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【第一部】8
――そして翌日、大会当日の朝。
佐藤と待ち合わせて会場に向かって、部員たちの集まりを見つける。部長が、あの新聞部の部長と話している。
「剣持さん」
新聞部の部長が俺にインタビューをしてくる。こいつずっと見てもいなかったのにすげえなと感心する。こういうやつが世の中うまく渡ってくのかな。
インタビューが終わると後輩が残念そうに言う。
「三ツ谷さん来ないっすね」
剣持先輩なんか聞いてないんですか? 同じクラスですよね?
「知らねえよ何も」
あー残念だな。見て欲しかった、俺の勇姿。
「馬鹿言ってないでちゃんと集中しろ」
ため息が出た。なんのため息だこれは。
そして大会が始まった。俺はいつになく集中できていた。ちゃんとイメージできていた。自分が勝つという未来を、正確に思い浮かべることができた。あとはそこに、自分を進めて行くだけだ。そのために今日まで努力してきたのだから。
順調に勝ち進んで、去年敗退した準決勝でも勝利した。
「あとは、決勝だな!」
準決勝前に敗退してしまった佐藤が言う。
「頑張れよー!」
俺は頷いた。決勝までは少し間があった。さすがに少し落ち着かなかった。体を落ち着けたいと思う。
「ちょっと集中する。一人になるってみんなに伝えてくれ」
「おお、わかった」
佐藤が応じた。
俺は控室に入って扉を閉じた。一人きり、慣れない空間で慣れない椅子に前のめりに座って、目を瞑る。頭の中でイメージする。自分が相手に勝つ姿を。負けない俺を。優勝する俺を。今までそのために俺は努力をしてきた。だから大丈夫。そう言い聞かせる。体が熱くなってきて、ふーと長い息を吐いた。体が昂っているのがわかる。でも大丈夫、大丈夫。息を吐く。でも、体が熱い。心臓が変に早く脈打っている。
何かが変だった。
あれ、と思った。
なんだか、頭がぼうっとする。気がついたら、ずいぶんと俺の体はおかしなことになっている。呼吸が変に温度が高くて、頭がじんと痺れていて、指先が少し震える。
おかしい。
視線を下ろすと、股間には膨らみがあった。何が起きているのか、しばらく理解に苦しんだ。じっとりと体に汗が滲んでいて、慌てて手で拭った。その手のひらから、普段と違う妙なにおいがした。
それでも俺は認めたくなかった。今、俺の体に何が起きているのか。わかったけれど、認めるわけにはいかなかった。そんなわけはない。頭の中のカレンダーでは、次のマル印は二週間後。今来るわけがない。
絶対に大丈夫なはずだったのに。
よりによって、今、なんで、今。
ふううっと息を吐く。でももうそれは全然違う意味だ。落ち着かせたいものは、もう全く別のものだ。
ヒートだ。
突発性のヒート。
俺のヒートは周期に忠実で、荒れたことが一度もなかった。人生で初めてヒートが来て、俺がΩだとわかった日、それ以来ずっと、機械みたいに周期的だった。だから、それを抑えるのは簡単で、だから、俺はこの嫌な汗のにおいを久しぶりに嗅いだ。いやなにおい。あまったるくて苦いにおい。獣みたいなにおい。頭がうまく働かない。体がむずむずした。
ちくしょう、なんでこんなときに限って。
遠くに置いてある俺のカバンを見た。そこに、緊急用の抑制薬が入っている。財布にいつも、入れてある。俺は自分が用心深い性格だったことに深く感謝した。
飲まないと。
そう思って立ちあがって、道着にあれが擦れて変な声が出た。それどころか体全部が敏感になっていて、ごわごわした生地に擦れて嫌な刺激を与えてくる。
それでも俺は、一歩一歩歩いてカバンへ向かった。
なんとかカバンに辿り着いて、震える手で中を漁って、財布を、そしてその中のカプセルを取り出した。
俺はそれを見つめた。手が震えて、視界の中で薬がぶるぶる揺れている。
これは、俺がΩだって証だ。
まるで弱いって言われてるみたいだ。どんなに努力したってお前はΩなんだからって誰かが言っている。
だってそうだろ。ここにいるやつらは誰もこんなものを飲まない。誰もカバンにこんな薬を入れてない。
ちくしょう。俺は俺の体が憎い。
俺は手のひらで薬を強く握る。握りつぶすくらいに強く、強く。でも体にはもう力があまり入らない。それに、本当に握りつぶすわけにはいかなかった。
それでも俺は強く握った。そして強く思った。
俺がαだったら、αだったら、もっと堂々と生きられた。大手を振って道を開けさせて、それが当然だってきっと思えた。
そんなことを考えると、自分が情けなくなった。
そんなことを考えるのは弱いからだ。俺が弱いからだ。
自分の体を自分で抱きしめる。見た目だけ立派になったって、俺の中身はきっと……。
「ふぅ、う」
声が漏れて、そろそろ限界かもしれなかった。頭がくらくらする。
飲みたくないけれど、飲まないともうどうしようもない。俺はカプセルを口に入れた。水で飲まないといけないものだったけれど、無理矢理に喉を動かしてそれを飲み込んだ。異物が喉を通っていく嫌な感覚――効き目が出るまでどれくらいかかるんだっただろう。
床に倒れ込んで一人で震えていた。体がうずいて気分が悪い。気持ち悪いのに、奇妙に昂っていて、自分で自分の体を制御できない。俺はそれが怖い。
この体は本当に俺のものなのか?
誰か来てくれ、誰も来ないでくれ、矛盾する思考に頭がとらわれる。
寂しい、怖い、熱い、苦しい、助けて、誰も、でも。
ただ床に寝転んで胸を押さえて横向きの扉を見つめていた。
濁った頭に、扉のノブを捻る音が聞こえた。そこで、鍵をかけ忘れた自分の失態に今更気がついた。
誰かが、入ってくる。
「誉くん?」
声が聞こえた。
扉の影から現れたのは、よりによって三ツ谷だった。
その体がびくっと震える。何が起きたのかわかったのだろう。今、この室内には俺のにおいが充満していて、こいつは今それを嗅いだのだ――そう思って、そうだ、こいつはαだったと思い出す。あまりにこいつがαっぽくないから、忘れていた。
ってことは。
「出てけ、よ、ばかやろう」
そう言っても、三ツ谷は一歩も引かなかった。むしろ、そのまま中へと入ってきた。
「ほまれくん、大丈、夫?」
大丈夫に見えるかよ。そう言おうと思って口が動かなかった。
「すごい、ね。におい、すごいよ」
まばたきを素早くして、三ツ谷が鼻の前に手の甲をあてた。視線を下ろすと、三ツ谷のズボンには膨らみができていた。俺のこのにおいにあてられているんだ。
「みつ、や」
なんで俺は今泣きそうなんだ?
ああ、このタイミングで、よりによってこいつが来るなんて。
まるで救いみたいじゃないか。これじゃまるで、運命みたいじゃないか。
だけど俺はそんなものは欲しくない。
こいつは、こいつにだけは、
「どっかへ行けよ」
振り払いたくて俺は怒鳴った。
「こっちに来るな!」
それは本心だった。俺はこいつが嫌いだ。
――結構、あいつのこと好きだよな。
嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ!
俺がけだものみたいに叫んでも、三ツ谷は怯みもしなかった。
ゆっくりと、俺の元へと歩いてくる。
「誉、くん」
顔を真っ赤にして俺の名前を呼ぶ。
「僕は何もしないよ、約束する」
ヒートにあてられたαがどういう行動をとるのかなんて、誰でも知ってる。過剰に本能を刺激されて、攻撃性が非常に高まる。その結果、暴力だって珍しくない。社会的身分が高かろうが、鍛えていようが、それに抗うことのできる人間は稀だという。そしてその結果に及んだ暴力は、この社会ではおおかた許されてしまう。だってそれは、本能だから。それは、そういうものだから。自衛しないΩが悪いから。この世界がそういう仕組みだって俺は知っている。
なのにこいつは、俺の隣に座って、俺を抱き起こして、そして約束通り何もしてこない。
抱き起こされる体のどこかに、三ツ谷の硬くなったそこが当たっている。それが、こいつがちゃんと興奮していると示している。
それでも、こいつは俺に何も手出しをしてこない。
ただ俺を優しく抱きしめるだけ。細い腕を震わせながら。
それがどんなに大変なことだか、俺が一番わかる。それはあまりに強い衝動で、仮に今それに身を任せても、誰も三ツ谷を責めないんだから。ここはそういう世界なんだから。それなのに、こいつは。
だけど俺はちっとも嬉しくない。
ちくしょう、ちくしょう。
泣きそうだ。
俺はやっぱり勝てないのかよ。こんなよわっちいこいつにも、俺は勝てないのかよ。
強くなりたかった強くなりたかった強くなりたかった。
だから強くなった、はずだったのに。
俺は無理やり起き上がって、三ツ谷の肩を掴んだ。本当に動物みたいな呼吸をしながら、正面から思い切り睨みつける。
三ツ谷は熱に浮かされたみたいに真っ赤な顔で、それでも俺を、しっかりと見つめ返す。その口元が優しく笑っていた。何か口が動いたけど、何を言おうとしたのかはわからなかった。
「舐めやがって」
俺の口からそんな言葉が漏れたけど、それは誰に対してだったんだろう。何に対して怒っていたんだろう。
俺は三ツ谷の細っこい体をぐいと引き寄せて、汗ばんだうなじに思い切り噛みついた。
そんなことをしても、何にもならないことはわかっている。神様はこの行為に、何の意味も与えてくれなかった。
俺の喉から息が漏れた。嗚咽だとわかった。それでも俺は、三ツ谷のうなじに歯を立て続けた。
――ああ、これでこいつが俺のものになればどれだけいいだろう。
こいつを俺のものにして、俺は世界を手に入れるんだ。
この馬鹿みたいな世界を、俺のものにしてやる。
熱が急に冷めた。
抑制薬が効いてきたんだろう。
意識がはっきりしてクリアになった視界に三ツ谷のうなじがあって――白いそこに、歯形が真っ赤についていた。血まで滲んでいる。
急激に体温が下がった。自分のやったことを一気に理解した。
「わりぃ、俺、……ごめん」
痛くない、か?
どう見ても痛いだろう、こんなの。わかっていたけどそう聞かずにいられなかった。
「大丈夫」
三ツ谷は微笑んだ。
「平気だから」
毅然とそう言って、良かったね、落ち着いて、と俺に向き直った。
うなじに添えていた俺の手が行き場を失って、ぼんやり宙を掴んでいた。
視線を下ろして三ツ谷の股間を見たら、じわりと精液のシミが広がっていた。
俺は初めてちゃんと死んでしまいたいと思った。こいつは、こんなになっても何もしなかったのに。
俺は。
絶望する俺の耳に、決勝が間もなく始まります、準備をしてくださいという放送が聞こえた。
俺は額に手をあてた。今、自分が闘うことができると思えなかった。
自分が相手に立ち向かう姿がまったく思い浮かばない。勝てると思えない。決勝。相手は有名なやつで、間違いなく強い。今の俺が勝てるわけがない。
「ほら、決勝、始まるって」
三ツ谷が言った。
「間に合ってよかった」
俺は弱音を吐きそうになって、それをなんとか飲み込んだ。こいつにそんな自分を見せたくなかった。こいつには見せたくなかった。三ツ谷はまっすぐに俺を見ている。
「良い記事、書かせてよ」
三ツ谷が笑った。
「最高の記事にするからさ」
俺は静かに三ツ谷を見つめて、呼吸を落ち着かせて、自分の胸元を触って、心臓近くを強く握った。目をつむって、黙って意識を集中した。大丈夫、大丈夫だと言い聞かせる。俺は大丈夫。ちゃんと頑張ってきた。だから大丈夫。
ゆっくりと目を開けた。三ツ谷がまだちゃんと俺を見ていた。
大丈夫だと思えた。
「三ツ谷、ありがとな。ほんとに、悪かった」
埋め合わせはちゃんとするから、と言うと、三ツ谷はそんなのいいよと首を振って笑っていた。そして、
「いってらっしゃい」と手を振った。「頑張ってね」
その三ツ谷の手のひらにぽんと拳をあてて、
「いってくる」
そう告げる。そう言って、ようやく俺はそこを出る決意ができた。
三ツ谷を置いて控室を出た。会場脇で佐藤が待っていた。遅れてきた俺を心配そうに見つめている。
何か言いたそうに口を開いたので、それを追い越すように俺は言った。
「待たせた」
佐藤は驚いた顔をして、俺の顔をしげしげと見て、
「なんだ、元気だな」
安心した顔をした。それが誰のおかげか、こいつは多分わかってるんだろう。俺はそれが恥ずかしかったけれど、それが事実なのだから仕方ない。
「いつものお前だ、安心した」
頑張れよ! そう言われて背中を押されて会場に入ると、湧き上がる歓声が俺を包んだ。
*
強くなりたかった強くなければならなかっただから強くなった。
俺にとってはそれだけの話で、それ以上に難しいことなんて何もなかった。
きっとこれからもそうだ。それは何も変わらない。
――試合が始まる前、客席を見ると、あのカメラのレンズが俺を向いている。俺はそちらに拳を突き出した。
必ず勝ってやる。だから、そこでちゃんと見てろよ。
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