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第3話
海は、生まれた時から側にあった。
地元の海はいつも穏やかで何も主張しない。
そこにあるのが当たり前で特別なものではなかった。
けれど・・
あの子の笑顔の後ろで輝くオレンジの海を見た時に、この景色を永遠に残したいと思ったんだ。
『昴!おめでとう!』
電話の向こうから明の嬉しそうな声が聞こえた。
『よかったなぁ!俺も嬉しいよ』
「うん、ありがとう明」
昴は大学の敷地内にある外のベンチに腰掛けた。
ここなら会話を人から聞かれることはなさそうだ。
ゼミの面接結果を知らせる連絡が来たのはつい先ほどだ。
『合格』の文字を見て堪らずすぐに明に電話をかけた。
昼休みの時間だったのでちょうどよく明が電話に出てくれた。
『それでゼミはいつから始まるんだ?』
「ちゃんと始まるのは来週からだけど、あとでゼミ室に挨拶に行こうと思って。必要な物とか聞いておきたいし」
『そっか!ゼミの雰囲気とかもわかるといいな』
「うん。そうだね」
『それで・・あっ、ちょっとごめん』
何か言いかけて明の声が少し遠くなった。
どうやら友人に話しかけているようだ。
『—・・後で追いかける!ありがとうきき!うん・・』
微かに聞こえる会話から明が新しい世界を楽しんでるのが窺える。
そのことを喜ぶべきなのに、それが出来ない自分の心の狭さに嫌気がさす。
『あ、ごめん。中断しちゃって』
「ううん、大丈夫。こっちこそ昼休みにごめんね。お昼まだ食べてないよね」
『まぁ、でもそれは・・』
「俺もこれから食べるよ。時間取らせちゃってごめん。また電話するね」
『あ・・うん。わかった』
明の戸惑った声を聞き終えると、昴はスマホの通話終了のマークをタップした。
それから後悔の波が押し寄せ、思わず両手で顔を覆う。
せっかくの喜びの電話だったのに。
なぜあんな終わらせ方をしてしまったのだろう。
高校生の時も明とは違う環境だったのに、あの頃よりも我慢が利かなくなってしまった。
高校生の最初の頃はまだ自分の完全な片思いで、幸への罪悪感も相まって少し離れるくらいがちょうど良いと割り切れることが出来た。
付き合うようになってからも、恋人になれた喜びと共通の友人がいた事で別の学校でも気持ちは落ち着いていた。
けれど今は・・お互いが知らない街に住み、誰も知り合いのいない環境で一から人間関係を作っている。
自分の全く知らない人物に、明が笑いかけている。
その相手は明をどんな風に見るのだろうか。
もし、自分と同じような視線を向けていたら・・
そんなことをグルグルと考えては、いつも自己嫌悪におちいってしまう。
もっと恋人のことを信じるべきなのに。
独占欲丸出しで誕生日に指輪を贈ったが、きっと明はこの重く醜い感情が込められていることには気づいていないだろう。
昴は右手の薬指に光る指輪を見つめた。
この細い輪っかで大切な彼を繋ぎ止められることを、心の中でそっと祈った。
——
憧れの教授の名前は『海老原潮』と言った。海洋学を研究するのに相応しい名前だ。
彼の書いた『海を学ぶ』を読み、いつも当たり前にあると感じていた海が永遠ではないことを知った。
あの瞬間の海を残したい。
そのために、自分が出来ることを学ぶためここに来た。
昴は白い扉を力強くノックした。
ここに来たのは面接の日以来だ。けれどあの時とは心持ちが全然違う。
「はい」
部屋の中から返事が聞こえた。
海老原教授の低い声が返ってくるかと思ったが、聞こえたのは少し高めの綺麗な声だった。
「・・あの、失礼します」
昴はそういうと、ゆっくりと扉を開けた。
面接の時に来た時と同じく、沢山の本が詰まった本棚と机に飾られた地球儀が目に入る。
しかしこの間と違って部屋の中に居たのは、白髪混じりの五十代の男性ではなく眼鏡をかけた小柄な学生だった。
「あ、すみません。今教授は席を外していて・・」
線の細く綺麗な見た目から女性かと思ったが、どうやら男性のようだ。
彼は申し訳なさそうな顔をすると、昴をジッと見つめた。
昴もその視線に釣られるように見つめ返す。
「・・・」
「・・・」
何も言葉が出てこない。
身体も動かない。
まるで金縛りにあったみたいだ。
けれど、心臓の鼓動だけが力強く音を立てている。
しかもそれはどんどん速くなっていく。
ここから逃げなくちゃダメだ・・これは、この感覚は・・
そう思考は働くのに体が言うことを聞かない。
離れなくてはいけないと思うのに、なぜか右手を彼の方へ伸ばそうとしている。
「・・・に、にげて、ください・・」
苦しい息遣いを整えながら、昴は搾り出すように言った。
しかし、彼もまた顔を真っ赤にし苦しそうに胸を抑えて動けないでいる。
「お、お願いします・・に、にげて・・」
縋るような声を出したが、それではもう間に合わなかった。
気がつくと、昴の手のひらが彼の白く華奢な腕を掴んでいる。
ビクンと彼の肩が大きく揺れた。
それから潤んだ瞳で昴を見上げる。
「あ・・なんで・・ぼ、僕、こんな・・」
戸惑うような表情を見せながらも、身体全身から強烈な芳しい匂いを放っている。
昴はなんとかその匂いを嗅がないように顔を背けようとしたが、全く意味はなかった。
すでにこの部屋中に匂いが蔓延しているからだ。
なんで・・なんでこんなことに・・
ダメだ・・俺には・・俺には・・明が・・
その思考を打ち切るように、唇に熱と痛みが走った。
先程まで何とか保っていた彼との距離は、いつの間にかゼロになっていた。
ぶつけ合うように夢中でお互いの唇を貪り合う。
何も考えられない。
ただ、一つにならなくてはと身体が叫んでいるようだ。
「ふっ・・ぅう・・」
苦しそうなか細い息遣いが聞こえる。
離さなくては・・そう思って腕に力を込めるが、彼もまた昴の腕を掴んで離さない。
苦しいのに求め合ってしまう。
理性を飛ばし本能だけで今、口付けをしている。
ズクンと、お腹の下が疼く感覚がした。
昴はハッとして目を見開く。
それだけはダメだ・・絶対に・・
彼も同じことを思ったのだろうか。
ふらふらとしながらなんとか唇を離し、昴に視線をぶつけた。
昴はその瞬間に彼の身体を押し自分から遠ざけた。
それから鼻を抑えすぐに入ってきた扉を開ける。
勢いよく外に出ると、再び扉を閉めて言った。
「あ・・鍵を・・鍵をかけてください!早く!」
昴の声が届いたのか、中からガチャンと音がした。
その音を聞くと、昴は力が抜けたように扉にもたれかかって座り込んだ。
背負っていたリュックを下ろし中から薬を取り出す。いつも肌身離さず持っているラットを抑える薬だ。
それを口に放り込むとゆっくりと深呼吸をしてなんとか体を落ち着かせた。
それでもまだ思考は落ち着いていない。
ジワジワと先ほど起こってしまった現実が胸に黒く広がっていく。
なぜ・・急にラットを引き起こしてしまったのだろう。
今までもΩのヒートに遭遇する場面は幾度かあったが、なんとか強い意志と理性で抑えてきた。
それは昔の苦い経験があるからだ。
あの時以来、絶対にラットは起こさないと誓っている。
それなのに・・そんな誓いがいとも簡単に崩れてしまった。全く抑えが効かなかった。
自分の体が自分のものではないみたいだった。
目の前にいるあの人と『一つにならなくては』と、理性より先に本能がそう判断したような・・
その考えが浮かび、昴は全身に鳥肌が立った。
『一つにならなくては』
以前にも、同じような言葉を聞いたことがある。
それは高校二年生の時だ。
明の高校の友人が『運命の番』を見つけた時。
「運命の番とは『一緒にいたいんじゃなくて一つになっていたい』と思うんだって!なんかすごいよな!本当に運命の相手って感じで!」
明は友人から聞いたその言葉に感動したらしく、目を輝かせて教えてくれた。
明があまりにも素直な感想を言うものだから、昴は複雑な心境は表に出さず「そうだね」と微笑んだ。
『運命の番』など簡単に出会えるものではない。だから不安がる必要はない。
そう思っていたのに・・
扉の向こうから音がして昴は我に返った。
自分のことにばかり必死になって彼のことを忘れていた。
「あ、あの・・大丈夫ですか?誰か人呼んできましょうか?」
昴は扉に向かって話しかける。
すると、再びカタンと音がして扉の近くまで人が来る気配がした。
「・・大丈夫です。ヒートを抑える薬を飲んだので・・もう、だいぶ落ち着いてきました」
か細く綺麗な声の返事が返ってきた。
「そうですか・・よかったです」
ほっと小さな息を吐く。
「あの、あなたは?大丈夫ですか?」
「え・・」
「あなたも辛そうだったから・・」
「・・・」
あんな事があったのに・・
こちらを気遣う言葉に昴は思わず息を飲んだ。
そして改めてなんてことをしてしまったのだと、胸の奥が痛くなる。
「俺も、大丈夫です。ラットを抑える薬を飲んだのでもう落ち着きました」
「・・そうですか。よかった」
「・・・あの、扉を開けてもいいですか?」
「え・・」
「直接、ちゃんと謝りたいので・・」
昴がそう言うと、少しの間無言の時間が流れた。
本当に大丈夫かと疑っているのかもしれない。
一旦ここは引こうか・・
そう思った瞬間、カチャリと扉がゆっくりと開かれた。
眼鏡をかけた小柄で華奢な男性が、少し気まずそうに節目がちで立っている。
「あ、あの・・どうぞ・・」
男性はそう言うと、部屋の中の方へ手を向けた。
「・・いえ。ここで。扉は開けたままでお願いします」
昴は部屋には入らず、開かれた入り口を挟んで男性の前に立った。
「本当にすみませんでした。怖い思いをさせてしまって・・」
小さく頭を下げ、下を向いたまま昴は言った。
「あの・・どうかしてたんです。俺・・」
「あ、顔あげてください。大丈夫ですから」
申し訳なさそうな声が聞こえ、昴はゆっくりと顔を上げる。
すると、眼鏡越しに澄んだ瞳と視線が重なった。
先ほどはその瞬間に身体が熱くなった。
けれど今は大丈夫だ。薬が効いているからか・・
「僕の方こそ・・なぜだか急に身体が熱くなって・・それで・・」
「・・・あ、あの」
「あれ、そこで何をしてるのかな?」
昴が声を発しようとした瞬間、後方から低い声が聞こえた。
振り向くと白髪混じりでヨレヨレのスーツを着た男性が立っている。
「あ、海老原教授お帰りなさい」
部屋の中からひょっこりと顔を出し、眼鏡の男性が言った。
「ただいま。留守番ありがとうね、彩葉君」
「いえ。本棚の整理がしたかったのでちょうどよかったです」
「ははは。いつも綺麗に並べ直してくれて申し訳ないね」
海老原は豪快に笑うと、昴の方に視線を戻す。
「ええと、君は矢野君だね。この間提出してもらった論文もとても素晴らしかったよ」
「あ、ありがとうございます」
昴はペコリと頭を下げた。面接の時に出した論文の感想を聞くのは初めてだ。不安だったのだが、どうやらそれなりの評価は得たらしい。
「来週から早速ゼミに参加してもらうからね。楽しみにしているよ」
「え・・あっ、新入生の子ですか・・?」
海老原の言葉を聞いて、眼鏡の男性が微笑みながらも目を泳がせた。
「そうだよ。一年生の矢野君。矢野君、こちらは3年生の浅野彩葉君。綺麗な名前だろ。彩る葉と書いて『いろは』と読むんだけど、彼のことはみんな下の名前で呼ぶんだよ」
「教授が呼ぶからみんなも真似してるんですよ」
彩葉は頬を少し膨らませる。
「いいじゃないか。矢野君もぜひ下の名前で呼んであげてくれ。これから同じゼミ生として一緒に勉強していくんだから。そっちの方が親しみやすいだろ」
「・・はい」
昴は複雑な笑顔を向ける。
そんな昴と同じく彩葉も困ったような微笑みを浮かべていた。
きっと、同じことを考えているのだろう。
これから、同じ空間で過ごせるのだろうかと・・
「あの、今日はご挨拶させていただきにきただけなので。その、失礼します」
昴はそう言うと、頭を下げて踵を返した。
そして急足で歩き始める。
一度ここを離れて冷静になって考えなくてはいけない。
今ならまだ、無かったことにできるはずだ。
念願の海老原教授のゼミ。
ずっと憧れて、一緒に研究できる事を夢見ていた。
けれど・・・・入るわけにはいかない。
あそこに近づいてはいけない。
絶対に、出会ってはいけない人がいるから・・
「あ、あの!」
昴が項垂れたまま歩いていると、後方から声が聞こえた。
振り向くと駆け足で彩葉がこちらに向かってくるところだった。
「・・あ」
無意識に一歩後ろへ下がる。
彼は悪くないのに警戒心が働いてしまう。
彩葉は昴の前に来ると、フーと深く深呼吸をして微笑んだ。
「あの、ゼミの新入生だったんだね。その、ちゃんと挨拶できなくてごめんなさい」
「・・いえ。こちらこそ・・いきなり来てご迷惑を・・」
そこまで言って昴は口を噤んだ。これ以上、何を言えばいいのだろうか。
「・・ねぇ。ゼミ、辞めようかなんて考えていないよね?」
彩葉の言葉を聞いて昴は目を見開いた。
「やっぱり。そう考えてるんじゃないかと思って追いかけてきたんだ」
彩葉は眉尻を下げて笑う。
「海老原教授のゼミ、人気があって入るの大変なんだよ。だから辞めちゃうなんて勿体無い」
「・・で、でも・・」
昴は視線を斜め下にずらし掌を握りしめた。
「・・わかってる。恋人のためだよね?」
「え・・・」
「指輪。右手にしてるの見えたから。恋人がいるんでしょ?」
「・・・」
昴は握りしめていた掌を開き、右手の薬指に輝く指輪を見つめる。その様子を見て、彩葉は口元に笑みを浮かべたまま続けた。
「・・あのね、僕は自分から好きになった人と『番』になりたいって思ってるんだ。まだそういう人には出会えてはいないけどね」
「・・・」
「だから例えば『運命の番』に出会ったとしても、僕はそれで番にはなろうとは思わない。本能で選ぶより、心から愛しいって思える人と結ばれる方が幸せじゃない?」
「・・・はい」
彩葉の言葉に昴は小さく頷く。
「だよね。君もきっと同じ考えなんじゃないかなと思ったんだ。そして、君にはもういるんでしょ?大切な人が」
「・・はい。います」
「だったら・・ちゃんとその意思を貫けばいいだけだよ。惑わされなければいい」
「・・・でも・・」
そんなことを言っても、αはΩのヒートには抗えない。ましてやそれが『運命の番』のものだったなら・・
昴が不安そうな顔をすると、彩葉は理解しているといった顔で小さく頷いた。
「僕ね、今まで外でヒートになったことなかったんだ。発情期の周期も昔から安定していて、抑制剤を飲めばその期間もヒートを起こすことなく普通に生活できる。もともと発情も弱い方みたい」
「・・そう、なんですか」
「でも、どうやら君の前だと今まで通りではダメみたいだから。だからこれからは大学に行く時は毎日抑制剤を飲むよ」
「え・・」
「お守りみたいなものだよ。いつ発情が起こるか分からないから。その代わり、君もラットの抑制剤を飲んでほしい」
「・・・」
「事前にお互いに抑制剤を飲んでいれば、今日みたいなことは防げるんじゃないかな。それで今まで通りの生活ができて、君もゼミに入れるならそっちの方がいいじゃない?」
「・・でも、あなたにそんな負担を・・」
「全然負担じゃないよ。それよりも、せっかく同じ志を持った人と一緒に研究や勉強できない方が嫌だもの。教授、君のことすごく褒めてたよ。面接も論文も申し分ない新入生がいるって。そんな優秀な人が僕のせいでゼミに入れないなんてなったら僕が教授に顔向けできないよ」
彩葉はそこまで言うと「ね?」と首を傾げて笑った。
その穏やかで温かみのある雰囲気に、昴の強張っていた気持ちも少しずつ緩んでいく。
Ωにとってラットしかけたαは恐怖の対象であるはずなのに・・
そんなことは微塵も感じさせないように、しっかりと視線を合わせてくれる。
それだけで、この人の人となりが分かるようだ。
大切なものを諦めないでいいように思い遣ってくれている。
この人の心遣いに自分はちゃんと報えるだろうか。
・・いや、そうしなくてはいけないのだ。
同じ過ちを繰り返さないためにも。
彼に言われた通り、惑わされず自分の意思を貫く決意をして・・
昴は拳を強く握ると、彩葉の澄んだ瞳を見つめながら言った。
「あの、俺絶対にあなたの前でラットを起こさないって誓います。抑制剤も必ず毎日飲みます。だから・・・その、これから・・よろしくお願いします」
そんな昴の決意表明に彩葉はクシャッと顔を綻ばせる。
「うん。こちらこそよろしくお願いします」
「・・はい」
「あっ、それから」
彩葉は何かを思い出したかのように人差し指をピンと立たせる。
「『あなた』なんて他人行儀な呼び方はやめてもらえると嬉しいな。みんなみたいに彩葉って名前で呼んで下さい」
「彩葉、さん・・」
「うん。よろしくお願いします、矢野君」
二人は名前を呼び合うと、同じタイミングでクスリと笑った。
何故だろう。
さっきまではこの人の存在を怖く感じていたのに。
今はもう、昔から知っているような居心地の良さを感じる。
この人にならなんでも曝け出せそうな、そんな安心感があるのだ。
そして自分もまた、彼のことならどんなことでも受け止められる。そんな気がする。
『運命の番』が、もしそういった魂で繋がれた信頼感だというのなら。
『番』にならずとも、良い関係を築けていけるのなら。
それが一番、理想の形かもしれない。
ポケットの中でスマホが小さく揺れた。
おそらく明からだ。
早く内容を確認して返事を返さなくては。
お昼に変な空気で電話を終わらせてしまったことを謝りたい。
それから週末の予定も聞かなくては。
話したいことはたくさんある。
けれど・・
『運命の番』と出会ってしまったことだけは、明には絶対に言えない。
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