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【第一部】2

 Ω。αと同じ程度の人口分布。  Ωは男女問わずに生殖能力がある。子供を作ることのできる体だ。そして三ヶ月に一回、【ヒート】と呼ばれるものがある――まあ、言ってしまえば動物と同じ発情期だ。  俺は家に帰って部屋に入る。カレンダーには今日からマルがついていて、苦い気持ちになりながら医者から処方されたヒートの抑制薬を手に取った。  科学技術は進歩して、今Ωのヒートは抑制薬で99%抑え込める。  俺はそんな薬を飲む。くそ食らえだ、そう思いながら。  薬を飲むたびに、俺は何かに負けている気持ちになる。本当はこんなものは飲みたくない。だけれど、もしヒートが来て俺のにおいがばら撒かれたら、俺がΩだと周囲にバレてしまう。クラスメイトは俺がΩであることを知らない。俺は体がでかくて、Ωにはとても見えないから。  薬を飲み終わった俺は、壁のカレンダーに乱暴にバツを書き込んで風呂場へ向かった。これから一週間は薬を飲み続けなければならない。それを考えるだけで気が滅入った。  服を脱いで、体を鏡で確認する。Ωは先天的に体の発達に乏しい場合が多いという。俺は自分の体を見る。筋肉で膨らんだこの大きな体は、だから俺が努力で手に入れたものだ。  俺がΩだと知らないクラスメイトは油断して、俺の前でよくΩをバカにする。このクラスにはΩいなくてよかったよな、いたら誘惑されちゃうぜ、とか。俺はそれを他人事のように聞いている。別に傷ついたりもしない。 「帰ってたならなんか言いなさいよ」  シャワーのノブをひねった頃、脱衣所から母さんの声が響いた。俺はそれを無視して頭を洗った。 「まったく」  そんなため息を漏らし、「ご飯準備してあるから」と言って母さんは出ていった。俺はシャンプーのポンプを押して、がしがしと髪を洗う。シャンプーの泡が、俺の顔を流れていく。俺は鏡で自分と見つめ合う。  俺が俺を睨んでいた。短い黒い髪、鋭い目つき。  俺の家族は、俺以外みんなβだ。平均的な、ヒートも何もない、平凡な存在。人口で一番多く、約束された成功も、約束された堕落もない、平坦な人生。  親は、俺がΩだとわかってからも変わらず俺に接してくれている。子供がΩだとわかると、ひどい扱いをする親もいると聞く。だから俺は、親にはすごく感謝している。  ――Ωに生まれたことを悔やまない世界にしたいんです。  先ほどの言葉が、俺の脳裏にこびりついて離れない。  泡がまとまって顎からぼとりと下に垂れた。  学校に着く。教室はいつも通り騒がしい。男子しかいないこの学校では、普通に卑猥な話とか、ゲスな話をみんながしている。誰かに彼女ができたとか、誰かが初めてやったとか、どうとか。  スマホで佐藤が何かを熱心に読んでいた。こいつが何かを読んでいるのは珍しい。思わず興味を持って俺は尋ねた。 「何読んでんだよ」 「小説」 「小説?」  こいつがそんなもんを読むなんて、長い付き合いで初めて見た。 「誰の」 「んー」  当たり前の質問に、なぜか佐藤は言い淀んだ。 「言っていいかわかんない」 「はぁ?」  どういう意味だ? 「ちょっと待って、確認してくる」  佐藤は立ち上がると、なぜか三ツ谷のところへ歩いて行った。三ツ谷に耳打ちするように何かを聞いて、三ツ谷が頷いている。 「オッケーだって」 「何が」 「三ツ谷の」 「だから何が」 「小説がだよ」 「はぁ?」 「だから、三ツ谷の小説なの。あいつが書いた小説」  やっぱり俺は意味がわからない。あいつが書いた小説? って、どういう意味だ。考えて、ようやく理解が追いつく。ああそうか、そのままの意味か。あいつが書いた小説なのか。  はぁ?  やっぱり意味がわからない。  混乱している俺の前で、佐藤はスマホで違う画面を開きながら言う。 「あ、てか彼女できたんだよ俺」  そう言って画面を見せてくる。急な話題転換についていけない。だけれど、その話題はとてもわかりやすかった。佐藤のスマホには写真が表示されていた。 「この子。楓ちゃん」  どうやら、この前交流試合をした学校のマネージャーの女子生徒だという。長い髪の毛を後ろに結えているその女子を見て、この子は多分βなのだろうなと思った。  佐藤もβだ。 「かわいいじゃん」  それはお世辞とかじゃなくて本心だった。  その子はかわいらしい、でもどこか凛とした雰囲気で、――でかい割にへにゃっとしている佐藤と並ぶと、きっとお似合いに見えるだろう。  βはβと付き合うことが圧倒的に多い。そもそもβは大多数だし、αとかΩみたいな特異な性質がない。だからわざわざそんな面倒に首を突っ込む人は少ない。  佐藤は俺がΩだと言うことを知っている。こいつとは小学校からの付き合いで、俺がΩだとわかったころ、どうしようもなくなって打ち明けた。それからもこいつは普通に俺と接してくれている。  そうか、彼女か。  俺は三ツ谷の小説のことはすっかり忘れてしまった。  放課後、部活。道場に向かう道中、よっぽど嬉しいのか佐藤はずっと初めての彼女の話をしていた。更衣室について着替える間も、ずっと。 「え、佐藤先輩恋人できたんですか」  後輩が耳ざとくそれを聞きつけて会話に参加してきた。写真、写真見せてくださいよーと騒ぎながら盛り上がっていると、三ツ谷がやってきた。  あ、三ツ谷さん〜と後輩が親しげに話す。同級生に話すみたいなノリだ。いつの間にかこいつはずいぶん部員たちと打ち解けている。  後輩が三ツ谷の頬を摘んでひっぱって遊んでいる。さすがにそんなの断れよと思って俺は三ツ谷を見た。三ツ谷は「やめてよぉ」と口だけで言っている。  そして、肝心の新聞部部長の姿が見当たらない。 「そろそろやめろ」  俺は後輩を後ろからこづいた。はーいと全然反省していない声で、後輩は三ツ谷で遊ぶのをやめた。 「部長は?」 「とりあえずしばらくお前に任せるって」  三ツ谷が言う。まじか。三ツ谷はポケットから小さなメモ帳を取り出していた。やる気まんまんって感じだ。おい、本当にそれでいいのか?  まあ実際、柔道部の練習なんて変わり映えするものでもない。ある意味当然の流れなのかもしれなかった。  失礼します。そう言ってあいつが道場に入って、まだ誰もいない道場の様子について一生懸命何かを書いているのを見て、佐藤が言ったことを思い出した。  ――あいつが書いた小説。  小説。書いてるんだよな。  お前新聞部なのになんで小説なんて書いてんの?  そう聞こうかと思った。俺が知ってることはもう知ってるはずだし、別に遠慮なく聞けばいい。そう思ったけど、後ろから部員たちが入ってきてタイミングを逃した。  まあ、なんとなくそこまでの違和感はない。どちらも文章を書く部活だ。だけどうちの学校には文芸部だってある。だったらそっちに入ればよかったのに――と思って文芸部はいけすかないαの社交場だったことを思い出した。  唾を吐きたい気持ちになっていると、急に電気が落ちて道場が暗くなる。 「なんだろ」「停電?」  後輩たちがざわついた。すぐに復旧するだろ、と思って待っていたが、どうにもその気配がない。道場には窓はあるが、足元にある小さな窓だけだ。だから中はそれなりに暗い。  しばらくそうしていて、先輩たちが慌ただしく一階と二階を何度か往復し、 「復旧しないみたいだ。今日どうするかな」  と言った。  そうして、結局どうにもならず今日は唐突にオフになった。  暗い中スマホの電気を点けて着替えた。外に出ると、まだ明るかった。 「早いけど飯でも行くか?」  隣の佐藤にそう言ったけれど、あいつはスマホを触って、 「楓ちゃん今日オフみたいで。これから会ってくる」  わりぃな。そう言ってそそくさと立ち去った。 「ふられたなあ」  冗談めかした声が後ろから聞こえた。振り返ると藤島だった。 「変なこと言うなよ」 「冗談、冗談」  藤島は快活に笑った。 「剣道部も中止か」 「そう。困ったもんだな」  真面目にそう言う藤島の後ろで下級生が「休みだー!」と騒いで、藤島が睨みつけていた。 「そういうのは上級生がいないとこで言うもんだぞ」  慌てる下級生。 「なんてな! まあ、せっかくだしゆっくり休め。はしゃぎすぎんなよ」  藤島が一転明るい声で言うと、下級生たちは安心した顔をした。そのままなんとなく下級生たちを見送ってから、俺たちも校門へ向かう。 「剣持先輩お疲れ様でした」  そう言いながら部員が俺の横を通り過ぎた。それを聞いた藤島が言う。 「そういえば、前から思ってたんだけど『剣持』って名前、かっこいいよな」 「そうか?」  別に、ただの自分の名前だ。 「そう。柔道部にはもったいない。剣道部入ればエースだぞ」 「名前は関係ないだろ。結局勧誘かよ」 「はは、それはそうだ。でも、お前ならきっといいとこいける」 「逆に恥ずかしい、名前負けしそうだ」  話して歩いていると、三ツ谷が俺の横を勢いよく通り過ぎた。ネズミみたいに素早い動きだ。  挨拶もない。あいつにしては珍しい振る舞いだった。 「三ツ谷か」  藤島が呟いて、思わず見る。藤島は三ツ谷の背中を冷めた目で見ていた。 「藤島?」 「ん? ああ、悪い悪い」  お前、同じクラスだっけ、三ツ谷と。  そう言われた。 「ああ、うん。そう」 「あいつ、なんなんだろうな」  藤島は三ツ谷の話をした。それによれば、あいつは俺の思っているよりも遥かにいいとこの坊ちゃんらしい。  ――あいつんち、超金持ちだよ。  藤島はそう言った。親が有名な企業の社長だか副社長だかで、あいつは自分の自由に金を使っているらしい。αでも滅多にいないレベルの恵まれた環境で育って、好き勝手しているらしい。  ――なのに、あんな。  同意だった。まったく同意だったはずなのに、なんだか俺は共感できない。  藤島と別れたあとも、なんだかそれを考えてしまった。  ――情けないよな、あんな振る舞い。αなんだから、もっとしっかりしてほしいよ。  ――俺恥ずかしくなるんだよ、あいつ見てると。そういうの、なんていうんだっけな。  藤島の言葉。それはほとんど俺が普段思っていることのはずだ。あいつがαの中でも恵まれた境遇だというなら、なおさらだった。  だけど、どうしてだろう。なぜだか俺は、それを聞きながら居心地が悪い。

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