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第四話 花火①

「おやまぁ、七瀬くん。何年ぶりでしょうか。すっかり立派になって」    十年、いや、十一年? もっとだろうか。それほどぶりに会う瞬介の父親は、昔と変わらず物腰柔らか。優しい笑顔で、里帰りをした息子と、その幼馴染とを迎えてくれた。   「それにしても瞬介、連絡が遅すぎです。お父さんにだって都合があるんですよ」 「悪かったって。休み取れるか分かんなかったんだよ」 「普段お盆に帰省なんかしないくせに、どういう風の吹き回しでしょうか。まぁ、お盆は過ぎてるんですが」    昔からそうだが、瞬介の父は息子相手にも敬語を遣う。そろばん塾で先生をやっているから、その癖が染み付いているのだろうと思っていたが、どうやらそれだけではない。瞬介を産んですぐに亡くなったという母親の代わりを務めようとして、意識的に女性的な振舞いを身につけたのだろう。そのことに気づいたのは、中学を上がってからだった。   「んじゃ、遅くなったけど、これお中元ね」    ここへ来る道中で買ってきたお中元を仏前に供える。茶の間の小さな仏壇には、幼少期にも何度か目にした、瞬介の亡くなった母親の写真。おそらくまだ二十代。今の自分達よりも若いなんて、なんだか信じられない。  仏壇に手を合わせ、瞬介の父とも少し話をしてから、七瀬も実家に帰った。母は相変わらず仕事で不在、正月ぶりに会う祖母は相変わらず元気で、ただ、少し年を取ったようにも見えた。   「今日はこっちに泊まるのよね?」 「うん」 「お夕飯、なにがいいかしら?」 「……そうめんとか?」 「お素麺ねぇ。お腹空いちゃうんじゃないの。もっとたくさん食べないと。ごはんはちゃんと食べてるの? また新米送るからねぇ」 「ちゃんと食べてるよ」 「梨もっと食べなさいねぇ。剥いてあげるから」 「うん。ありがとう」    夏に帰省するのは久しぶりのことだ。学生時代は帰っていたが、卒業してからは、距離が遠くなったこともあって、正月にしか帰っていなかった。   「カルピス飲むかい」 「うん」 「サイダーもあるよ」 「カルピスで」    祖母は、孫がまだ子供なのだと思っている。中学生、高校生、下手をすれば小学生くらいに見えているのかもしれない。多忙な母に代わって七瀬を育ててくれた祖母は、今はそのほとんどの時間を一人で過ごしている。   「……ばあちゃん」 「なぁに? ぶどうも食べる?」 「冷房はつけろよ」    古い扇風機がカタカタ回っている。窓は南も北も開け放たれて、風が真っ直ぐ抜けていく。   「熱中症はおっかねぇからな」 「まぁまぁ、心配してくれてるの。だけどほら、風がさーっと通って、涼しいじゃないの」 「……うん」    畳の上へごろりと横になる。ひんやりとして気持ちがいい。縁側に吊るした風鈴が澄んだ音を奏でる。眠くもないのに、うとうとと微睡んでしまう。  こんな気持ちで帰省の時を過ごすのは、それこそいつぶりのことだろう。いつも自分のことばかり、それだけで手一杯だった。この年齢になってようやく、親のありがたみが身に沁みるようになってきた。  ただ一つ、気掛かりなのは、瞬介のことだ。二人で住んでいることを、母にも祖母にも、まだ話せていない。転職をし、引っ越したことだけは報告してある。後のことは、有耶無耶だ。瞬介との仲を気にかけてくれていた祖母には、本当のことを伝えたいけれど……  その日はそれぞれの実家に泊まり、翌日もそれぞれの家族と過ごした。懐かしい祖母の手料理、昼にはそうめんを食べ、午後から出かけた。瞬介と待ち合わせ、海を見に行く。   「よお」 「ああ」 「昨日ぶり」 「昼飯食ったか」    七瀬が言えば、くくっと吹き出すように瞬介は笑った。   「なんだよ」 「いや、なんか新鮮だよなぁって」 「こういう会話がか」 「まぁ、それもだけど。わざわざこうやって待ち合わせするのとかさ」 「普段は、待ち合わせなんかする必要ねぇからな」 「なーんか、昔を思い出すよなぁ」    さりげなく言うと、瞬介は七瀬の手を握った。さりげなさを装ってはいたけれど、掌はじっとりと熱い。それにつられて、七瀬もじっとりと汗を掻いた。   「昔はこんなことしなかったろ」 「そ、そーだっけ?」 「そうだろ。このヘタレめ」    指を絡めて握りしめると、瞬介はびくんと肩を跳ねる。こちらを向いてはくれないけれど、喜びと照れ、そして仄かな情欲が、その横顔から伝わってくる。七瀬も、自分のしたことが照れくさくなり、俯いた。   「い、いーのかよ? こんなとこで、こんなの……」 「誰か来たらぶっ飛ばす」 「こわっ!」    集落を抜け、大通りへ出れば往来も増える。歩く人はあまりいない。自動車が行き交い、時折、学生らしい自転車とすれ違う。二人も昔着ていた、中学の体操着。高校の制服。この暑いのに、ワイシャツにスラックスだ。滝のような汗を拭いながら自転車を漕ぐその姿が、真っ青に眩しく、懐かしく思えた。  橋を渡り、川を下って、海へ出る。今夜、花火大会が開かれるはずだが、そんなことは全く感じさせないほど、海は静かに凪いでいた。地元の人がちらほら、砂浜で遊んだり、遊歩道を散歩したりしているだけ。   「海水浴ももう終わりか~」 「盆を過ぎたからな」    高校の二年間、夏休みの間だけバイトをしていた海の家も、今年はもう閉鎖されている。建物は解体され、砂浜には何もない。真っ新な状態の白い砂浜が続いているだけだ。   「何もねぇな」 「海があるだろ」    波打ち際を歩く。七瀬の足跡、その後ろに瞬介の足跡。二人分の足跡が、点々と連なる。波に攫われ、掻き消えていく。  あの頃と同じ、まるで永遠を刻むように、反復を繰り返すだけの波の音。照り付ける太陽が、青い海に反射する。照り返す太陽光線が肌を焦がす。   「あっちぃな」 「夏だからな」 「なんか飲みてー」 「夜まで待てよ」 「……」    うだうだとくだらないことを喋っていた口が、急に止まる。砂を蹴る音が背後に響き、いきなり抱きつかれた。   「なっ、んだよ」    顔が近い。頬が触れる。太陽に炙られて、熱を持っていた。   「べっつにー」 「だったら離れろ」 「ヤダ」 「はぁ? わがまま言ってんじゃ……」    視界の端に捉えた瞬介の表情。唇を尖らせて、少し拗ねているように見えた。   「てめぇ、おれが適当な返事しかしないんで、拗ねてんのか」 「ちっげーし! なんでんなことで拗ねなきゃなんねぇんだよ。自意識過剰だっつーの!」 「違ェのか。てっきり、構ってほしいもんかと」 「そんなんじゃねぇから! つーか、構ってほしいのはお前の方だろ。この、寂しがりめ」 「ああ? なんでおれが──」    文句を言ってやろうとして、振り向きざまに体を捻った。その時だ。柔らかい砂に足を取られて、バランスを崩した。体がぐらりと傾いた。  既視感のある景色。青い海と、青い空。視界を斜めに横切っていく。  焼けた砂が背中を包んだ。けれど、衝撃は感じない。すんでのところで、瞬介が支えてくれたのだった。   「──っぶねぇなぁ、ドジっ子かよ」 「……悪い」    温かな砂の上に寝かされた。見上げれば、視線が絡む。直線的な夏の日差しが、逆光となって降り注ぐ。瞬介の輪郭が、青い日差しに縁取られる。  大粒の汗が、夏の日差しに弾けて煌めく。頬を伝い、顎の先から滴り落ちて、七瀬の唇を濡らした。仄かに甘い、海の味がした。  くっきりと、はっきりと、濃い影が落ちている。二人の影が重なって、一つになる。ただでさえ近い距離が、ゆっくりと埋まっていく。  白昼堂々とこんなこと、ダメだと思うのに、緩んだ唇からは拒否の言葉一つ出てこない。衝動のまま、キスを受け入れそうになった時だった。  子供のはしゃぐ声がした。声のした方へ意識を向ける。マジックテープのサンダルを履いた、小さな足。砂遊び用の小さなバケツ。若い母親に手を引かれ、幼児が楽しげに飛び跳ねていた。  汗ばんだ手で、瞬介の口元を覆った。やんわりと押し返せば、抵抗もなく、瞬介は身を引いた。七瀬も体を起こす。すっかり砂まみれだ。   「……夜まで待てよ」    暑さだけでなく、別の意味で汗を掻いた。頬を拭えば、砂でざらついた。   「ああ。ちゃあんと待つぜ。夜までな」 「……なら、いい」    投げかけられる眼差しは、隠しようもない熱を孕んでいる。きっと、七瀬も同じ目をしている。下手に口を開いたら、妙なことを口走ってしまうのは明白だった。  だって、今夜のことなんか考えたら、頭がおかしくなりそうだ。全身の血液が、頭の中が、沸騰する。大きな期待と、少しの不安、そして胸を焦がす切望に、身も心も支配されてしまう。  日に焼けたせいだけではない。赤くなって俯いた。そんな七瀬を、普段ならばここぞとばかりに揶揄ってきそうなものだが、瞬介もきっと、同じ思いなのだろう。「灯台まで歩こうぜ」と仕切り直すように言った。  緩く弧を描く海岸線。潮風に吹かれて、波打ち際を歩いた。そうするうちに、火照った体も癒えていく。  砂浜の先は、小さな漁港になっている。海上へと長く突き出した堤防の先端に、赤い灯台が立っている。  灯台といっても、ほんの目印程度のもの。点検用らしい梯子に、ふざけてぶら下がったり、よじ登ったりして、怒られたことは数知れず。小学生の頃は、二人の格好の遊び場だった。  日除けになるものは何もない。アスファルトから立ち上る熱気にくらくらした。けれど、遮るもののない海は良い。世界の広さを実感する。たった今歩いてきた砂浜も、反対側の防波堤も、海へ突き出した岬の青さも、この場所から見渡せる。  青く澄んだ海。凪いだ空。潮風の甘さ、ほろ苦さ。この美しさに、昔は気づけないでいた。楽園は、こんなにすぐそばにあったのに。   「見ろよ、魚」    石積みの防波堤から、子供みたいに身を乗り出して、瞬介は海を覗き込む。小魚の群れが戯れていた。真っ青な水中で、鱗が銀色に光っていた。   「かわいいな」    七瀬がぽつりと呟くと、瞬介は意外そうに目を丸くした。   「……なんだよ」 「いや、そういうお前の方が、とか……はは、柄じゃねぇか」    照れて笑う瞬介を肘で突っついた。二人分の丸い影が、澄んだ水面に落ちていた。

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