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第13話 ボンド

 得られないものを欲しがり続けても、僕が辛いだけだ。その辛さを抱えたまま帰ることになってしまえば、そこから先の地獄を生き抜ける自信も無くなってしまう。  そんなことになるくらいなら、全部忘れてしまえるように酩酊していた方がいい。 「ママ、今日もいつも通りお願いね」  気を取り直したフリをして、ママの背中に向かいそう声をかけた。ママは動きを止めると、僕の方へと振り返る。そして、ほんの刹那の苦しみを見せると、すぐに笑顔を作って僕へそれを向けてくれた。  そうして少しの間、僕の目の奥を覗くような様子を見せ、ため息を吐く。そして優しく柔らかな声で「……分かった」と答えてくれた。  グラスを取り出し、カウンターに備え付けのサーバーのコックを引く。いつも最初の一杯目はビールだ。  キラキラと輝くグラスに、黄金色に輝く液体が飛び込んで来る。それはそこに当たって砕け散り、底でいくつかの泡を生む。でも、その泡は顔を表すこともなく、大きな流れの中でスッと消えていった。  ママがコックを押すと、今度は白く密度の高い泡となってそれが現れる。同じものとは思えないその見た目の違いに、今更ながら面白味を感じつつ、僕はグラスの中が満たされるまでぼんやりとそれを眺めた。 「さっきもビールを飲んだから、お腹がいっぱいになるかもしれない」 「あら、そうなの? じゃあ小さめのグラスにすれば良かったわね」  そう言って、彼女は小さめのグラスを指差した。 「ううん、これでいいよ。ありがとう」  量を減らされるよりは多い方がいいに決まっている。翌日が仕事であっても支障がなく、それでいて今夜をやり過ごせる適量というものも弁えている。 ——意識がなくなるのが幸せだなんて……。  そんなことをぼんやりと考えていると、すぐそばでテーブルとグラスがコトンと音を立てていた。  どうやら一瞬意識が飛んでいたようで、金色に輝く液体とふわふわの泡で満たされたグラスの向こうに、怪訝そうな顔でママが僕を見つめている。 「うわっ、えっ、え? あ、ありがとう……」 「——どうぞ。何、どうかしたの? もしかして、抑制剤が効き過ぎたんじゃないでしょうね。ちょっと痩せたみたいだし、体重が変わると薬が効き過ぎたりするでしょう? ちゃんと食べなさいよ」  ママはそう言いながら、僕の目の奥を推し量ろうとした。  最近の僕の様子には、色々と思うところがあるのだろう。それなのに、何を訊いても大丈夫しか言わないから、こうして目を覗いてでも知ろうとしてくれているようだ。  本当なら、ママのレベルであれば僕に触って共感すれば、僕の考えていることなんてなんでも分かるはずだ。でも、僕が必死になって隠そうとするから、勝手にそれを知ってはいけないと思ってくれているのだろう。  色々と無理を聞いてもらっているのに隠し事をしているなんて、ちょっとした裏切りのようにも思える。その後ろめたさに、僕は思わず目を逸らした。  でも、これじゃあママでなくても、隠し事をしていることに気がついてしまうだろう。それでも、本当のことは言わない。どうしても言いたく無いんだ。 「うん、大丈夫。ちゃんと食べてるよ。今日はさっきまで職場のみんなと飲んでたから、ちょっと酔ってるのかもしれない。いつも以上にぼんやりしちゃってるね」  明らかに誤魔化してそう答える僕に、ママは諦めたようなため息を吐く。そうして、仕方がないと言いたげな視線を送ると、何事もなかったかのようにビールを注ぎ始めた。 「——ああ、そうだったわね。だから遅い時間に来たほうがいいわよって連絡した時に大丈夫って返してきたんだものね。じゃあ、今日はいつもより飲む量を減らして提供しようかしら。そうじゃないと、飲み過ぎになるでしょう?」  心配そうに僕を見つめながら、ママはそう言った。  僕だって、こんな状態が続くと良く無いことくらいは分かっている。でも、半分暗示のようになっているルーティーンを、今日だけ変えてしまうのはどうしても恐ろしいんだ。  そうは思っても、それをうまく説明出来ない。仕方なく、ただ何度も子供のように首を振る。それが精一杯だった。 「——ごめん、それはちょっと……、いやだ」  僕の様子を見て、またグラスを吹き始めたママの手が止まる。その目が僕をじっと見ているのは分かっているけれど、僕はもうその顔を見る事も出来なかった。 「——ユキ、あんたどうしちゃったのよ、本当に……」  声はどんどん優しくなる。分かってあげたいと思ってくれているのが分かる。でも、どうしても素直に話す事が出来なくて、僕は瞼に溜まっていく涙を溢さないようにする事に必死になっていた。 「もう、本当にあんたは……。変なところで頑固なんだから。——分かったわよ。いつも通りに提供するわよ。でも、本当にそろそろこんな生活やめる事を考えなさいよ。いくら若いからって言っても、こんなに毎日じゃあ体壊すんだからね」  吐き捨てるようにそう言いながらも、優しい手つきでほんの少しだけ髪を撫でてくれる。その手の温もりと、こっそりしてくれているであろうケアの効果が、ものすごく嬉しくて、鼻の奥がつんと痛んだ。 「うん、ありがとう。——僕に合うガイドに出会えるっていう奇跡が起きるのを願っててね」  ビアグラスに映る悲しげな顔を見つめながら、僕はそう答えた。    でも分かっているんだ。  この日々に終わりが来るのは、僕の人生が終わる時だ。僕の精神が焼き切れ、脳が壊滅的なダメージを蓄積してしまい、限界を迎える。その時にようやく終わりを迎えるのだろう。考えまいとしても考えてしまうそれは、想像するだけでとても辛い。  だから、今は少しでもそれから逃れるために、お酒に溺れていたいんだ。  酔って意識を飛ばした状態であれば、帰宅後の苦痛もなんとか乗り切れる。そう知った日から、僕は安心して過ごせるここで、毎日完全に潰れるまでお酒を飲んでいる。  弱いお酒を長時間飲むと翌日が辛いので、強いものを短時間で飲むようにしていて、この行いは肝臓には悪いんだけれど、ゾーンアウトからは確実に遠ざけてくれていた。  そういう意味で、僕の精神にとってはいいものだと言えるだろう。  何度か繰り返してベストな飲み方を割り出し、それをママに伝えて協力してもらっている。  いつも僕が酔い潰れたら知紀に連絡を入れてもらい、迎えに来て貰うようにしていた。  そうすると、僕の役に立てたと言って知紀が喜ぶし、僕は完全に意識が無い状態で彼を迎え入れればいいので、彼の言うところの「ケア」を受けても辛くなくて済むのだ。 ——早く今日を終わらせよう。  そう心に決めると、キラキラと輝くグラスを掴み、それをぐいっと勢いよく煽った。 「そういえば、知紀はビールは苦いから苦手だって言ってたな」  僕は気が触れたのだろうか。自分を酷い目に遭わせていている男の事を想っている。一度は完全に手放したはずのその想いをまだ未練がましく抱きながら、同じ男からの逃避のために体を壊しながらお酒を飲んでいる。なんて滑稽なんだろう。  でも、それも仕方がないことだ。今の関係がどれほど苦しいものであっても、僕にとっては大切な人なのだから。 「好きだったからなあ……」  思わずそう呟いた。  そう、僕は彼に長いこと片想いをしていた。だからこそ、あんな目に遭わされても、未だに彼を突き放せないでいる。どんなに考えても逃げ出すしか解決の無いこの茨の道を自ら進む理由は、ただ彼を想っていた熱が冷めきらないからだ。  本当のところは、ただそれだけなんだ。  知紀は、色白の肌とそれが映える艶のある長い黒髪、それに桜色の頬と唇を持っていて、上品な目鼻立ちで穏やかに笑う姿が印象的な男だ。  春先に三人で外出している時、彼が桜の精に見えると涼介が言ったことがある。  何を馬鹿なことをと思っていたのだけれど、実際に夜桜の下に立っていた彼を見た時には、確かに桜の精にしか見えなかった。  彼の実家は料亭を営んでいるのだが、その事を誇りに思っていた彼は、小さい頃から両親の真似をして、日常的に和服を着ていた。妖精のような彼が和服姿でいると、柔らかくも凛とした雰囲気を纏う。  美しくて儚くて、でも柔らかく輝いている。どこか人ならざる雰囲気すら持ち合わせている。それが知紀だった。  そして、その魅力は何よりも内面の素晴らしさだろう。 彼は、どんなに苦しい時にも常に穏やかで優しく、懐の深い男だった。僕は、その儚くも強い意志を持つ彼に、密かに想いを寄せていた。 「そう言えば、友達の恋人を好きになってしまったんだって、相談したことがあったなあ」  あの頃の恋心を思い出すと、好々爺だった白藍さんの姿を思い出す。胸元にあるらしい印を彫ってくれた人は、僕の唯一の相談相手だった。  家族や友達は、知紀と涼介が好き合っていることを知っていた。そして、皆が彼らの幸せを願っていため、僕の気持ちは誰にも明かすことが出来なかった。  それでも、当時中学生だった僕には、初めての恋を一人で抱えきれなくて、誰かに相談したくてたまらなかった。  それを白髭の好々爺である白藍さんに気づかれ、いつも施術の時に|精神感応《テレパス》でこっそり話していたのを覚えている。 「あの人に触られた時みたいに、触れても痛くなくて、むしろ吸い寄せられるみたいな心地良さを感じられる人に、もう一度出会いたいなあ」  そう呟いて、空になったグラスをカウンターへと置く。すると、入れ替わるようにして、ロックグラスが差し出された。  その中には、琥珀色の液体と丸い氷が見える。普通なら、これはゆっくりと味わって飲むものだろう。でも、僕には短時間で酔うという目的がある。ロックグラスを両手でギュッと握りしめると、意を決して中の液体の半分を飲み込んだ。 「——ぐっ」  じり、と喉が焼けそうになる。ヒリヒリとした痛みの中で息を吐き出し、息苦しさを押し出した。こんな飲み方は、本来ならバーテンダーへの冒涜のようなものだろう。ママへの申し訳なさに胸が痛む。  丁寧に削られた氷、忙しい中でも徹底される、雑味を生まないための丁寧な注ぎ方。そして、溶け出しの管理。  その全てを無に帰すような僕の飲み方は、他の店では到底許されないものだろう。  プルシアンは、僕が小さい頃、先代のマスターがいた頃から、家族ぐるみの付き合いが続いている。  だから、店が僕を理解してくれていて、正直なところ、僕はそれに甘えていた。 僕がガイドに恵まれないという事情を理解してくれているママだからこそ、こんな飲み方をすることを許してくれるだろう。勝手にそんなふうに思っている。  いくら同レベルのガイドに出会うのが無理だと言っても、それならば、本来はケア専用のパートナーとして、レベルの近いガイドをマッチングして貰うべきだろう。軽微なケアであれば、それで事足りる。そうなれば、相手は恋人でなくても可能だ。  でも、知紀は僕たちは恋人同士だと思っている。だから、大切な僕の役に立ちたいと言いはり、ケアのために僕を抱くことを、他の人に譲るのをどうしても嫌がるのだ。  僕がたとえ軽微であったとしても、他の人のケアを受けることも許してくれない。だから、ここでママからケアを受けていることも、実はずっと隠してある。ミュートである知紀には、僕がケアを受けたかどうかなど、言われなければ分からない。ただ飲みにきて潰れているだけだと信じて疑わないようだ。  今でこそ僕もこんなに投げやりだけれど、彼のその病的な思い込みを正そうと頑張っていた時期もあった。でも、その度に混乱した知紀が激しく抵抗して暴れるため、それを宥めるのに疲れてしまった。だから、今はもうそれを受け入れる事にしている。  ただ、センチネルである以上、僕はどうにかしてゾーンアウトしないようにしなければならない。そうやって行きついた答えが、プルシアンに甘える事だった。知紀とのことは話せないけれど、このルーティーンをこなさなければ生きていけないということだけは、ママにも話してある。だからこそ、酔って前後不覚になってしまう僕の事を、今でもこうして受け入れてくれているのだ。  この店の客の殆どは、ガイドを引っ掛けてケアルームに消えていくか、タトゥーの施術を受けているので、カウンターにはあまり人が来ない。今は、ほぼ毎日僕がここを独占しているような状態が続いている。面倒くさそうなセンチネルが毎日一人で酔い潰れていると、もはや誘いの声もかからない。寂しいセンチネルが潰れるだけの時間が、ただ流れていくばかりだ。そんな事を思いながら、自嘲気味に笑いつつ酒を呷る。  ビールを飲んだ後には、氷で濃さを調整してもらいながら、何杯か立て続けにバーボンのロックを飲むのが常だ。僕は楽しむためにここへ来ているわけではないので、飲み始めると一切話さなくなるのだけれど、店側からも僕へは話しかけないようにして欲しいというお願いをしている。  そうして、飲みながら集中していき、色んな感覚を閉じていくのだ。最後のグラスに辿り着く頃には、もう何も感じなくなっている。その状態になる頃を見計らって、ママが知紀に連絡を入れてくれているそうだ。 「失礼します。最後のグラスです」  いつもなら、その約束は固く守られている。 「——へ?」  それなのに、今日はなぜか、|洸哉《こうや》と書かれたネームプレートをつけたスタッフから、突然声をかけられてしまった。 「なに? キミ、……られ? 僕には、はらしかけにゃいっれ、言われられしょ?」  日々続く地獄を乗り越えるために、他に打つ手がなく、唯一の逃げ道に使っているこの時間を邪魔されたことに、僕は憤りを感じていた。それでも最初は一言言えばいいかなと思っていたくらいだった。 ——あ、どうしよう。なんだかすごくイライラする。  それなのに、今日はなぜか怒りはどんどん強くなっていった。抑えきれない怒りが膨らみ、次第に抗議の声が大きくなっていく。しかも今は酔っているから、それをコントロールする事がいつもよりも難しい。膨れ上がる負のエネルギーが、次第に僕自身を飲み込もうとしていた。 「あっ、コウっ! ユキに話しかけちゃだめよ! ほら、こっち来なさい。ごめんね、ユキ」  慌てたママがコウと僕の間に腕を差し込み、ぐっと彼を引き剥がす。 「——すみません。そういえば声をかけちゃいけないお客さんいましたね……」 「そうよ、忘れてたの? でもまあ、カウンター久しぶりなのに一人にした私がいけなかったわね。ごめんなさい。ユキも、本当にごめんね」  ママはそう言うと、僕もコウと呼ばれたスタッフにも頭を下げた。それを見ていると、なぜかまた苛立ちが増し始めた。  僕が腹を立てるなんて、滅多に無い事だ。ぐっと眉間に力が入る。ママがそれに気がついたのか、慌てて僕の頭を撫で、宥め始めた。 「あー、ごめんねユキ。あんたにはこの方法しか無いのに……。中途半端に酔いが覚めちゃったのね。ごめんなさい、ユキの好きなだけここにいていいから。もう一度私のケアで良ければ受ける?」  何がそんなに腹立たしいのか、僕にももう分からなくなっていた。ぐらぐらと揺れる世界の中で、ママが何かを詫びている。 「まら、キス……らけ?」  モヤモヤする胸を抑えながら、ママにそう問いかける。困ったように眉根を寄せたママは、 「——あ、うん。そうね、それしか出来ないんだけど……」  と言って俯いてしまった。  僕を唯一ケアできるママがそう言っているんだから、出来ればこの怒りを収めたい。 「——やら」  でも、出来なかった。 「やーら!」 「ちょっと、ユキ。大きな声出したらダメよ。耳が……」 「やらもん!」  宥めようとして差し出されたママの手を、僕は叩き落とした。 どうしてなんだろう。これまでこんなに腹が立ったことはあっただろうかと不思議に思うほどに興奮している。こんなことは、おそらく生まれて初めてじゃ無いだろうか。思わず大声で叫んでしまった。 「ママっ! ぼ、僕をらいてもくれないくせに、おしゃけ飲むのも、じゃ、じゃまさせるらんれろういう……」  いつもなら、感情の全てもセンチネルの力も、精神力だけで上手くコントロールしている。いくらお酒を飲んでいたとしても、飲み過ぎて意識がなくなったとしても、僕がこんな風に怒ることなんてあり得ない。そんな事をすれば、僕は苦しむだけだから。そうならないようにずっと気をつけて生きて来た。 「ちょっと、ユキどうしたの? なんでそんなに怒ってるのよ」 「あの、ユキさん、すみません。俺が余計なことをしたから……」  困惑したママとコウが、僕を宥めようと必死になっている。  でも、むしろ怒りの感情はさらに膨れ上がっていっているように感じた。  これまでずっと行き場を失っていた怒りが、ここぞとばかりに噴き出してくる。不自然なほどに堰き止められていた思いは、一度溢れ出ると止まることが出来ないみたいだ。 「僕にはっ! こ、これしか楽になれる方法がらいのに! 誰も、僕のことを救ってくれらいのに……。おしゃけまで、じゃ、邪魔しらいれよ!」  まるで駄々をこねる子供のように、みっともない姿を晒している。そして、流れるままに任せて涙を流し、声を上げた。高く鋭いその声は、周囲の心配をよそに、自分の耳を攻撃していく。平衡を失い始めた体は、ぐらりと傾いた。 「ユキ、落ち着いて。ほら、おいで」 「やら! ——じゃあ、じゃあ抱いてよ! もうキスらけじゃやら! 僕、センチネルとしてちゃんとがんばってる。なのに、回復させる方法が無いんだ。——もう辛い。辛いんらよ。ずっとガマンばっかりれ……」 「分かったから、ほら、こっち向いてごらん」  これまで見せたことのない醜態に、ママも困惑したのだろう。 キスまでのケアなら任せていたからか、強引に僕を抱き寄せようとした。いつもなら嬉しかったはずだった。でも、何故かその行動に、背筋がぞわりと冷えていく。 ——いやだっ!  その時、初めてママに対して嫌悪を感じた。  それは、能力の問題じゃない。  手っ取り早く抱きしめて宥めようという思いが透けて見えて、その上力で押さえ込もうとしたその行為そのものが、どうにも受け付けられなかった。  そのやり方が、毎晩僕へ暴力を働いていた頃の知紀そっくりだと思ってしまったからだ。 「離してっ!」  僕は堪らずにそう叫んで、ママを突き飛ばす。でも、僕よりママの方が頑丈だ。彼女はびくともせず、僕の方が足をもつれさせて倒れ込むハメになった。 「ユキっ! 危ないっ!」

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