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【第二部】2

 ――僕は、すごく恵まれていると思う。  ――自分が人より恵まれた家に生まれたことも、恵まれた属性なことも、わかってるんだ。  ――だけど、僕は運がいいだけ。きっとすごく、運がいいだけ。  ――だから僕が何か頑張っても、それは僕の力じゃないと思ってしまう。学校の成績が良くても、それは僕の家庭教師が優秀だからだ。僕がいろいろなことを頑張ることができるのはこの環境があるからで、それは僕の力で得たものじゃない。  ――僕は自力で何かを手にしたことがない。少なくとも、僕はそう思っている。  ――親は優しい。僕がこうやって悩んでいることを知っていて、だから僕の自由にさせてくれる。  ――それがもっと苦しい。親がもっとαらしく振る舞え、人の上に立つために努力しろって言ってくれたら、僕は楽だと思う。従うか従わないかはどうでもいい。それは僕に言い訳を与えてくれる。僕がどう振る舞うにしても、僕に理由をくれる。だけど親は、僕の自由にさせてくれる。  ――やりたいことをやっていい、そう言ってお金を自由にさせてくれて、僕はやりたいことをのびのびできている。  ――よく言うみたいに、親が作った水槽の中を泳いでいるとかは思わないんだ。  ――僕は多分もう海に出ている。だけど僕は、親が買った大きなボートに乗っている。絶対に転覆しないボートに乗って、僕は漕ぎ出そうとしている。みんなが一生懸命泳いでいる海を、悠々自適に。  ――僕はずっと、何かひどいずるをしている気分なんだ。だってみんな、そんなボートには乗ってない。  ――この悩みを言ったらみんなが何を考えるかはわかるんだ。そんなにそれが不満なら、ボートから飛び降りて海を泳げばいいって、きっと言うだろう。だけど僕は泳ぎ方を知らない。誰も教えてくれなかった。僕が知っているのはボートの操縦方法だけ。だから僕は、ボートを降りられない。いや、それは言い訳だ。僕だって、ボートを降りてしまいたいって、ずっと思ってる。だけど僕は、それができない。  ――僕は、ボートを降りられない自分が情けない。だって、それは僕が弱いだけだから。本当に強かったら、自力で泳ぎを学べばいいって、僕はわかってるんだ。それが、正解だから。  ――でも、僕にはその勇気がない。  ――ほら、嫌味に聞こえるでしょう?  そういう三ツ谷の顔は、普段の明るさが全然なかった。店内にピアノの穏やかな響きが流れていて、店は静かだった。聞こえるのは、他のテーブルの皿とフォークがぶつかる音だけだった。  今の三ツ谷の話を嫌味だと思う人は多いだろう。それこそ、少し前の俺なら間違いなくそうだったはずだ。贅沢な悩みだ、なんだこいつ、いけすかねえ、って。そんなに恵まれて、ぐじぐじ悩んでんじゃねえ、って。  でも、今の俺はボートを降りるべきだとか、ボートを降りられないのは弱いからだとかは思わなかった。だって、こいつが本当はすごく強いって知っている。だから、そこから降りるのは、普通に考えるより大変なのだろう。  何かを手にいれるために努力をすることと、何かを捨てるための決断をすることは、きっと全然違うんだ。じゃあ、捨てるのが難しいなら、手に入れようとすればいい。そうすれば、自分のものだって思えるはずだ。  でも、こいつは言っていた。  ――僕は自力で何かを手にしたことがない。  でも、お前はちゃんと頑張ってるじゃないか。あの真剣な表情、図書室で必死に何かを書いていた三ツ谷の姿。 「お前が、自分の力で手に入れたって思えないのは――それは、小説でも、か?」  俺は知っている。三ツ谷が努力してそれを掴もうとしていることを知っている。  だから、三ツ谷が目を俯けて「きっと、そうだね」と言って、俺は驚いた。 「きっと僕が傑作を書いても、何かを受賞しても、それが僕の力だとは思わないと思う」  俺にとって努力はすればちゃんと自分に返ってくるものだった。だから努力をしない周りのやつらが理解不能だった。努力すれば、結果が出なくても努力をしたという経験が得られる。だから努力しないのは怠慢だとしか思ってなかった。  だけど努力をして、我慢して、ちゃんと何かを手に入れても、それが何一つ自分のものだと思えなかったら、俺はそれでも何かを頑張ることができるだろうか?  こいつのこと、何もわかってなかった。  こいつも多分、すごく苦しい。  会計。レジに表示されたのは食事で払ったことのない金額だ。だけど優勝賞金(という名の小遣い)が出たから、全然払える。  これは、俺が努力して手に入れた金だ。俺は、そう思っているしそう思える。  店の外に出た。暗くなった空を三ツ谷が見上げている。俺も視線を同じ方向に向けたら、月がやたらにでかかった。 「帰るか」 「――うん」  俺たちは駅まで歩いた。電車は途中まで同じ方向だった。二人で乗り込む。 「さっきの話さ」 「……うん」  何か言おうと思った。  お前が悪いんじゃないから気にすんなよ、違う。お前はちゃんと頑張ってるよ、違う。お前の気持ち、俺にはわかるよ。――違う!  結局、何も良い言葉が見当たらなかった。こいつが欲しい言葉もわからなかった、自分が言いたいこともわからなかった。何を言っても薄っぺらい適当な慰めにしかならない。こいつの中でもう全部自分の中で検討済みだろうって、そんな言葉しか出てこない。だから何も俺は言えない。 「なんか、無理に聞き出したみたいになって……。せっかくなのに、楽しくなかったよな。ごめんな」 「ううん、ありがとう」  三ツ谷はそう言った。気がついたらあいつが降りる駅になっていた。 「何、が」 「話したらすっきりしたかも」  はは、と三ツ谷は笑って、いつも通りの笑顔だった。 「誰にも言えなかったから。ちょっとだけ、すっきりした」 「そう、か」 「また明日、学校で!」  扉が開いて、三ツ谷が降りた。三ツ谷は俺の方を振り返らず、そのまま階段を降りて行った。電車が動き出して、少しずつそのホームが遠ざかる。  明日からはまた俺たちは普通にクラスメイトだ。

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