8 / 8
第8話 震える大人の手
倒れる。そう思った時にはもう手遅れで、予想される衝撃に耐える準備をする。
しかし、その衝撃がくることはなかった。むしろ先生によって、防がれたといった方が正しいだろう。
俺の体は、一回り小さな先生の体に抱きかかえられていた。
「……危ない。……何をしている、お前は」
耳元で響く、いつもより熱っぽく低い先生の声。
先生のジャージと俺の制服がこすれあい、音を立てる。
激しい先生の鼓動と俺の鼓動が混ざり合い、溶け合ってしまうような気がした。
「す、すいません」
握っていた先生の手を放し、自力で立つ。
俺がもう大丈夫なのを確認した後、腰に回された先生の腕は離れた。
「……支えてくれて、ありがとうございます」
怒っていませんように、と必死に願い、先生の様子を伺う。
先生は特段怒った様子もなく、ただ一直線に俺の胸元を凝視していた。
「ネクタイ」
「え?」
「ネクタイが曲がっている」
先生のためらいがちな手が俺に伸びる。そして、長い指先が俺のあごの下で細かく動く。
さっきの田中さんの迷うような手の動きとは全く違う、無機質で機械のような、力強い動き。
布の掠れるカサカサという音と、先生の重い吐息が交互に鼓膜を揺らす。
「先生、ちょっと苦しいです」
「……すまない」
先生は耳を赤くして、ネクタイを緩める。
至近距離で見えた、先生の指は不自然なほど小刻みに震えていた。
「できた」
「ありがとうこざいます」
先生の顔はいつもと変わらない仏頂面のように見えた。
しかし、先生はネクタイを締め終えても、その手を俺の胸元から離そうとはしなかった。
先生の指は俺の首元に伸びる。そのまま田中さんが直したのと同じ方の襟に触れた。
田中さんの柔らかい感触とは対照的な硬くて、熱い、大人の男の指。
先生は彼女が整えてくれたはずの襟を、痕跡を消し去るように、自分の色で塗りつぶすかのように、指でなぞった。
これも「攻略」なのか?!借りを作って、大人しくさせる的な?
先生の片方の口角が満足気に上がる。
「早く部活に来るように。サボりは一切通用しない」
「はい」
先生は体育館に向かって、いつもより速いスピードで歩き出す。
そして、突然止まったかと思うと、聞こえるか聞こえないかの声で「今日から、私が顧問だ」と言い残していった。
先生が去った後、俺の首元には、締められたばかりのネクタイの重みと先生の指の熱が残っていた。それは、まるで見えない首輪をつけられたようだ。
「……最悪だ」
先生にこんなに心を動かされるなんて。
毒づいた自分の声が少し揺れていることに、俺は気づかないふりを決めた。
先生の言葉を何度も頭の中で反芻していく。
その中で気づいた魚の小骨のようなひっかかり。
「……今日から、私が顧問だ」
理解できるように小さく口に出してみた。
いつもスーツを着ている先生が似合わないジャージを着ていたのは……。
ごみ捨て場から校舎の中へとび込み、急いで時間を確認する。
時計は部活が始まる5分前を示している。
もし、遅れたら。
心臓の音が耳のすぐそばで鳴っているかのようだった。
全速力で体育館まで駆けていく。
『5分前行動を心掛けるように』
去年、耳が痛くなるほど言われた言葉が頭をよぎる。
「今日から顧問って。聞いてねーよ?!」
吐き出す息が熱い。
5月の生ぬるい風を切りながら走る俺の胸元で先生に締められたネクタイが、鎖のように重く揺れる。
苦しい。絶対にとくべきだ。頭の中では分かっているはずなのに。
ネクタイに指をかけた途端、喉元に残る先生の不自然な震えの感触、苦いコーヒーの香りがフラッシュバックしてしまう。さらに、『攻略』と呟く、余裕のない、熱っぽい横顔が思い出されて仕方ない。
結局、俺は制服のまま、体育館の重い扉の前に立っていた。
スゥと大きな深呼吸をして、扉を開ける。
ともだちにシェアしよう!

