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第37話 可愛い人

「プログラム二十番の借り物競争です。出場者は入場門から入場してください」  昼食後、すぐにグラウンドに放送が響いた。  まだ整理が出来ていない。  昼食中もあのことが頭を駆け巡り、拓海との会話も満足に出来なかった。  ぼんやり立っていると、クラスメイトに背中を叩かれる。  俺は片手を上げて「おう」と言った後、しぶしぶ前に出た。  トップバッター。よりにもよって、だ。 「いちについて」  スタートラインに足を置き、俺は構える。  放送席からなるけたたましい音楽が出場者の闘争心を駆り立てる。 「よーい」  俺は本部席の方をちらりと見る。  そこに俺を見つめているはずの先生の姿がない。  なんで?    パンッ。  乾いた音と同時に足を前に踏み出した。途端、バランスを崩す。周りの人と比べてスタートダッシュが遅れた。  運動場の中央に置かれた箱に一直線に走る。中に手を突っ込んだ。  折りたたまれた一枚の紙を引き、開く。  ーー可愛い人。  それを見た瞬間、思考が止まる。  なんだよ、これ。  反射的に顔を上げ、見慣れた人の姿を探す。  本部席から応援席、さらには入場門までくまなく見ていく。  探していた人は退場門のすぐそばで、手元にあるクリップボードを見ていた。  手を挙げ、先生と大きな声で呼ぼうとする。でも、出来なかった。  先生が顔を上げ、目が合う。その瞬間、あからさまに逸らされた。  息が浅くなる。  なんで。どうして。  自分のなかで何の答えも出ていないのに、先生の気持ちに応えられるとは限らないのに、酷く傷ついた。 「おい、早く行けよ!」  応援席からクラスメイトの野次が飛んでくる。  俺は頭をかきむしった後、自分のクラスの応援席へ向かった。  応援席の一番前に座る、田中さんに手を差し出す。 「田中さん。一緒に来てくれる?」  キャーという女子の黄色い歓声が運動場全体を包み込む。その勢いは音楽をかき消しそうなものだった。 「うん!」  田中さんは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに笑顔で立ち上がる。  差し出された俺の手を遠慮がちに握った。  再び歓声が響き渡る。 「あいつ、めっちゃやるじゃん」 「まじかー!」  クラスメイトたちが騒いでいるのが耳に入る。  俺は手を握ったまま、ゴールに向かって走り出した。  砂を蹴る音。  スピーカーから流れる音楽。  うるさい歓声。  全てが混ざり合って、頭の中でぼやけていく。  本当は。  本当は、違う人を連れてきたかった。違う人と走りたかった。  ゴールテープが近づいていく。  ちらりと退場門の方を見る。さっきと同じ場所に先生は立っていた。  だけど、やっぱり、俺の方を見ていない。  奥歯がぎりっと鳴った。  ゴールテープを切った瞬間、ピストルの音がなる。  ゴールの係の人にお題の書かれた紙を渡した。 「気になるお題は……『可愛い人』ですね!ぴったりの人を連れてきましたね」  係の人がマイクでお題を読み上げると色々なところから歓声が上がる。  田中さんは恥ずかしそうに笑った。 「私で良かったの?」  その言葉に思わず言葉が詰まる。 「うん。ありがと」  本当のことは言えない、言えるはずがなかった。  俺の視界に田中さんはいない。  絡まるはずのない視線が絡まることを期待して、俺の瞳は一直線に先生を映していた。  先生はもう俺を見てくれないかもしれない。  あの先生と話す楽しい時間も、目が合った時の胸の高鳴りも、全てが幻となって消えてしまうのだろうか。  さっきまで触れていた距離がもう遠い。

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