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【第一部】3
朝、教室に入る。まだ来ている生徒は半分ほどだ。
「一年のΩがさ、」
机の横にカバンをかけた俺の耳にそんな言葉が聞こえた。
「番になったんだってさ」
ほんとかよ、と疑いの声。ほんとだって、と篠木が答える。
相手のαのプロフィールを色々と面白おかしくとりあげる。どっか社長で、家がでかくて、十個年上。下世話な噂話だ。そもそも下の学年にそんなΩがいるのかどうかすら、実際には怪しいだろう。
「しかもあれだったらしいぜ」
「あれ?」
「わかるだろ、特別なやつだよ」
ああ、というリアクション。
「だからもう、すぐにガッチャンコ」
最低だこいつ、とクラスメイトはげらげら笑っている。
教室を見回しても佐藤はまだ来ていない。俺は仕方なくスマホを適当に触った。
αとΩは番になることができる。番というのは、約束された相手ということで、αがΩのうなじを噛むことで契約できる。
自分を選んでくれるα。その存在との契約。
それは大多数のΩにとって、一発逆転の救いみたいに見えるのだろう。トランプの大富豪で革命をするみたいに、自分の人生がひっくり返る一大事件に違いない。
その中でも持て囃される、『運命の番』。奇跡的な出会いで、一目で互いに惹かれ合う存在。そんなものが噂されていれば尚更、いつか誰かが自分をこの泥沼から救い出してくれるのかもしれない、そう思うのはおかしいことじゃない。
そして世間はそんな創作物で溢れている。運命に導かれて出会う、自分にとってたった一人のかけがえない存在。その美しいストーリー。
それは、Ωたちには生きる希望なのかもしれなかった。あまりに生きづらいこの世界で、それはきっと救いになっている。
だけどそれは、あまりにもろい糸だ。
だってそれは、――要するに他力本願じゃないか。
口を開けて餌を待っている魚と、実際には何も変わらない。
けれど、その光はきっとあまりに眩しい。俺たちはこの世界にその素敵なストーリーを刷り込まれている。本当はそれが醜いと知っていても、どうしようもなく魅力的に思えてしまうくらいに。
そして、俺は気づいている。そもそもああいう物語を読んで盛り上がっているのは、Ωでも、それどころかαでもなく――大多数が無関係なβたちだ。そう、今この話題で盛り上がっているあのクラスメイトたちのように。
俺は小便をしに教室を出た。
「おっと」
誰かとぶつかりそうになり――それが藤島だとわかる。
特進クラスのこいつがなんでこんなところに?
藤島が言った。
「ああ、ちょうどよかった。剣持に用があって」
「俺に?」
昨日道場のトラブルを受けて、緊急で設備点検が入ることになったという。
藤島の顔を見た。真剣な顔でプリントを見ている。
昨日のあの感じは微塵も顔に残っていなかった。
藤島はプリントを指差しながら、そのスケジュールを俺に確認する。藤島の指は、すらりとしているというより、無骨な印象だった。節がしっかりして、骨が太い。なのに、綺麗だと思った。
番。
こいつだったら、どうなんだろう。
そう思って、慌ててそれを打ち消した。
本当に刷り込みというのは恐ろしい。こんな風に、αの連中を見ると運命の番について考えてしまうときがある。自然と考えさせられてしまう。
αにはそういう不思議な何かがあって、大嫌いなはずのスマートな身のこなしに、不意に見惚れてしまう瞬間がある。
次の瞬間に自分を殺したくなる。
そんな軟弱な話に俺を当てはめたくない。
「わかったわかった、みんなには知らせておく」
だから俺は、そう言って乱暴に藤島の手からプリントをもぎ取った。
というわけで、今日は道場は点検。また部活は休みだ。
さすがにと佐藤と話し合って、二人で自主トレーニングをすることにした。
とりあえず二人で校内をランニングする。俺たちの学校は無駄に広い。もともと畜産を学ぶための学校だったからだろう。季節は春と夏の間、もう桜は散って、緑が芽吹いているけれど、まだ暑すぎるというほどではない。走るのにちょうどいい季節だ。程よく汗ばんで、風が気持ちいい季節。
「青春って、なんで青なんだろうな」
横で佐藤が言う。こいつも多分似たような感覚になっていたんだろう。佐藤が続ける。
「変だよな。春って別に青じゃなくね」
確かに。考えたことがなかったが、別に春は青くはない。
「青二才とか?」
「あー。それかな」
「青臭いとか言うもんな」
「ああ、言うな」
風が吹いて木が揺れて、葉が擦れる音がした。それを見て俺はひらめいた。
「青りんご」
「え?」
「あれも別に青くないだろ」
「ああ。確かに。ああ、じゃあ緑ってことか。なるほど」
佐藤は納得したようだった。緑ならまあ、なんとなく意味はわかる。
「信号だって――お、」
佐藤が何かに気づいて視線を逸らした。
「三ツ谷ー!」
そう言いながら手を振る。視線の先には、三ツ谷がいた。
三ツ谷は呼びかけに気がついて振り向き、手を振り返してくる。
三ツ谷が俺たちにカメラを向ける。大きなレンズがこちらを向いて、佐藤は立ち止まってポーズをとった。俺も仕方なく止まって、服で汗を拭う。
撮影する三ツ谷の後ろから他の生徒が来て、あいつは慌てて避けていた。相変わらずどんくさい動きだ。
だせえな。
食べられる直前の小動物みたいな動きに、佐藤が笑う。
「はは、あいつ、おもしろ」
ひとしきり笑ったあと、佐藤が「じゃあなー!」と三ツ谷に言って、俺たちはまた走り始めた。
俺はなんとなく佐藤に聞いた。
「あいつって小説書いてんだよな」
「うん」
「作家になりたいの?」
「みたいだな」
ふうん。
あいつが作家。全然ぴんと来ない。そもそもあいつが何かに真剣に取り組む印象がなかった。まあ、どうせ適当にやってるんだろうと思う。あいつの書いたものを読んだことはないけれど、だいたい想像がついた。
*
ようやく道場のメンテナンスが終わった。
久しぶりの部活にみんなが普段無いくらいやる気に満ちている。
「こんにちは」
三ツ谷が入ってきた。明確に元気がない。目に見えてしょげている。
昼休みからずっとこんなだ。沈んだ表情で俺たちの練習を見ていて、部員たちもこそこそと心配している。
「三ツ谷さん、なんかあったんすか」
後輩が聞いてきた。
「知るか」
俺が答えた。本当は知っている。佐藤によると、賞に応募した小説の結果が出たらしい。昼休みに書店に駆け込んで確認して、それがどうやら思っていた成績ではなかったらしく、落ち込んでいるようだった。
だけど別にそれを言いふらすのも違うだろう。だから俺はしらばっくれた。
練習が始まって、あいつはいつものように何かメモをとっている。それでも、元気がない。
あいつも落ち込むくらいには本気だったんだなと思った。とはいえ、暗い空気を撒き散らされるのも敵わない。
練習が休憩になって、俺は三ツ谷の正面に立った。
三ツ谷が俺を見上げる。
「うじうじしてんじゃねえよ」
「あ、ごめん……」
「元気出せよ。みんななんかあったのかって心配してるぞ」
「うん、ごめん」
「いいじゃねぇか、小説くらい」
そう言うと、三ツ谷が視線をそらして、一瞬の間のあと、
「誉くんは、柔道くらいって言われて、元気出る?」
そう言った。俺はびっくりした。
三ツ谷が明確に歯向かってきたからだ。その驚きが去って、なんだこいつと思ったけど、でもその通りだと思った。俺は三ツ谷がどれくらい本気なのか知らない。
三ツ谷はふてくされたような様子だったが、視線をあげてちゃんとこっちを見てきた。
へえ。
俺はこいつが意外と本気だったことに驚いた。そして、適当に見下したのは良くなかったなと思う。
「出ねえな」
言いながら俺は三ツ谷の隣に座った。
「悪かった、今のは俺が悪い。完全に」
三ツ谷を見ると、小さく首を振っていた。さすがに気まずくなって、お互い黙っている。休憩終わりなーと部長が言って、俺は立ち上がった。ふと思いついて三ツ谷に言った。
「お前もやる?」
「え?」
「ちょっと、参加してみろよ」
三ツ谷は露骨に苦い顔だ。
「いや、それはちょっと」
「体験取材だよ。見てるだけじゃつまんないだろ」
「でも」
「別にいじめたりしねえよ、ほら」
俺は半ば強引に三ツ谷の手を引いた。
え、何三ツ谷さんもやるの、いいねいいね、なんてみんな盛り上がって、俺と三ツ谷は組み合った。三ツ谷は授業でも柔道を選択しておらず、本当に初体験らしい。
「え、何どこ持てばいいの」
部内にある一番小さな道着を着た三ツ谷は、見るからに戸惑っていた。
「ここと、ここ」
「はい……」
おずおずと手が伸びる。掴んでいいのかためらっている。
「あんまりちんたらしてると組んだ瞬間ぶん投げるぞ」
ぴゃっと手が伸びて俺の道着を掴んだ。
「そう、そんな感じ」
教えた通りに初歩の技を俺にかけながら、俺は三ツ谷の動きに合わせて自分から倒れる。それでも三ツ谷は嬉しいのか、「すごい、すごい」なんてはしゃいでいる。
調子が戻ってきたのか、その後は元気そうにしていた。俺は安心した。暗い空気を撒き散らされないで済んだからだ。
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