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第38話

 ひとしきり笑ったアキラは、少しだけ表情を改めて言った。 「尊斗さんのお気遣いはありがたく頂戴しつつ、有事の際は臨機応変に対応しますのでご心配なく。あっ、もちろん尊斗さん及び警察の皆さんには極力ご迷惑をおかけしないようにしますから」  別にアキラに気を遣ったわけではない。と、いちいち訂正するのも大人げない気がして、口を噤む。  赤穂の意向は伝えたが、アキラに証言を強制することはできない。……してはいけない。  これ以上、彼に言えることはなかった。 「いいか。しばらく大人しくして、警察関係者に対しては、くれぐれも、社会通念を逸脱するような言動は慎むように」  くどい念押しには、「はあい」となんとも気の抜けた返事だ。信頼できないにもほどがある。 「……夜分に邪魔をしたな」  言うべきことは言ったと、赤穂は踵を返した。 「尊斗さん」  呼ばれ、手首を掴まれる。  反射的に振り返ろうとしたところ強く腕を引かれ、軽くバランスを崩した。 「……っ」  踏みとどまろうと足を出した先には、アキラが。  次の瞬間。どういうわけか赤穂は、抱き留めるを通り越して、抱き締められていた。  至近の体温。いつものフレグランスとは違う、髪から甘い香りがする。プライベートな空間にいることを感じて、妙に胸が騒いだ。 「なん、」  身じろぐと、逃がさないというように拘束が強まる。 「尊斗さん、ちょっとは自衛してもらいたいんですけど」  ぼそぼそと耳の近くで話され、くすぐったくて首を竦めた。 「は?」 「俺があと少しでも紳士じゃなかったら、奥の部屋に連れ込まれて大変なことになってたかもしれませんよ」 「何を、言ってる。……離せ」  年頃の娘にするような心配をされて、思わず赤面した。  大変なこととは一体なんだ。  十分に「おっさん」と呼ばれる年齢の、しかも泣く子も更に泣く強面の自分が、そんな危機感を持っている方が気持ち悪いのではないか。  意識すると、このゼロ距離が気になってきてしまった。  昨晩は自宅に戻らなかったし、一応捜査員が寝起きする道場にシャワールームはあるが、着替えには限りがある。仕事なので仕方がないとはいえ、誰かと密着するのに相応しい清潔感ではない。寒い時期なので、夏場より多少ましかもしれない、なんてのはあくまで当社比だ。  職場にいる時にはみんなそうなので気にならないが、女性向け週刊誌から飛び出してきたアイドルのようなアキラ相手だと、気が引けてしまう。  いやむしろ臭くて幻滅された方がいいのか? などと無駄なことまで考えてしまい、落ち着けと己に言い聞かせた。  赤穂は絶賛葛藤中だったが、アキラは気にする様子もない。 「家に来て、俺を気遣うようなことを言って、勘違いされたらどうするんですか」 「そんなことを心配する必要はないだろう。逆はともかく」 「逆?」 「こんなことをして、お前の方が危険だとは思わないのか」  アキラがぱっと顔を上げる。  キラキラした瞳に覗き込まれて、距離の近さに腰の限界までのけぞった。 「尊斗さん、俺のこと襲ってくれるんですか」 「今この瞬間の話じゃない。……とにかく離せ。苦しい」  抗議をすればアキラは多少腕の力を抜いたが、解放の時は訪れない。  それどころか、不穏なことを言い出した。 「少しくらい身につまされた方が危機感出ます? 尊斗さんがそんなんだから、俺は」 「おい、いい加減に」  痺れを切らして口を開くと、アキラの言葉の後半を遮るようになった。  何かを言いかけていた、と気付いたが、聞き返す前にアキラはぱっと離れる。 「すみません、尊斗さんが無防備すぎて、つい」  そこには、いつもと変わらぬ軽い笑顔がある。  わからなかった。アキラが、何を考えているのか。  何事もなかったような顔をしているので、赤穂もいつもの調子で話した。 「そもそもこんな危機は訪れないから問題ない。お前の方が気をつけろ」 「俺は百戦錬磨だから、対処法もばっちりです」 「……日常的に危険な目に遭ってるんじゃないだろうな」  ごく一般的な懸念を口にしただけなのに、またそうやって無暗に俺を心配して、と何やら咎められる。 「危険な目に遭ってるのは、不埒な輩の方なのでご安心を」 「安心できるか」  付き合っていられないと歩き出した。  アキラは、当たり前だが今度は引き留めたりしなかった。  ドアに手をかけ、会釈をすると「ごちそうさまでした」などと余計な一言が飛んでくる。  赤穂は、何も応えず外に出た。  玄関ドアを閉めた途端、びゅうと冷たい風が吹いたが、室内が暑かったため心地よく感じた。  もう家に帰るだけだからと、シャツの胸元を緩め、空に向かって白い息を吐き出す。  全身にじわりと汗をかいていて、やけに焦っていたことを自覚した。  あんなもの、いつものアキラの冗談だというのに何を。  門を出て、赤穂は暗い坂道を下り始める。そして己の行動について考えた。  こんなところまでわざわざやってきて、自分はいったい何をしたかったのか。  アキラに、忠告をしに来たつもりだった。  だが、そのアキラに指摘されたとおり、捜査情報を漏らすような行為でもあった。  結局、アリバイに関して言うか言わないかはアキラの自由なのだから、赤穂が気にするようなことではなかったかもしれない。  何故、ここまで来る前にその考えに至れなかったのか?  わざわざ自宅まで訪ねて、彼に会いたかったなんてことは……。  危険な考えに至りかけて、赤穂はぶんぶんと首を振った。  そんなことはあるはずがない。しかし……。  相手は多少不穏な部分はあるものの金にも恋人にも困っていなさそうな容姿端麗な若者で、こちらは薄給の冴えない中年刑事。  冷静に考えると、相手から好かれるよりはこちらが好きになる可能性の方がまだ高い。 「(いや……、ない。それはない)」  人類はしばしば美しいものの前では言葉に詰まる。  ただそれだけのことだ。  あとは、危なっかしいから、気になるだけ。  あとは……、……。自分は何を、そして誰に対して言い訳しているのだろう。  とにかく、そういうことではない。  赤穂は無理矢理、捜査が行き詰まっているから疲れているだけだと決めつけた。

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