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第2話

この春から通うことになった大学は、東京とはいえ都心から少し離れたところにある。 その分キャンパスの敷地は広く設備も充実しているのだが、今だに迷子になってしまう。 「あ、四十万だ〜。また迷ってるの?」 明が案内図を睨みつけるように見ていると、のんびりとした声が聞こえた。 振り向くと、ゆるくパーマのかかったベージュブラウンの髪色の男性がニコリと笑って立っていた。 「木岐!おはよ!助かった〜」 明はホッと息を吐いて近づいていく。 「人権論取ってる?教室がわかんなくてさ」 「取ってるよ。ちょうど今から行くところだから一緒に行く?」 「うん!よろしくお願いします!」 明はペコリと小さく頭を下げた。 それから二人で並んで歩き始める。 木岐が向かった方角は明が考えていた場所とは違っていた。 「あっ、3号館なんだ。そりゃ1号館の方見てても教室ないわけだ」 「分かりづらいよね。人権論は総合科目で他の学部と一緒だからこっちみたいだよ」 「へぇ。そうなんだ。俺まだ大学のことよく分かってなくて」 「俺もこの間たまたま教えてもらっただけ」 そう言って木岐はフニャンと崩れるような笑顔を向けた。 東京に出てきて、最初にできた友人がこの木岐龍臣だ。 初めての出会いも今日のように明が案内図を睨みつけているところを話しかけてくれたのがキッカケだった。 誰にでも親切で人見知りをしない性格のようだ。 明が『きき』という苗字の人に初めて会ったと言うと、彼は九州出身だと答えた。 それから同じ西日本からの上京組として話が弾み仲良くなることができた。 とは言え、木岐が仲良いのは明だけではない。その人懐っこそうな笑顔と性格で入学して一週間足らずですでにたくさんの友人ができている。 木岐を通して明も何人かの同級生と話が出来るようになったのはありがたい。 「そういえば、今日がバイト初出勤だっけ?」 教室に向かう階段を登りながら木岐が聞いた。 「そう!今日は3限までしか取ってないから夕方からバイトだよー。めっちゃ緊張する」 明は笑いながらも不安そうに眉を下げる。 「大丈夫だって。慣れるまでの辛抱だよ」 「そうだけどさぁ・・たしか木岐はもうバイトしてるんだよね?」 「うん。俺はこっち来てすぐに始めたから。S駅近くのカラオケ屋」 「えっ!俺のカフェ、S駅の駅ビルの中!」 思わぬ偶然に明は大きな声を出した。 「へぇ、そうなんだ。じゃぁ今度バイト前に寄ろうかな」 木岐は口元にだけ笑みを浮かべて応える。 「うん!それまでに仕事覚えられるように頑張るよ!」 こんなに多くの人が集まる東京で、初めてのバイト先の近くに知り合いがいるというのはなんとなく心強い。 緊張する心が少し軽くなった。 とは思ったものの、やはり初めてのことには変に力が入ってしまうものだ。 十六時からの勤務なのだが、遅刻しないようにと急いで大学を出たら四十分も早く着いてしまった。 「少しどこかで時間潰そうかな・・」 明はバイト先であるカフェの入っている駅ビルの案内図をじっと見つめる。 するとカフェの一つ上の階に書店が入っていることに気がついた。 本屋さんには当分行っていない。 特に読みたいと思う本がなかったからだ。 漫画も最近は電子書籍で買ってしまっている。 今、何か気になる本はあるだろうか・・ 「・・あっ・・」 明はハッと思い出すと案内図のすぐ横にあるエスカレーターに飛び乗った。 「わ、広い・・」 エスカレーターを降りるとすぐ目の前にたくさんの本が陳列された空間が広がっていた。 ワンフロア全て書店になっているらしい。 これだけ広いのならお目当ての本もありそうだ。 明は専門書のコーナーを探し始めた。 海洋学についての本がどのジャンルになるのかは分からないが、漫画や小説のコーナーではないことは確かだ。 昴が海に興味を持つきっかけとなった本が見てみたい。 気になる本は何かと考えた時、思いついたのがそれだった。 しかしタイトルや著者の先生の名前が分からない。 店内をウロウロと歩き回ったがそれらしい本もコーナーも見つけられなかった。 「あの、何かお探しですか?」 困った顔で店内の案内図を見ていると、横から澄んだような綺麗な声が聞こえた。 声のする方に視線を向けると、エプロン姿の眼鏡をかけた小柄な男性が立っていた。 「・・・」 明はその姿を見て思わず息をのみこむ。 サラリとした線の細い髪に、眼鏡のレンズ越しに見える薄茶色の瞳。 そして首元にはマットな質感の革製の首輪。 綺麗なΩは幸で見慣れているつもりだが、幸とはまた違う柔和な美しさに思わず見惚れてしまう。 「・・あの、何かお探しでしたらお伺いします」 その男性が少し困ったような笑顔を向けて聞いてきた。 「あっ!ごめんなさい。えっと・・」 明は慌てて我に返る。 「海洋学についての本を探していて・・」 「え、海洋学?」 男性の丸くて可愛らしい瞳が大きく見開かれた。 「海洋学に興味があるんですか?」 「あ・・いや、えっと・・まぁ。でもそういう関係の本がどこにあるのか分からなくて・・」 明がしどろもどろに答えると、男性はクスリと小さく微笑んだ。 「僕も海が好きなんです。なので海のどんなことが知りたいか教えてもらえれば詳しく答えられると思います」 「え・・そうなんですか?」 「はい。もしこれから海について学ぶなら、まずは図鑑や一般の人向けに分かりやすく解説された書籍から読むのがいいかなと思います」 男性は柔らかく優しい口調で説明する。 「それとももう専門的に学んでいますか?」 「あっ・・!いや、まだ全然!ど素人です」 明は片手を振って否定した。 「そうなんですね。じゃぁおすすめの本がありますよ。ご案内しますね」 「は、はい」 明は歩き始めた男性の後をついていく。 なぜだろう。今初めて話しているのに、不思議と親近感と安心感を感じる。 物腰の柔らかさや雰囲気のせいだろうか。 「こちらです。このシリーズはとても分かりやすく海についての解説がされてるんですよ」 そう言って男性は一冊の本を明に手渡した。 表紙には綺麗な水平線の写真の上に『海を学ぶ』と書かれた文字が書かれている。 「あ、ありがとうございます」 明はそれを受け取るとペコリと小さく頭を下げた。 「他にも何か気になることがあったら声かけてくださいね。海に関する本のことなら詳しく教えられると思うから」 男性はまるでガラス細工のような澄んだ綺麗な笑顔をこちらに向けた。 その笑顔に思わず胸がドキりと弾む。 「あっ、いろはさーん。ちょっといいですか?」 エプロンを付けた店員が男性に声をかけてきた。 「お客様からお問い合わせがあったんですけど、私分からなくて・・」 「じゃぁ僕変わります。電話ですか?」 「いえ、今そこでお待ちです」 「了解。すみません。ちょっと失礼してもいいですか?」 『いろは』という名前らしい男性が明に目配せして聞いた。 「あっ!俺はもう大丈夫です!これ読んでみます!ありがとうございました!」 明は手渡された本をいろはの方に向け頭を下げた。 「いえ。またお待ちしてます」 いろははそう言うと柔らかく微笑み急ぎ足で去っていった。 素敵な人だな・・ 明は見惚れるようにその後ろ姿を見つめる。 優しくて話しやすくて穏やかそうで・・ そこまで思って明はハッとした。 そうだ。 あの人の雰囲気は昴に似ているのだ・・ ーー 「はぁー。疲れたぁ」 明は大きな独り言と共にベッドの上に転がった。 数時間だったのに立ちっぱなしで足はパンパンだ。 初めてのバイトは仕事内容を覚えるのに必死であっという間に終わった。 駅ビルの中にあるチェーン店のカフェなので、お客さんはひっきりなしにやってくる。 今日はドリンク作りと簡単なレジ操作を教わってきた。 次の出勤は土曜日だ。それまで覚えていられるだろうか。 明はスマートフォンのカレンダーを表示した。 明後日の金曜日が昴のゼミの面接だ。 面接が終わるまでは電話はしないと約束した。電話をしてしまうと、どうしても切り難くなってしまうからだ。 メッセージも朝と夜の挨拶だけにしている。昴曰く返事が来ることを期待してしまうと落ち着かないそうだ。 初めてのバイトの話を沢山聞いてもらいたい。 それから・・ 明はカバンの中から一冊の本を取り出した。 『海を学ぶ』と書かれた本だ。 それをパラパラと捲りながら今日会った男性のことを思い出した。 この話も昴に聞いてもらいたい。 そう思ったが、自分の恋人が実は結構嫉妬することを明は思い出した。 それは東京に出てきてから気づいたことだ。 明が新しい友人の話をすると、昴はどこか面白くなさそうな反応をする。 普段ならどんな話も笑顔で聞いてくれるのでその反応の違いがすぐにわかるのだ。 「もう少し落ち着いたら話してみようかな」 明はポツリと呟きながら海の本を眺めた。 あの人のおすすめなだけあって、分かりやすく興味がそそられるように書かれている。 語り口調の文章は、彼の話し方に似ているように感じた。 『いろは』という名前が似合う、綺麗な人だった。 優しく穏やかで、そして昴と同じ温かくて柔らかな雰囲気をまとっていた。 人の多い東京でそんな人に出会えるなんて。 明はなぜだかこの出会いに胸が高鳴った。

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