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第3話 苦痛のケア

「俺の大事な雪弥。俺がお前の役に立ってあげるからね」  青白い腕を伸ばして僕の手首を掴む知紀の手には、普段では想像もつかないような力が込められていた。その遠慮の無い行動に僕は怯んだ。掴まれた部分に、ぶわりと不快なエネルギーのもやが生まれるのが見える。 「痛いよ。離して、知紀」  しかし、彼は僕のその声がまるで聞こえていないようで、僕の方を見ようともしない。そうかと思えば、ただひたすらに僕を助けるのだと譫言のように呟いた。その表情は驚くほど希望に満ちている。  ただ、その向こう側には、不気味な薄暗い影が付き纏っていた。そのアンバランスなエネルギーの色は、知紀が正気では無いのだということを物語っているように見える。 ——もしかしたら、彼は気が触れてしまったのかも知れない。  この痛みは、そう思うには十分足り得るものだ。  今彼に握りしめられているこの手首は、その力の強さに悲鳴を上げ、熱を感じるほどに痛み始めている。こんなことは、今の知紀には不可能なはずなのだ。  なぜなら、彼は涼介が亡くなって以来、ほとんどの時間を自室で臥せって過ごしていて、かなり体力が落ちているからだ。いつも日が高いうちはほとんど外に出ることがなく、庭にすら立ちたがらない。外へ出る事があるとすれば、自身が経営している割烹へ顔を出しに行く時くらいだろう。それも、月に一度程度のことだ。  それ以外は何をするでもなく、庭に面した縁側に腰掛けてぼんやりと遠くを眺めて過ごしており、食事もほとんど手をつけない。動かず、食べずの生活で気力体力を失い、僕の目で見る限り、知紀の体はひたすらにその命の火を消したがっているように見えていた。  そんな状態の彼に、僕は今、ベッドへと叩きつけるようにして押し倒されていた。僕の体を縫い止めるようにして上に乗り、心から嬉しそうに微笑む。 「う、んぅっ」  真夏にも関わらず、冷たく冷えた唇が襲いかかって来る。何度か強引に口付けられ、口元がヒリヒリと傷み始めた。 「や、やめ……、離して……」  痛む唇と疲れた体に、容赦なく噛み付くようにキスが降る。息苦しさの中で必死に正気を保っていると、どこから取り出したのか、彼は真っ赤な腰紐を手にしていた。彼が持つものにしては派手に思えるそれをうっとりと眺めながら握りしめると、意気揚々とそれを僕の両手に巻きつけていく。 「とっ、知紀?」  このままではまずいと思い、僕は彼に声をかけた。そうすれば隙が出来るだろうと思ったのだけれど、それは叶わない。 「しっ、黙って待っててね。大丈夫、何も心配はいらないから」  そう言っている彼は、まるでずっと欲しかったものを手に入れてご満悦な子供のように上機嫌だ。 ——笑ってる。  彼の笑顔など、しばらく見ていなかった。  ずっと悲しみに潰れそうな姿を見ていた僕は、久しぶりに見たその無邪気な様にうっかり警戒を緩めてしまう。  それが良く無かったのは、言うまでも無いだろう。殴られていた日々もそう遠くはないはずなのに、どうやら僕は学ばないらしい。気がつくと、にこやかな悪魔にすっかり手の自由を奪われていた。 「ねえ、知紀。これ、外してくれない? ケアは君には出来ないだろう? だって君はミュートじゃないか」  ミュートに訳もわからず抱かれてみたりしたら、僕はどうなってしまうだろう。考えるだけで恐ろしくなってしまう。言った側からそれを想像していると、急激に不調が訪れた。  思考はそれほど危機を感じていなくても、体がそれを察知し始めたらしい。警戒心が感覚をさらに過敏にしてしまっているようだ。  知紀に罵られて殴られていた期間に、僕は何度かアウトしかけている。ギリギリ戻って来れたのだが、あの恐ろしい思いをするのかもしれないと思うと、それだけで呼吸が止まりそうだった。  あの時の恐怖の記憶を思い出し、それを避けようと神経が尖り始める。その本能的な反応さえも、センチネルには命取りだ。 ——まずい、こんな状態でゾーンアウトしたら、終わりだ。 「……あっ」

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