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【第三部】2
ゼミの小さな教室で、もう席に着いている木原の隣に座った。
俺が書店のカバーのかかった本を机に置くと、
「珍しい。本買ったの?」
と聞いてきた。何買ったの、と木原は勝手にカバーをめくった。
「うわ」
木原は予想外のリアクションをした。露骨に嫌な顔をしたのだ。
「そんなの買ったの」
俺はなんでそんなこと言うんだよと驚いた。
なんでって。木原は続けた。
「その作者、αの超エリートだよ。めっちゃサラブレッドらしい」
なんでお前がそれを知ってんだと思うと、木原はスマホを触って記事を見せた。
「ちょっと前に話題になってた」
暴露系のインフルエンサーが面白おかしく書き立てた記事だ。
――新人作家は超サラブレッド!
目を惹くインパクトの見出しに、あいつの経歴が書いてあって、売れっ子間違いなし! 今後に注目! なんて書かれていた。俺はその画面をしばらく見つめていた。その画面に表示されているのは三ツ谷を誉めたたえている文章だ。それなのに、そこには悪意しかなかった。妬みとか、無理解とか拒絶とか――とにかく、あいつをどうにか引きずり下ろしてやるという強い意志。
お前の成功は許さないというメッセージ。
俺は、机の上に置かれた本を見て、さっきの木原の顔を思い出して、――たぶん、ようやくちゃんと理解した。
あのときのこと。あいつが言っていたことの意味。こういうことなのか。
――自分が人より恵まれた家に生まれたことも、恵まれた属性なことも、わかってるんだ。
例えばあの日、レストランであいつが言ったこと、
――だけど、僕は運がいいだけ。きっとすごく、運がいいだけ。
――僕は、親が買った大きなボートに乗っている。絶対に転覆しないボートに乗って、僕は漕ぎ出そうとしている。みんなが一生懸命泳いでいる海を、悠々自適に。
――僕はずっと、何かひどいずるをしている気分なんだ。だってみんな、そんなボートには乗ってない。
あのとき三ツ谷は言わなかった。そのボートを、みんながどういう目で見ているか。みんながどういうことを言うか。
あいつはあのとき、俺に全部を話さなかったんだ。あいつはきっと、本当につらいことを黙っていた。
そして、俺の告白にあいつが言ったこと。
――誉くんがΩで、僕がαだから。
理解した。それは、俺たちだけの話じゃなかったんだ。
俺はそれを、二人の間の問題だとしか思っていなかった。俺たちの属性が影響を及ぼすのは、俺たちだけだとしか思っていなかった。
どうして気づかなかったんだろう? 俺はそれを知っている。あの時俺の周りの世界は、勝手に変わってしまったじゃないか。
俺がΩであることで世界が変わるように、俺たちがαとΩであることで、世界は俺たちを許してくれないのかもしれなかった。
もしかしたらあいつは、だから、断ったのか。
「無理だよ」
その言葉は、俺が思っていた意味じゃなかったのかもしれない。
――今後に注目!
楽しそうな、人を傷つけたがっているその言葉。
あいつは、自分に向けられる視線を知っている。それがどういう言葉を持っているか知っている。そしてそれは、あいつと一緒になったとしたら、俺が、そして俺たちが向けられる視線なんだ。
いや、もしかしたらそれはもっと苛烈なのかもしれない。
だって、あいつはαで俺はΩだから。それは変えられないから。だから、あいつは。
俺は笑ってしまいそうだった。
本当に、あいつは、どこまでも――。
「剣持?」
黙っている俺に木原が問いかけた。俺は本を見下ろしていた。木原が書店のカバーをめくったから、表紙が見えていた。そこに書かれていた文字。そのタイトル。
――『神様は優しくない』。
「……同級生だったんだ。そこに書かれていることは事実かもしれない。でも、たぶん、お前がイメージするようなやつじゃなくて、……すごく、いいやつだよ」
本当にいいやつなんだ。
俺が言うと、
「そっか。ごめん」
木原は謝った。
木原はそのとき、俺の気持ちに気づいたように見えた。でもあいつはするっと俺に聞いた。
「仲良いんだな、連絡はとってるのか」
首を振った。そうか、と木原は残念そうな顔をした。その表情に嘘はなく見える。
「本を出すなんてすごいんだから、連絡くらいしてやれよ」
木原が言って、そうだ、その通りだと思う。
連絡、か。
連絡はとろうと思えばとれた。連絡先だって知っていた。気まずかったら佐藤に仲介を頼むこともできただろう。だけど俺からは、あえてとらなかった。あんな終わり方をして、連絡なんてとれるはずがない。
スマホを開いて、メッセージのアプリを開く。下の方に三ツ谷の名前を見つけて開くと、あの、拳をこちらに向けている俺がいた。
「木原、ありがとな」
久しぶりに、ちょっと連絡してみる。
木原は俺に微笑んだ。
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