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第3話:芽生えた独占欲と、無遠慮な指先
あのスタンピードから数週間。
私はダンジョン攻略を終えるたび、必ずドノバンの元へ足を運んでいた。
あの男の読みは確かだ。ギルド本部の資料よりも、彼の言葉には現場の空気がそのまま乗っているような「鮮度」がある。だから、より早く、実戦的な情報を頼るのは、冒険者としてごく自然な判断だ。
……それだけのはずだ。
だが、私の足取りは、ギルドへの報告義務がある時よりも軽やかだった。あの日、手当てされた脇腹の傷はとうに塞がっている。
なのに、不意に記憶がフラッシュバックするのだ。
無防備な素肌に触れられた、あの無骨 で、節 くれだった指の感触。薬草の匂いと、男の体温が混じり合った独特の香り。それが思考の隅にこびりついて離れない。
(……チッ。私ともあろう者が、戦場の高揚感を恋慕 と錯覚するなど、笑い話にもならん)
私は己の軟弱さを舌打ちで切り捨て、夕暮れの広場を横切った。喧騒 の中心から外れた場所に、いつもの小屋がある。
今日も私は、あの男に一日の成果を報告し、あの低い声で「ご苦労さん」と労 われる――その予定だった。
だが、視界に入ってきた光景に、私の足がピタリと止まった。
「がっはっは! だから言っただろうが! 三階層のショートカットは、スライムの粘液が多い日じゃないと逆に罠になるってよ!」
耳障りな笑い声。
ドノバンだ。
だが、私に向けられる顔とはまるで違う。厳 つい顔の皺 をだらしなく緩め、腹の底から笑っている。その視線の先にいるのは、装備からしてCランクかDランク程度の、取るに足らないパーティだった。
「いやー、ドノバンさんの言う通りだったッス!」「マジ助かりました! さすがドノバンさん!」
若者たちは、やけに馴 れ馴 れしい。その内の一人が、ドノバンの分厚い肩を親しげにバンバンと叩いている。ドノバンもそれを拒絶せず、むしろ満更でもなさそうに目を細めているではないか。
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
瞬間、腹の底から黒く重い感情が沸き上がり、視界が歪 む。
(……何だ、あれは)
不愉快だ。極めて、不愉快だ。
私はこうして足を運んでやっているというのに、あの男は私の存在に気づきもしないのか? Aランクのエースを門前で放置してまで、優先すべきがそのくだらない馴 れ合いだと言うつもりか。
私はわざとらしく靴の音を高く鳴らし、その弛 んだ輪へと近づいた。
「……ドノバンさん。報告に来ました」
地を這 うような低い声が出た。
若者たちがビクッと体を震わせ、慌てて道を開ける。まるで猛獣に睨 まれた小動物だ。
「お、おう。セルウィンか。ご苦労さん。……ちょっと待ってろ」
ドノバンは私を一瞥 しただけで、すぐに視線を若者たちに戻した。
『待ってろ』だと?
この私を?
苛立ちでこめかみの血管が浮き上がるのを自覚しながら、私は腕を組んでその場に立った。
だが、続く光景は、私の神経をさらに逆 なでするものだった。
「ドノバンさん、昨日もらった薬、また塗ってもいいスか? なんか傷口が痒 くて」
「あ? 痒 いだと? 見せてみろ」
ドノバンは、ごく自然な動作で、その若者の腕を引き寄せた。
防具を外し、服の袖をまくり上げる。そこには、私が以前負ったものより遙 かに浅いかすり傷があった。
ドノバンは棚から、常備薬がきっちりと並べられた木箱を取り出し、そこからラベルの貼られた清潔な軟膏 の瓶を手に取った。そして、あの太い指先に薬を取り、躊躇 なく若者の肌に塗り込み始めた。
「うわっ、冷たっ!」
「我慢しろ。化膿止めだ。ったく、これくらい舐めときゃ治るだろうが」
「いてて……でも、ドノバンさんの手当て、なんか安心するッスわ」
ブチリ、と私の中で何かが切れる音がした。
あの指が。
私の肌に触れた、あの指が。
あんな、どこの馬の骨とも知れない野郎の肌に、いとも簡単に触れている。
私だけに許された『特権』ではなかったのか?
あの無骨な優しさは、誰にでも安売りされる程度のものだったのか?
(……過保護だ。お人好しだ。職務怠慢だ)
脳内で罵倒 の言葉を並べ立てる。だが、どう理屈をつけても、胸の奥で渦巻くこの焼き尽くすような焦燥感 は消えない。
あの野郎の細い腕に触れるドノバンの手つきが、丁寧で、優しくて、それがどうしようもなく――気に入らない。
「よし、こんなもんだろ。無駄に掻 くなよ」
「あざっしたー!」
嵐のような若者たちが去り、ようやく静寂が戻る。ドノバンが、手を布で拭きながら私に向き直った。
「待たせたな、エース様。で、今日の報告は?」
その気安い呼び名さえ、今は神経に障 る。私は、自分でも驚くほど冷え切った声で吐き捨てた。
「……いや。今日は特に報告するような情報はありません」
「は? なんだそりゃ。ここまで来といて」
ドノバンの顔にある大きな傷が、怪訝 そうに歪 む。
その顔すら、今は直視したくなかった。私以外の男に向けた笑顔の残滓 が頭にこびりつくようで。
「気が変わりました。大した情報ではないと判断しただけです」
私はドノバンに背を向けた。
「あなたも、若手の世話で忙しいようですし。邪魔しましたね」
「おい、セルウィン! 何怒ってやがる!」
背後から飛んでくる荒っぽい声を無視し、歩き出そうとした瞬間、ガシッと強く二の腕を掴 まれた。
万力 のような力強さ。現役を退いてなお衰えない握力。
「待てっつってんだろ、若造」
無理やり振り返らされる。
至近距離に、ドノバンの顔があった。眉間に深い皺 を寄せ、私を睨 みつけている。
「な、離してください!」
「離さねえ。なんだ、その態度は。……ああ、そうか」
ドノバンは何かを納得したようにうなずいた。
「まだ傷が治りきってないのか? アラクネの時の」
「は?」
「図星だろ。さっきから顔色が悪い。機嫌が悪いのもそのせいか」
何を馬鹿なことを。あの程度の傷、とうに完治している。私の機嫌が悪いのは、あなたが――。
だが、ドノバンは私の言葉を待たなかった。
「見せてみろ。変にこじらせたら厄介だぞ」
ドノバンは強引に私の体を引き寄せた。
私の背中が、監視小屋の壁に押し付けられる。逃げ場はない。
そして次の瞬間、ドノバンの手が、私の軽鎧 の下に着込んだインナーの裾 を掴み、無遠慮 にめくり上げた。
「ッ……! なにを……!」
ひやりとした外気が、露 わになった脇腹の肌を撫でる。
羞恥に声を上げようとした私の言葉は、続く感触によって喉の奥に押し込められた。
――熱い。
ごわごわとした、節 くれだった指の腹が、治った傷跡の上をなぞった。
剣ダコで硬くなった皮膚が、私の敏感な脇腹を擦る。ザラリとした感触。なのに、そこから伝わる体温は、火傷しそうなほどに熱い。
「…………!!」
カッと頭に上っていた怒りの血が、一気に引いていく。代わりに、心臓が肋骨 を蹴破らんばかりに暴れ始めた。
ドノバンの指が、私の肌に、直に触れている。
さっきの若造の腕なんかじゃない。私の、この腰に。
「……ふむ。腫れはねえな。熱も持ってない。……ん?」
ドノバンは、傷跡の周辺を確かめるように、親指の腹でぐっと肉を押した。
その、無造作 な力が、私の腰の芯を痺れさせる。
不快感など微塵も湧かない。それどころか、その粗野な指使いに、背筋がゾクゾクと震えるほどの官能を感じてしまっている。
「おい、どうした。やっぱ痛むのか?」
至近距離から、ドノバンの低い声が降ってくる。
近い。傷跡を覗 き込むために屈 んだドノバンの顔が、すぐそこにある。
無精髭 の剃り跡。頬を走る古傷 。年齢を重ねた肌の質感。
その全てが、圧倒的な「雄」の匂いを放って私に迫ってくる。
その時、ふわりと、あの香りが鼻腔 をくすぐった。
汗臭さや、鉄錆 の匂いじゃない。
初対面の時に感じた、深く、それでいて鼻の奥が甘くなるような……あの不思議な香りだ。
「……また、この匂いだ」
私の口から、無意識に言葉が漏れた。
「あ?」
「……以前も感じました。あなたからする、甘い匂い……」
ドノバンはきょとんとして、私の脇腹から手を離した。途端に、肌が寂しさを訴える。だが、ドノバンは自分の襟元を掴んで、クンクンと鼻を鳴らした。
「ああ、これか。病魔避けの薬草だ。タンスに服と一緒に入れてるだけだ。ダンジョンのカビ臭さよりマシだろ」
「薬草……」
「ああ。少し甘ったるい匂いがするやつでな。そんなに匂うか?」
ドノバンはそう言うと、暑さを払うように、シャツの胸元をパタパタと手で仰いだ。
その瞬間、私の思考は完全に停止した。
開いた襟元から、チラリと見えた肌。
引退したとは思えない、分厚く隆起 した大胸筋。日に焼けた肌には、うっすらと汗が滲んでいる。
厳つい、むさ苦しいはずの男の体。
なのに、そこから漂ってくるのは、脳を溶かすような甘い香り。
(――なんだ、そのギャップは)
理解が追いつかない。
危険だ。この男は、危険すぎる。
これ以上、この匂いを嗅いでいたら、この体に触れられていたら、私の理性が崩壊する。
今まで積み上げてきた「Aランクのエース」という自分が、ドロドロに溶かされてしまう。
私は、ドノバンの手を乱暴に振り払った。
「な、何でもない! 報告はまたにします!」
「お、おい、セルウィン!? 傷は……!」
「問題ないと言っている!」
めくられた服を直すのももどかしく、私は踵 を返した。
背後でドノバンが何か叫んでいるが、振り返る余裕などない。
顔が熱い。耳まで沸騰しそうだ。
逃げるように走り去りながら、私は自分の脇腹を強く握りしめた。
服の上からでも、まだ、あの男の指の熱さが残っている気がした。
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