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第四話 花火②
日暮れが近づき、町はにわかに活気づく。この時をどれほど待ちわびたことか。キリンみたいに首が長くなってしまった。
正直なところ、煩悩が先走りすぎており、花火を楽しむ余裕は見込めない。花火の打ち上がるのだけは律義に待って、その後はもう、その辺の藪へ連れ込んでしまうことになるとしても、やぶさかではない。一応約束は守るのだ。その一点だけでも、褒められるに値する。
そんなことを一人で悶々と考えていると、カランコロンと涼やかな足音が響いた。はっと顔を上げる。待ち合わせの時刻に遅れること数分、七瀬が足早に下駄を鳴らしながら、こちらへ手を振っていた。
「悪い、遅れた」
薄鼠色の単衣の着物。深く鮮やかな藍色の羽織。同じく藍色の帯を締めて。瞬介が言葉もなく見つめていれば、七瀬は袖を広げてみせる。
「おかしいか?」
丈を確認するように、身を捩って裾を翻す。長い裾がくるぶしを撫でる。たっぷりとした袂が靡く。
「瞬介?」
「あー、いや、その……」
「……?」
「に、似合ってる、よ」
どうにかそれだけ絞り出した。きょとんと首を傾げていた七瀬だが、瞬介のその反応に、にんまりと頬を緩めた。すこぶる上機嫌な時の笑顔だ。
「似合うか」
「だから、似合ってるって。すンげぇいいよ」
「最初っからそう言やいいんだ」
「言ったじゃん!」
本当に、どうしてくれようか。今すぐにでも、この品のいい着物を引ん剥いてしまいたい。けれど、そんなことをしてはあまりにももったいない。派手さはないが品のいい着物。樟脳のにおいが染み付いた年代物らしいが、まるで七瀬のために誂えたのかと見紛うほど、見事に似合っていた。
「けど、どうしたんだよ、それ。着物なんか持ってたっけ?」
「死んだじいさんが、若い頃に着ていたものらしい。お前と花火だっつったら、ばあちゃんが張り切っちまって、箪笥の奥から引っ張り出してきた」
「なるほどねぇ、ばあちゃんが……」
「たまにはいいだろ、こういうのも」
「ばあちゃんには今度お礼言わねぇとな」
「なんの礼だよ」
着物一つで瞬介の心をここまで掻き乱すなんて、なんと恐ろしい幼馴染だろうか。そして、自分はなんと愚かなのだろう。花火に合わせてこんなにもおめかししてきてくれた恋人に対し、草藪へ連れ込むのもやぶさかではないなどと、一瞬でも考えた自分が恥ずかしい。そんな暴挙へは、もう決して出られない。祖父の形見だなどと言われてしまえば、余計に。
「花火の前に、ちょっと寄り道してぇんだけど、いい?」
海へ向かう道を外れ、市街地の方へ向かおうとする瞬介に、七瀬は訝るような目をした。
「ちっ、違うからね? やらしいこと考えてるわけじゃねぇから!」
「なにがだ。何も言ってねぇだろ」
あながち間違いでもないが、ともかく今は違うのだ。瞬介が行きたかったのは、商店街の呉服屋である。華やかな浴衣や甚平がずらりとディスプレイされ、若い女性客ばかりが群がっている中、七瀬には店の外で待ってもらい、そそくさと買い物を済ませた。
小さな紙袋を手に、店を出た。七瀬は混雑を避け、斜向かいの店のシャッター前に立っていた。その立ち姿が、一枚の絵画のように美しく、瞬介は足を止める。
着物を着ているせいなのか、体の曲線が際立つように感じられた。物憂げに伏せられた瞼も、鼻緒の先を見つめる眼差しも、何か目を惹くものがあった。もうほとんど沈みつつある夕日の、赤とも金ともつかない光が、輪郭をぼかし、淡い影を宵闇へと滲ませる。
ぽつりと、街灯が灯った。七瀬は静かに視線を上げ、目の前に突っ立っていた瞬介に気づく。表情に色がつく。
「買い物は済んだのか」
「ああ……これ」
紙袋をずいと手渡した。七瀬はそれを受け取り、中身を見る。
「開けて」
袋に入っていたのは化粧箱だ。箱を開けると、七瀬は目を瞬いた。
「……組紐か?」
「羽織紐っつーらしい。最初は、髪飾りか帯締めでもと思ったんだけど、さすがに売ってなくてさ」
「そりゃそうだ。この頭で簪は無理があんだろ」
「けど、それは一応、男も使えるやつだから。お前のそれに似合うと思って」
「……」
箱から手に取り、街灯にかざして眺める。紺藍の組紐に、珊瑚の飾り玉があしらわれた、派手さはないが、奥ゆかしく品のある品。きっと、七瀬の着物に似合う。七瀬に似合う。そう思って選んだものだ。
組紐の両端に付けられた金具を、羽織の胸元に小さく縫い付けられた輪に通す。左右とも同じように引っ掛けたら完成だ。
「似合うか?」
「……うん」
実際に目にしてみれば、想像以上に似合っていた。暗めの色が多い中で、胸元に揺れる桃色珊瑚が一際目を惹く。七瀬の着物に、そして七瀬の纏う雰囲気そのものに、これ以上ないほどふさわしく思えた。
「なんか、こう……ぐっとくるな」
「ああ。お前にしちゃ趣味がいい」
「俺にしちゃって何だよ」
「ありがたく使わせてもらうぜ」
「……おう」
何やらひどく照れくさい。むず痒い空気が二人を包む。妙な気分を変えたくて、瞬介は威勢よく言った。
「んなことより、花火だろ。急がねぇと始まっちまうぜ」
もう間もなく、あの赤々と燃えていた太陽は海に沈む。水平線から漏れる残照も、時を追うごとに薄らいでいき、やがて闇が満ちるだろう。
金や紅の提灯が、宵の空を照らす。海沿いの道路は交通規制が敷かれ、歩行者天国で賑わっている。数え切れないほどの露店が軒を連ね、そこかしこから香ばしいにおいを漂わせている。
キラキラのりんご飴に、ふわふわの綿菓子に、どれもこれも目移りするほど魅力的。だけれど、隣を歩く幼馴染の魅力には、何物も敵わないのだった。
「なに見てんだ」
「別に~? うまそーだなと思って」
「あ? なにが……」
「いやほら、たこ焼き食おうぜ。好きだろ」
「……まぁ、嫌いじゃねぇが」
一パック八百円とか高すぎだろ、と普段なら文句の一つも出そうなものだが、今夜ばかりは財布の紐も緩むというもの。たこ焼きだの焼きそばだの、甘いものもいくつか買い、空いているベンチをどうにか見つけ出して腰を下ろした。
「しっかし、すげぇ混んでんな。昔からこんな風だっけ?」
「さぁな。会場までは、あんまり来たことなかったろ」
「そういや、お前ン家のベランダから、結構よく見えたんだよな」
咽返る熱気に、気が変になりそうだ。目の前を甚平姿の子供が駆けていくのを、昔の面影を重ねながら見送った。
「……なぁ、瞬介」
そっと、七瀬の手がこちらへ伸びた。指先が口の端に触れ、意識が一点に集中する。この熱気に当てられたのか、七瀬の指も熱かった。
「な、に……」
キスされるのだと思い、ごくりと喉が鳴った。その時だ。
ひゅう、と細い笛の音が喧騒を切り裂く。ぱっと光った大輪の華が、七瀬の横顔を照らし出す。
立て続けに、二発三発、胸を貫く爆音が轟く。大粒の火花が、幾重にも重なった花びらのごとく、赤から青、緑、紫へと、色を変えながら夜空に閃く。けれども、瞬介の意識は、目の前の幼馴染に釘付けだ。目を離すことなどできなかった。
「なな……」
口の端に触れていた、七瀬の指先が離れる。ぺろりと舌を出して、七瀬はそれを舐め取った。
「ソース、ついてたぜ」
そう言って、妖艶に笑う。何とも色気のないやり取り。それなのに、この夜を灯す花火よりも艶やかだ。本当に、ソースがついていただけなのか。
「……お前だって、前歯に青のり引っ付いてるけど」
瞬介が言えば、七瀬はさっと口元を隠した。決まりが悪そうに顰め面をして、舌で前歯をなぞっている。その横顔をじっと見ていれば、七瀬は再びこちらへ視線を寄越した。
「てめぇ、揶揄ってんだろ」
「さぁ~ね。青のり引っ付いててもかわいいよ」
「……だまれ、ばか」
赤らんだ頬を、色とりどりの火花が彩る。刹那のうちに色を変え、瞬いては夜に溶けていく、鮮やかな光の美しさは永遠だ。
「……なぁ、七瀬」
汗ばむ手で、七瀬の手を握りしめた。
「帰ろうぜ」
その言葉の意味を、理解できないはずはない。夜と同じ色をした瞳をいっぱいに満たすのは、夜に咲く光の華か、それとも……
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