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見慣れた天井、嗅ぎ慣れた匂い、そこは良く知っている空間だった。
だけれど、今までそこで眠ったことは一度もなかった。そこで眠っている人間を何人も見てきたのに。だから不思議な気分だった。ヒヤマはベッドに寝転がったまま、壁の右上のマジックミラーを見つめた。当然今はそれは鏡のように室内の光を反射している。反対側を見た。窓から明るい光が注いでいる。
――眠っていた。
ヒヤマはそう認識し、ようやく体を起こした。
寝起きの不快感がどこにもなかった。すっきりと意識が浮き上がってきて、体の疲れも感じなくなっている。
とてもよく寝た。
眠れた。
眠れてしまった。
ヒヤマは右手で自分の右頬を揉んだ。感触があって夢ではないとわかる。むしろ、さっきまでが夢だったのだ。ああそうだ何か夢を見ていた――しかし、それはもう失われてしまった。
何か、強い罪悪感のようなものがヒヤマを襲った。自分が眠れることは、何か禁忌を犯しているような気がした。
呆然としているヒヤマに、
「ヒヤマさん」
そう声がかかった。コウダだった。
「おはようございます」
コウダの後ろにはカンザキもいる。
「すごくよく寝ていたので、起こさずにいました。もう昼です。よく眠れましたか」
「十二時だぞ」
カンザキが付け足す。
十二時――眠る前の曖昧な記憶を呼び起こす。そうだ、確かあれは三時過ぎ――だとしたら、自分は八時間以上眠っていたのか。
信じがたい気分だった。
「すごく、よく寝ていた」
誰に言うでもなく思わず呟いた。
「そうですね」
「こんなに眠れたのは――いつ以来だろう。なんだか、まるで夢みたいだ」
ぼうっとして言うヒヤマにカンザキが呆れたように、
「さ、ここはホテルじゃないからな」
そう言って、ぐいとヒヤマを起こした。
「お前今日、休みだろ。帰れ」
言われた通り自宅に帰った。コウダも一緒に帰る。仕事は、と思って、そうだ彼はもうあそこで働けないのだとヒヤマは気がついた。
「ただいま」
言いながら部屋に入る。そういえば、今日は休みを申請した気がする。なぜだろうと考え、
「今日、ベッド届く日ですね」
コウダが言った。
ああ、そうだった。
よりによってこのタイミングで、と思った。しかし、届くものは仕方がない。
慌てて準備をする。さすがに大きいベッドなので、本棚を一部移動しなければならなかった。二人でせっせと作業をして、ほぼ終わった頃にチャイムが鳴った。
作業員が三人がかりで大きなベッドを運び込んだ。
かかっていた青い布製のカバーを外すと、ベッドが現れる。
注文通りのものだ。おおー、とコウダは嬉しそうな声をあげた。ヒヤマはそれでも、素直に嬉しいと思えなかった。
作業員たちは書類にサインをもらって帰って行った。
「やっぱ、お店で見るより大きいですね」
大きい家具を買うのが久しぶりだからか、ヒヤマはその家具にどうにも馴染めない。あんなに二人で選んだのに。我が物顔で部屋の中心にいるように見える。どうしてだろう。
そんなヒヤマの気持ちを知ってか知らずか、コウダは嬉しそうにベッドを見て、
「ふかふかですね」
そう言いながらマットレスを触っている。
もしかすると、届くのが今日だったのは良かったかもしれない。
コウダが少しでもこのベッドで眠ってくれたら良い。だったら、自分はこのベッドで寝るべきではない。
――今日はさ、一人で寝たらどうかな。
そう言おうとした矢先、コウダはベッドに飛び込んだ。新しいスプリングの音がして、見るからに柔らかそうにコウダの体が跳ね返る。コウダは寝転んで、そのままヒヤマを見上げて言った。
「今日から一緒に寝ましょうね」
コウダはとても嬉しそうで――
「……うん」
きっと眠れないけれど。
それでも、二人でここで寝よう。
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