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【第三部】1
高校を卒業し、大学に入って、環境が変わった。俺はほとんど知人のいない大学に進学したので、人間関係は一からやり直しだった。
俺はもう、自分がΩであることを隠さないことに決めた。とはいえそれは、別に言いふらすということでもない。ただ、聞かれたら答えるし、会話の流れで言った方がいい場合も、特にそこに抵抗しないということだ。今まで何人かの言ったけれど、さほど話が出回った様子もない。みんな忙しいか、あるいは他人がどうでもいいか。
とにかく高校までとは雰囲気がずいぶん違っていて、俺はとても気が楽だった。
高校卒業までは受験もありそれどころではなかったけれど、大学に入ると、何人かに告白をされた。女も、男も、βもΩもいた(αはそもそも俺の大学にほとんどいなかった)。俺がΩだと知っているやつも、知らない奴もいた。
俺がΩだと言うことを隠さなくなって、改めて分かったこと。それは、どんなに優しい人間でも、どんなに差別を憎んでいる人間でも、俺がΩだと知ると、少し態度が変わるということ――それは別に、すべてが悪い意味じゃない。だけれど、やはりそこに意味を与えない人はほとんどいないということ。
俺はそうして、やはりあいつを思い出してしまう。
あいつは、俺がそうだと知っても何か変わったと思わなかった。あいつは、何も変わらなかった。だけど、あいつは俺がβだったら付き合ったと言った。だからこの感傷的な気分はまったくの間違いだ。あいつが一番、きっとそこにこだわった人間なのだから。
大教室の講義が終わって外に出ると、ポケットでスマホが震える感触がした。何気なくスマホを手に取る。『佐藤昇一』と表示されていた。最近連絡とってなかったな、飯の誘いかと思ってスマホを開く。
「どうした、剣持」
固まっている俺に、前を歩いていた木原が振り返った。
「剣持?」
それでも反応しない俺に、怪訝な声を出してくる。俺はようやく心を落ち着かせて、スマホをポケットにしまった。
「なんでもない。そうだ、飯どこで食う?」
俺は木原の隣に並んだ。
「あそこのカフェでも行く?」
「あー、あそこかぁ。ちょっと、なあ」
木原がなんで? という顔で見てきたので、金がな、と正直に言った。
「ああ、そっかぁ。体育会は金ないもんね」
じゃ、学食にしよ。
木原は方向を変えて校舎へと戻る。その首元についている首輪の通り、木原はΩだ。木原はあっけらかんとしていて、あんまりΩっぽくない。木原は俺がΩであることを知っている。
木原は俺に好意を寄せているのかもしれない、と思うことがあるけど、きっと気のせいだと言い聞かせている。
だけれど、木原が俺に仮に告白してきたら、俺はきっと受けるだろう。断る理由は、別になかった。俺は木原が嫌いではない。どちらかと言えば好意的だ。木原は自身の立場について積極的に活動をして、自分自身の周りを変えようとしている。俺は前、そういうのを馬鹿馬鹿しいと思っていた。だけど今は、そういうことの必要性を感じている。そしてそういうことをできているこいつを偉いと思う。
二人で学食に入って、適当に安い丼を注文した。
木原といるのは、気が休まる。俺がΩだと知っているし、こいつもΩだからだ。でも、これももしかすると『態度が変わる』に入るかもしれないと思う。だから、自分から告白なんてことはしない。それに、これはやっぱり、あれとは違う。あのとき感じた、どうしようもないものとは違う。だけど、これがもしかすると穏やかな気持ちというのかもしれないとは、少し思う。
「ちょっと俺、サークルのやつに呼び出された」
飯を食っていたら、そう言って木原は席を立った。
じゃ、次の講義でな。
そう言って立ち去る木原の背中を見送った。細い背中だった。
俺は残りのカツ丼を勢いよくかき込んだ。むしゃむしゃと食っていると、
「あ、剣持じゃん」
よく知らない、講義でたまに喋るくらいのやつが、さっきまで木原が座っていた席に座る。
座って、木原の出て行った方向を見て、
「お前、なんであんなのとつるんでんの? あいつΩだろ? やめとけよ」
そう言った。俺はカツ丼を最後までかき込んで、両手を合わせてごちそうさまでしたと言ってから、
「俺もだから」
と言った。え? と不思議そうな顔をする相手に、
「俺もΩだから」
そう言った。
相手はしばらく思考停止したように固まって、あー、と言葉を漏らすと、
「なるほど、ね。そっか。わりぃわりぃ」
そう言って立ち上がってどこかへ行った。
俺はその背中を見送って、それから荷物をまとめて立ち上がった。
大学のキャンパスは人が多い。だいたいが楽しそうにしている。つまんなそうなやつは、どっかにこもっているかそもそも来ないのだろう。
一人になった。
俺はもう一度スマホを開いて先ほどのメッセージを見た。佐藤からの連絡には、懐かしい名前が書かれていた。
『三ツ谷、作家デビューすんだよ。今日、発売日だ』
三ツ谷。三ツ谷世界。あいつの名前だ。
三ツ谷のことは忘れようとしていた。俺の中で、あいつのことは思い出すべきではないことになっていた。だって、考えれば考えるほどにあいつのことを嫌いになってしまいそうだった。あいつの言葉だけがぐるぐる回って、俺がΩであることを憎むしかなくなって、そういうことを言ったあいつを憎んでしまいそうだった。
きっとそれはあいつの望んだことじゃないと、さすがに俺もわかっている。
だからそうなるべきではないと思って、俺はあいつのことを精一杯忘れようと努力した。
それは、あいつが大好きだからだ。大好きなままでいたかった。
だからその情報が今欲しかったかと聞かれたら、そうだと断言できない。俺はもう、それを過去にしようとしていたから。だけど、あいつは、きっと努力してそこに辿り着いたんだ。だから俺はそれを遠くから、少しでも見届けたい。
だから本を買いに行こうと決める。
ちょうどよく次は空きコマだったので、俺は大学を出た。一人で本屋に向かった。駅近くのそこそこ大きなその本屋は、いかにも大学生向けのおしゃれな内装だった。
本屋なんてほとんど来ないが、『新刊・話題書』と書かれたコーナーが入り口すぐにあった。俺でも名前を知っている有名な作家たちの本と並んで、端の方に平積みされた、白い本。手に取った。綺麗な本だ。白が基調で、なんだかきらきらした紙が使われている。白黒の写真が印刷されて、白抜きで文字が書かれていた。そこには、『三ツ谷世界』という名前。
あいつのデビュー作。俺はそれを一冊レジに持って行く。その本を、ずいぶん重たく感じた。
今あいつがどうしているのか、俺は知らなかった。連絡をとっていないから。
あいつが高校を卒業してから、大学に行かなかったこと、アルバイトをして一人暮らしをして作家を目指していること。そういうことは佐藤から聞いていた。でも、それ以外のことは知らない。
佐藤はことの経緯を知っている。それでも、このことを伝えるべきだと判断してくれたのだろう。俺はそれがありがたかった。カバーをかけてもらって、俺は本を持ってゼミに向かった。
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