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【第二部】1

 夏休みが終わって、学校が始まった。それから二回目の日曜日、三ツ谷と待ち合わせをしたのは、さほど高くない、すこし小洒落たレストランだ。  看板に照明が当たって、『アルコバレーノ』と書かれている。検索したら、虹という意味らしい。  もちろん家族とだったらこういうところに来たことはあるけれど、友人と行くのはファミレスばかりだった。こんなところに同級生と来るのは初めてだ。ドレスコードも何もない店だけれど、とりあえず一応襟のある木綿の服にした。さすがにTシャツではないだろう。  三ツ谷がやってきた。清潔感のあるシワがない白いシャツを着ている。普段の制服と似たようなものなのに、ずいぶん違って見える。 「ごめんね、待ったかな」  時計を見ると約束の五分前。俺が早く来すぎただけだ。俺は首を振った。 「悪かったな、休みの日に」 「ううん。お誘いありがとう。じゃあ、今日はご馳走になります」  三ツ谷が笑う。最初はずいぶん遠慮されたけれど、そう、それくらいさっぱりしている方が、こっちも気分がいい。  今日は埋め合わせの日だ。俺はあいつをレストランに呼び出して、飯をご馳走することにした。  中に入る。薄暗い店内。予約の名前を告げて、テーブルに案内された。周りを見ると、ほとんどがカップル、少し家族連れ、落ち着いたおっさんが本を読んでいたりとか。  高校生ふたりは、どう見てもレアだった。でも、気にしない。  席に座る。机の上に置いてあったナプキンを膝に広げる。正面を見ると、三ツ谷は慣れた風だ。  メニューを渡されて、俺は三ツ谷に聞いた。 「何にする」 「誉くんが決めていいよ」 「苦手なもんとかあるか」 「ああー、特にないかなあ」 「わかった」  まずはサラダ。魚介系のパスタと、それからシンプルなピザ。せっかくだからデザートも食べよう。 「うん、そうしよう」  三ツ谷はなんだか嬉しそうだ。ウェイターを呼んで注文をした。飲み物は水だ。無料だった。よかった。  大きなガラス瓶に入った水をウェイターが持ってきて、俺たちのグラスに注いだ。三ツ谷はグラスを手に取って、俺に向けた。 「優勝、おめでとう」  グラスには、室内のオレンジ色の淡い光が反射している。 「今日はそういう集まりじゃねぇぞ」  俺がそう言っても、三ツ谷は「ん」、とグラスを下げない。俺は仕方なくグラスを持って小さく音を鳴らした。  二人で水を飲んだ。当たり前にただの水だった。  その後、なんだか話すタイミングがない。周りのテーブルの話す声とか、食器の音とか、BGMのピアノの曲とかが、俺たちの間にさらさら流れている。  三ツ谷はスマホを触ることもせず、興味深そうに周囲を見回していた。 「よく来るお店なの?」  三ツ谷が言った。壁に描かれた料理の絵を見ている。 「え? ああ、いや、うん。家族で何回か」 「いい雰囲気だね」  ありがとうございます、と言ったのは俺ではなくウェイターだった。  手にはサラダの皿を持っている。大きな葉野菜のサラダだ。切り分けますか、と聞かれお願いした。俺たちはまた黙って、ウェイターが器用に野菜を切り分け皿に盛り付けるのを見つめていた。 「お楽しみください」  そう言って仕事を終えたウェイターはテーブルを離れた。 「……食うか」  それだけ言って、二人で料理を食べ始める。  うまいな、おいしいね。そんな会話をして、ピザが来て、それを食べる。  俺はうまく話せなかった。大人だったらこういうときに酒の力を借りるのかもしれない、でも俺は高校生だからそういうわけにもいかない。  パスタを食べ終え、デザートが来る前。ウェイターが皿を下げ机の上が空になった。三ツ谷が「あとデザートだね、おいしかったね」と言って、俺はそれを遮った。 「三ツ谷。あのときは、ありがとう。すごく助かった。本当に、ありがとう」  俺は頭を下げた。三ツ谷の声が聞こえた。 「僕は何もしてないよ」  俺は三ツ谷に言った。 「そういう謙遜はやめてくれ」  俺は、助かったんだから。そうだろ?  静かに俺を見つめた三ツ谷が言う。 「そう、だね。ごめん」  俺は一度息を吐いた。吸って、吐き出すように言った。 「俺、お前のこと嫌いだった」  自分でも驚くほど、その言葉は鋭かった。でも三ツ谷は、 「知ってた」  そう言って笑った。 「すごく嫌われてるなって。わかってたよ」 「――悪かった」 「謝らなくていいよ。なんとなくだけど、誉くんの気持ちはわかるから。きっと、そういう風に言われるのも嫌だろうけど……」  こいつの言う通りだった。俺は、そういう風に言われるのが嫌だった。俺の気持ちがわかるなんて、誰にも言わせない。だけど同時に、今三ツ谷にそう言われたことは、そこまで嫌じゃなかった。なぜかこいつは、ちゃんとわかってくれている気がしたから。  自分の気持ちが、思っていたよりも複雑に絡んでいて、俺自身でもわからなくなっていた。  だからそれをときほぐすみたいに話したかった。 「ちょっと、好きにしゃべってもいいか」 「もちろん」  三ツ谷は微笑んだ。  俺は、少しずつ話した。  自分のこと。  ――柔道は好きで、強くなりたかったということ。どうして強くなりたかったのか。それは、俺がΩだということとは、多分あんまり関係がないということ。少なくとも俺はそう思っている。俺が柔道を始めたのは俺がΩだとわかる前だったから。でも、今はどうなのか自分でも分からない。  Ωのこと。自分がΩだとわかった日のこと。  ――覚えている。家で漫画を読んでいた。急に体が変になって、自分が熱くてたまらなかった。親に慌てて助けを求めて、俺は病院に運ばれた。寝ている俺の隣の部屋から何か声が聞こえた。たぶん、両親の泣いている声だった。  ――母さんが来て、怖くて寝ているふりをしている俺の頬を撫でた。俺はそのときにはもう、俺の体に何が起きたのかわかっていた。信じられなかったけれど、母さんの指のあたたかさで確信した。  家族のこと。佐藤のこと。  ――俺は、佐藤以外には自分がΩだと言わなかった。言えなかったのかもしれない。でも今はみんな俺がΩだと知っていて――俺は、意外とそれが気楽に感じている。つらくないというのは嘘になる。でも、そういうものだから。  こうやって、ひとしきり全てを話した。  順番もめちゃくちゃで、思いつくままに話して、それでいろんなことが自分の中で少しクリアになった。  三ツ谷は、時折相槌を打ちながら黙って聞いていた。すごく話しやすい空気だった。だから俺は、どうやら話しすぎてしまった。 「終わりだ。どうせなら、小説のネタにでもしてくれ」  三ツ谷は曖昧に微笑んだ。するともしないとも言わなかった。でも、それでいい。  タイミングを読まれていたのか、デザートが運ばれてきた。  二人で食べる。会話はない。すごくおいしかったから、その感覚を共有したかったけど、三ツ谷も何も言わなかった。  そして食べ終わった。 「ごちそうさまでした」  三ツ谷が言った。食事は終わった。  俺はグラスの水を飲んだ。空になって、ウェイターが自然に来て、水を汲んでくれた。一緒に、三ツ谷のグラスも満たされた。  まだ、帰らなくても良いということだ。 「三ツ谷のことも聞かせてくれよ」 「僕の話?」 「そう。お前のこと」 「……なんだかすごく話しづらい」  三ツ谷は困った顔だ。 「誉くんは、僕のこと少しは知ってるんでしょ?」 「ああ。藤島に聞いた」 「やっぱり」  三ツ谷はため息をついた。 「僕が話すことは嫌味に聞こえると思う。たぶん、共感はしてもらえない」  それでもよければ。  三ツ谷はそう言って、俺は頷いた。そういう話が一番聞きたかったから。

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