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【第一部】5
そしてそれから数日後の朝。教室に入った俺を、クラスメイトが一斉に見た。視線というのが言葉を持っていると俺は初めてちゃんと理解した。
――あいつ、Ωなの?
――ほんとに?
――いや、違うだろ。
――でも、そうなんだろ?
三ツ谷もこっちを見ていた。その視線だけが違う言葉を喋っていた。俺はそれがはっきり聞き取れた。だから俺は、虫を追い払うときみたいに三ツ谷の方に手を振った。あいつに心配されるなんて真っぴらごめんだ。三ツ谷は視線を机に戻した。
三ツ谷が言いふらしたとは、全く思わなかった。そんな自分に気がついて、それがちょっと面白かった。変な話だ。俺は思わず笑ってしまった。
「なあ、お前ってΩだったの?」
近づいてきた篠木が言った。その瞬間、教室に変な緊張が走ったのがわかった。そうなることはわかっていただろうに、それでもそれを正面から訊いてくる篠木は、むしろ誠実な方なのかもしれない。
そんなことを考えながら、篠木の顔をじっと見つめた――篠木の表情に、悪意は全然見当たらなかった。
だから俺は「そうだよ」と答えた。
「俺はΩだ」
聞き耳を立てていたクラスメイトの緊張がピークを迎えた。
「そう、か。なんか、悪かったな、今まで、さ」
篠木が言う。
その顔は、実際には肯定されるとは思っていなかったように見えた。
その居心地の悪そうな顔を見て、さすがに俺は自分が傷ついていると認めざるを得なかった。多分こいつはもう、俺の前でΩの悪口を言うこともないし、Ωについてのくだらない噂も言わなくなるのだろう。俺はそれが悲しかった。俺は何も変わっていないのに、世界が勝手に変わってしまうのだから。
立ち上がって教室を出ていきたいと思った。そのまま、今日は学校をサボってしまおうか。だけど今立ち上がっていなくなるのはみじめだと思った。まるで負けたみたいじゃないか。だから俺は意地を張って、堂々と席に座っていた。
部活では、さすがに調子が出なかった。なぜかこんな日に限って、三ツ谷も取材に来ていなかった。
「大丈夫かよ」
休憩中、そう言ってきた佐藤に答える。
「バレたもんは仕方ないだろ」
俺はタオルで汗を拭う。先輩や後輩が楽しそうに話している。誰も俺に話しかけてこないのは、たまたまだろうか。
みんなもう知っているんだろうか。先輩たちは、後輩は。周囲の視線のいちいちが小さな棘みたいに感じて、俺が過敏になっているだけだけだと言い聞かせる。
仮に今知らなかったとして、いつ知るんだろうか。
考えて馬鹿馬鹿しくなって、
「そのうちバレることだし。仕方ないだろ」
そう言い聞かせる。
練習が終わって、また俺は鍵閉め担当だった。佐藤が待ってるよと言ったけど、無理矢理に帰らせた。誰もいなくなった道場は妙に広い。俺はしばらくそこに正座して目を瞑って、何も考えないようにした。しばらくそうすると、気持ちが落ち着いた。
下の階に降りる。藤島がいた。道具のメンテナンスという風もない。俺を見て言った。
「おお、剣持。お疲れ様」
俺は黙って藤島を見ていた。こいつが何を言うかおおかた予想がついた。
「この後、時間あるか? 飯でも行かないか?」
案の定、なんでもない風に藤島は言う。特に、断る理由はなかった。今日は何もない、普通の一日だからだ。
学校近くのファミレスに行った。夕飯時だから混んでいた。俺たちはちゃんとした飯も頼まない。机の上には唯一頼んだポテトが届いた。どちらも手をつけないで、どんどん冷めた。
何も話さない藤島に俺は仕方なくスマホを触っていた。別に見るものなんて何もないけれど。
もったいねえな。
そう思ってポテトに手を伸ばしたとき――
「剣持って、Ωなのか?」
藤島が言った。
俺の心が一瞬ぞわっと泡立って、すぐに凪いだ。動揺しない自分に安心した。俺は強かった。
「噂を聞いた。本当なのか」
俺はつまんだポテトを皿に放った。
「むしろ、αなのかと思っていたくらいだ。だから、驚いた」
黙っている俺に、
「否定、しないんだな」
そう言った。
別に構わない、こいつに知られたところで。そもそももうみんな知ってる。だけど、こいつはいつから知っていたんだろうとは思った。いつ聞いて、いつ知って、それでこいつはどう思って、どうして今俺の目の前にいるのか。どうして今そんな話をするのか。
少なくとも最後の答えは誰でもわかる。
「俺たち、きっと相性いいぜ」
その言葉がどういう意味かなんて、どれだけ察しの悪いやつでもわかるだろう。
ああ、でも、もしかしたら三ツ谷だったらわかんないかも。
なんで今あいつを思い出したんだろう。
馬鹿らしい。
藤島はテーブルの上で指を組んでいた。俺はあの日、藤島の指を見て感じたあの奇妙なぬくもりを思い出していた。それはもうなんだか遠く向こうにあって、すっかり色褪せて乾いていた。どうしてだろう、たぶん、今それが一番近くにあるのに。
「そうかね」
俺はようやくそれだけ言って、首の横をさすった。
「そう思わないか?」
藤島が言う。少し動揺した顔をしていた。俺の冴えないリアクションが予想外だったのかもしれない。
「別に。思わない」
俺は言った。
「そう、か」
藤島の視線がすっと下がった。
「そうか」
こぼれたその言葉だけが静かに響いた。
しばらくの沈黙が続いて、俺は伝票に手を伸ばした。帰ろうとする俺に慌てて藤島が言った。
「Ωとそういう関係になるなら、お前だったらありだと思った。俺はΩなんて嫌いだけど、お前なら」
俺はその言葉を聞いて、眉間に勝手にシワが寄った。何だそれ。藤島は続けた。
「お前みたいなΩは、滅多にいないだろ。だから」
それを聞いて俺はひどく不愉快な気分になって、伝票をむしるように手に取った。
「帰るわ」
カバンを持って立ち上がる。我慢できず俺は吐き捨てるように言った。
「お前ってどこにでもいるαなんだな。つまんねえ。もうちょっと面白いやつかと思ってた」
俺を見る藤島の顔には、Ωのくせに、って書いてあるみたいに見えた。
くだらねえ。
俺は大足で駅まで歩く。外はもう暗い。体の中にねばねばした何かが沈澱しているみたいで、俺は大声で叫びたかった。だけど通行人が多くて、そんなことをするわけにはいかない。
腹が立った。
藤島の舐めた態度。
思い出したくもないあいつの言葉。
あいつは、その辺にちょうどいいものがあったから手を伸ばしたに過ぎないんだ。
――俺はお前を選んでやるよ。お前は俺のお眼鏡にかなったんだ。
――喜べよ、嬉しいだろう?
あれは、そういう意味なのだろう。
馬鹿にしている。
イライラしながら歩いていると、また誰かにぶつかった。俺は倒れた男を思わず睨んで――それがこの前の男だとわかった。今度は男は俺に手を伸ばしもしない。自力で立ちあがろうとする。俺は手を伸ばそうとして、逆に男に手を払い除けられた。心臓が何か少し縮んだ気がした。男は俺を一瞬睨んで歩き去った。
俺は口元に手をあてて、しばらくじっと考え込んだ。
だけどそれは、きっとどうにもならないことだ。だから、もう考えるのはやめよう。そう思った。改札をくぐるためにスマホを取り出したら、三ツ谷からメッセージが届いていた。
――こんにちは
その言葉だけ。
それは、あいつからの初めてのメッセージだった。クラスが一緒になって流れでIDを交換してから、一度も連絡なんてとっていなかったから。
俺は画面を見る。『こんにちは』だけ。でもそれだけでも、あいつが何を考えているのかなんとなくわかる。心配しているんだろう。
心配なんてされたくない。クソが。
そう思って、さすがにそれは俺が嫌なやつすぎると思った。電車が来て乗り込んだ。妙に空いていて席に座れた。普段は体がでかいから座らないようにしていたけど、これくらい空いていればいいだろう。スマホを取り出して、なんて送ろうか少し考える。
――なんだよ
結局一言だけそう送った。
しばらく返事がなくて、相手が入力中だと何度か表示された。なんなんだこいつはメッセージさえうじうじしてるのかと呆れていると、
――この前の写真送ってなかったから、送るね
そのメッセージとともに、ぽん、と写真が送られてきた。
それはあの日の、ランニング中の俺と佐藤。楽しそうにポーズを取る佐藤と、その横で汗をつまんなそうに拭いている俺。
なんでもない、ただの写真だ。普通の俺だ。普通の佐藤だ。いつも通りの俺たちだ。だから俺はそれを見ても、何も別に感じなかった。何も感じなかったから、顔をあげて窓を見た。夜景が流れていく。そこに、俺の姿が反射している。
そこにいるのは、何も変わらない、いつもの俺だ。
別に俺みたいなのがΩだと言うのが珍しかったというだけで、Ω自体はそれなりにいる。みんな、Ωの扱いはちゃんと分かっている。
それからしばらく経って事態は落ち着いて、俺は普通にΩとして扱われるようになった。
さざ波は落ち着いた。やんわり距離ができて、縮まらないままに。
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