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第3話 反省文を滑る指

「侑李!起きて!次、物理。移動教室だよ~~。モッチーに嫌味言われて、いじけてるのは分かるけど、早くしないと俺まで怒られる」  拓海は俺の体を、筋トレで鍛えた、持ち前の怪力で揺さぶってくる。  こうなると、もう降参だ。 「分かった、分かった」  重い体を机から無理やり引き剥がすように立ち上がった。  拓海に急かされ、物理の教科書を乱暴に掴み、教室から出る。  廊下には、移動する生徒もそうでない生徒も集まっており、新学期ならではの喧騒で溢れていた。  真っすぐ進むことも困難な通路を体を縦にしながら、なんとか進む。   喧騒を抜けて、階段を降りると、そのつきあたりにあるのは物理室だ。 「あ、教室に忘れ物したわ」 「え?今日は教科書しかいらないよ」 「悪い。先行っててくれ」  物理室はもう目の前にあるのに「え~?」と駄々をこねる拓海をなんとか引き離し、階段を駆け足で降りていく。  本当は忘れ物なんかしていない。早く物理室の椅子に着いて、気持ちを切り替えないといけないのに。脳裏にこびりついて離れないのは先生の姿だった。  俺は、ただ先生を求めて職員室に向かう。  これは好奇心?探求心?先生の弱みを握りたいから?  今は何の答えも出ないような気がした。  職員室のある1階は、2年生のフロアとは異なり、教師達の忙しなく動く気配が漂っている。  自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。   職員室の扉のすぐ近く。廊下の大きな窓のそばに先生の席はある。  俺は開かれた窓の下に身をかがめ、こっそりと様子を窺った。  先生は、一人、椅子に座っていた。  机には、いくつもの市販のコーヒーのカップと、漢字だらけの本。普段の先生の姿からは考えられない程の大ざっぱさが見て取れた。  先生は授業の準備をするのでもなく、ただ背筋を伸ばして、じっと一点を見つめている。  俺はかがめていた身を少しだけ伸ばし、先生の机の上を目を細めて見る。  先生の机の上にあったのは俺が去年書いた、反省文の束だった。  なんであんなものを?!  何度も先生に指導をされても小さな校則違反が直らなかった俺は、いくつも反省文を書かされた。  あれは俺の黒歴史なのになんで持ってるんだよ!!しかも束で!!  俺は声を出しながら、思いっきり頭をかきむしりたい衝動に駆られた。  その時だった。 「……矢島」  先生の人差し指が、反省文の上をするりと滑る。 「矢島。……矢島、侑李」  ひどく嗄れた吐息に近い、熱が感じられる声。  先生の薄い口から零れた声は、教室でのあの凛とした響きとは、正反対だった。  まるでつかめそうでつかめない、無理難題を押し付けられたような困惑。だけど、それをそのままにすることが出来ない、胸のひっかかり。  先生がふっと肩を小さく落とした。そして、「一糸乱れない」はずの黒髪を乱暴にかき上げた。 「……目が合うだけでこれってどんだけ」  先生の口から自嘲気味の笑いが漏れる。 「どんだけ私は……。あぁ。どうすれば、攻略できるんだ」  先生の口から切実な「攻略」という言葉を聞いた瞬間、俺の心臓がドキッと跳ねた。  周りの音が聞こえないくらい、今は自分の激しい鼓動しか聞こえない。  ガセネタじゃなくて、マジだったのかよ!!でも、なんで……?  途端に、胸に広がる疑問と困惑。  先生って俺のこと、めちゃくちゃ嫌っているはずなのに。  先生の横顔には、冷淡な悪魔も完璧な教師もいなかった。  俺はそっと窓から離れ、この場から去ることを試みる。それは、見てはいけないものを見てしまったという強い動揺と、これ以上、見たり聞いたりしてはいけないという直感からだった。  ゆっくりと、先生にだけはバレないように後ずさりする。  その時、何かが足にぶつかる感触と同時に大きなガタンという音が鳴った。

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