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第5話 崩れる本と赤い顔

 先生が不器用に「ん」と腕をさし出してくる。腕についている腕時計を見ると、長針は、ほぼぴったり授業の開始時間に重なっていた。 「やばっ!先生ありがとうございました。それでは」  超高速でお礼を言い、身をひるがえす。  あと10秒で物理室まで行けるわけない。しかし、その焦りよりも先生との会話を切り上げることが出来た安堵が胸にじんわりと広がっていった。 「矢島!」  今までに聞いたことのないくらいの大きな声が俺を引き留める。  大きく振っていた腕を止めた。 「いつでも教えるから、また聞きに来なさい。なんでも……分かるまで教える」 「ありがとうございます」  廊下全体に響き渡るような声で言いながら、先生に向かって手を振ってみる。  やはり、それが返ってくることはなかった。しかし、先生が自分の机に長い足をぶつけ、机に積み上げている本が崩れる現場を目撃してしまったのだ。  もしかして、あいつって不器用なんじゃね?  笑いが徐々にこみ上げてくる。口に手を当て、堪えていると遂にチャイムが鳴った。 「マジか!」  廊下を走るな、と注意されたばかりなのに、風を切りながら、階段を駆け上がる。この場合は仕方ないだろう。  今度は一度も振り返らず、物理室の重い扉を勢いよく開ける。 「すいません。遅れました」  空気を吸うことが苦しい程、息が上がっていた。  これはきっと駆け上がってきたことだけが理由なのではなく、先生の意外な一面を見てしまった興奮も理由なのだろう。信じられないほど、心臓がどくどくと鳴り、痛かった。 「大丈夫だ。今から始めるところだから」  教卓には、2年3組の担任かつ物理担当の赤城先生が立っていた。  赤城先生のえくぼが、柔らかく、窪む。  俺は小さく頭だけを下げ、ちょうど空いていた拓海の隣に腰を下ろす。 「侑李遅いよ~。忘れ物、ちゃんと取ってきた?」  先に着いていた拓海の声が、どこか遠くに聞こえる。  俺は顔を手で覆いながら、首を縦に振った。  すると、拓海が「あれ?」と声を上げた。 「……侑李、耳真っ赤だよ?」  最悪、バレた。  顔を覆っていた両手で、ばっと耳を隠す。 「え、侑李!顔も真っ赤じゃん!!」 「……うるさい」 「え、なに?なにがあったの?俺にも教えてよ」 「黙れ」 「いいじゃ~ん。赤い侑李もかわいいよ」  笑いを堪え切れない拓海の口から、莫大な量の息が漏れ出ている。  俺は顔が燃えるように熱いのを感じながら、机に突っ伏し、耳を隠す道を選んだ。  結局、拓海の指摘には言い訳が何も思いつかず、有効な反撃は一切出来なかった。  授業中、ペンを持つ手は思うように動かず、ノートの端には意味のない線が走る。  物理の法則とは裏腹に、俺の体温は不規則に上昇し、心臓だけが忙しく時を刻んでいた。  窓の外では桜の花びらが狂ったように舞い上がっている。  攻略、ね……。  毒づいた言葉とは逆に、俺の胸の奥には得体のしれない予感が音を立てながら渦巻いていた。  ――多分、忘れられない1年が始まる。

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