへ向かっていく。壁掛けの時計は夜十時半。コウダが出かけてからどれだけ経っただろう。
ずいぶんぼんやりしている自分に気がついた。肘をついて顎を乗せ、体がどんよりと重くなってくるのを感じる。
眠気だった。
アルコールを流し込んだ頭が限界を迎えたのだ。
ぼんやりと、ああそういえばもう二日も眠っていなかったと思った。
眠気がヒヤマをぐいと闇に引っ張った。その力は想像の数倍強く、ヒヤマは抵抗できなかった。だからとりあえず机に腕で枕を作って顔を埋めた。
大丈夫。どうせろくに眠れないんだから。どうせすぐに醒めるのだから――だから彼はベッドには行かなかった。ヒヤマが腕に顔を埋めたとき――目の前に迫った睡魔が思っていたよりも強いものだと気がついたが、もう抵抗する手段は残っていなかった。
乱暴に腕を引かれて、彼は眠りの中へと落ちた。眠りが彼の手をぐいぐい引いた。浅瀬ではなく、深い海の中へと。眠りは手を離さなかった。
そのまま、彼は海へ沈んだ。生ぬるく柔らかな海が彼を包んだ。
彼は眠っていた。滅多にないしっかりとした眠りだった。
「ん、」
声を漏らした。眉間にかすかに皺が寄った。
眠りの海が荒れ始め、彼のまわりで渦になった。あっという間にそれは荒れ狂い、彼は溺れて海に飲み込まれた。
そして彼は悪夢を見た。ひどい悪夢だ。
白く四角い部屋の中にいる。
一人きりだ。
部屋は中途半端に広い。中途半端に白い。中途半端に息苦しい。そして壁にはなんの切れ目もない。窓もドアもない。
本当に、一人きり。
誰も、彼のことを見ていない。知らない。気にしない。気がついてくれない。
不安が膨らむ。誰か気づいてくれと叫びたい。だけれど、その白い部屋はすべてを吸い込んで飲み込んでしまうだろう。さみしい。怖い。とても寒い。
その孤独に飲み込まれそうになったとき、何かの気配を感じた。
『何か』が、いる。
ヒヤマをじっと見つめている。
ヒヤマはその存在を最初嬉しく思った――何かがいてくれればそれだけで嬉しい。だがすぐに、その視線が不気味なものだと気がついた。それは攻撃的でも優しくもなく、ただ不気味に、ヒヤマを見つめている。見ている。見ている。見ている。
その気配は徐々に強くなっていく。ヒヤマはそれでもそこから出られない、逃げられない。やがてその『何か』は黒く長い手をヒヤマに伸ばし始める。部屋の中いっぱいにその手が生まれて、そこから逃れられない。生ぬるく湿った黒い手が、ヒヤマの体を撫で回した。気持ちが悪い。やめてくれ、離してくれ。
ヒヤマは理解する。
これは夢だ。悪夢だ。それも、とびきりの悪夢だ。
しかし、ヒヤマがそれを夢だと自覚したことで、その夢はさらに強い悪夢になった。ヒヤマはそれを飼い慣らすことに失敗した。それは暴れるようにぐちゃぐちゃにヒヤマの体を食い荒らした。目の前が真っ暗になって感覚がなくなる。体の中にその何かが入ってきて、うぞうぞとそれが中で蠢いて、苦しい、苦しい、苦しい――
耳元で大きな音が鳴ってヒヤマは飛び起きた。まだ音が鳴っていて、喉が焼けるように痛くてそれが自分の叫び声だとヒヤマは知った。ぐっと無理矢理に口を閉じてそれを抑え込む。呼吸が荒くて視界がくらくらした。心臓が震えて汗が滲んだ。彼は周囲を見回した。薄暗いリビング。その部屋の角から何かが出てきそうな気がして、彼はぐうっと唸った。ここはまだ夢の中かもしれない、まだあの恐ろしい夢の中で、何かが僕を待ち構えているかもしれない。世界がぐらぐらと不安定だった。自分のばかに荒い呼吸が耳に響いた。
「ヒヤマさん!」
扉を開けてコウダが入ってきた。
「大丈夫ですか」
混乱していたヒヤマは、その優しい声のもとへ飛び込んだ。その体に思い切り抱きついて強く抱きしめた。
「ヒヤマさん」
ヒヤマはかき抱くようにコウダに抱きついた。コウダの体はしっかりとしていて、どれだけ強く抱きしめても折れる心配がなかった。確かにその体はそこに存在している感覚があった。
夢じゃない。この体は夢じゃない。
するとコウダの手が、ヒヤマの背中を優しく叩いた。ヒヤマは目をつむって、そのあたたかなリズムに集中した。抱きしめたコウダは体温が高くほかほかしていて、暖かかった。
まるで日向みたいだとヒヤマは思う。
ああ、彼に近くにいて欲しい。
ずっと近くにいて欲しい。
眠っている間ずっと僕を見守っていて欲しい。
――そうしたら、僕はもしかしたら眠れるかもしれない。
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