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第7話
少し灰色がかった粒の薬をゴクリと飲み込む。
病院で処方してもらった強めの抑制剤だ。
この薬を飲むと頭が少しぼんやりしてしまう。
だから大学に行かない日は薬を飲まないようにしているのだが、昨日の失態を考え今日は一応飲むことにした。
『そのうちに慣れてきますよ』とお医者さんは言っていたけれど、それはいつ頃だろう。
この薬を飲み始めてもうすぐ二週間になる。
最初は市販の抑制剤を飲んでゼミに行ったのだが、完全なラットにはならないものの身体が落ち着かないことに気がついた。
少しでも、ラットの片鱗を見せてはいけない。
彩葉を不安にさせることになるし、何より明以外に興奮してしまう自分が嫌だったからだ。
昴は病院に行き、抑制剤の中で一番強いものをお願いした。
そうして医者が出してきたのが先ほど飲んだ薬だ。人一倍性欲が強くラットで暴走しがちな者のための薬らしい。
それを聞き、まるで自分は理性の効かない獣のようだと思った。
αという性が憎くなる。誠実な人間でいたいのに・・
しかしその薬を飲むようになったおかげで、彩葉とは支障なく会話ができるようになった。
お互い顔を合わせても、平静な状態で話せる。彩葉も強めの抑制剤を飲んでいるらしい。
自分がゼミに入ったことで、身体に余計な負担をかけてしまっていることを申し訳なく思う。
そのことを言うと「それはお互い様だから気にしたらダメだよ」と笑顔で言われた。
彩葉はいつも穏やかな笑みを湛えてる。
誰もが多少は持ち合わせている醜い感情も、彼の中には存在しないのではないかと思える。
αの多いこの大学でΩである彼がうまく馴染めているのは、真面目で優秀だがどこか隙があるからだと最近気がついた。
あまり人と話すのが得意ではない昴も、彼とはあまり構えずに話せる。
同じゼミの先輩として頼りになる存在だ。
このまま上手く付き合えていけたら。
ただの先輩後輩として、同じ志を持つ仲間として・・
そう、思っていたのに・・
昴は棚に置かれたデジタル時計に目を向けた。
もうすぐ十七時。
今日は明のバイトが十八時までだから、そろそろ家を出ればちょうどいい。
昴は昨日のことを思い出しながら準備を始めた。
まさか・・大学の外であの人と会ってしまうとは・・
完全に油断していた。
明のバイト先の駅ビルには何度か行ったが、あの書店に立ち寄るのは初めてだった。
東京に出てきてから本はいつも大学の図書館で借りていたからだ。
さすが都会の本屋さんだと、昴はその広さに感激して店内を見て回っていた。
それが突然、ガクンと足の力が抜けるのを感じた。
ふと前を見ると、彩葉がエプロン姿で立っていた。
心臓がドクンと脈打つ。
頭の中で警戒音が響いた。
「あ・・・」
昴が声を出した瞬間、目の前の彩葉が膝をついて倒れた。
近くに立っていた女性が驚いて声を上げる。
助けなくちゃ・・
そう思ったが、彼を助ける一番の方法は自分がここを立ち去ることなのだ。
昴は匂いを嗅がないように鼻を抑えるとすぐに踵を返した。
そして人気のない方へと走り出す。
彩葉のことは心配だが、近くにいた女性はおそらくβだ。あの人がなんとか助けてくれることを昴は祈った。
下半身が疼いて痛い。
昴は階段の近くにトイレがあることに気がつき急いで駆け込んだ。
早く、早くこれを落ち着かせなくては・・
明が来てしまう。
昴は汗ばんだ手でスマホを操作すると、明にメッセージを送った。
『明、ごめん。体調が悪くて遅れます。明の家で待っててもらってもいい?』
『家で』とお願いしたのは明を書店に近づけないようにするためだ。
明とあの状態の彩葉が鉢合わせしてしまうことは避けたい。
昴はスマホをしまうと混乱と興奮の入り混じった頭で、自らの屹立に手をかけた。
それは少しいじっただけですぐに絶頂に達したが、一回では治らない。
思わず悔しくて唇を強く噛み締めた。
獣のように盛るこの身体が憎い。
しかしここで絶望している時間はない。
昴は大きく深呼吸をすると、この欲情をおさめることだけに専念した。
何分ほどトイレに篭っていただろうか。
昴は落ち着きを取り戻すと、鞄に入れていた抑制剤を飲み込んだ。
それからそっと外に出る。
遠目に書店の方に目をやったが彩葉の姿は見えなかった。
控室で休んでいるのだろうか。
特に騒ぎにもなっていないようだ。
昴は安心し小さくため息を吐く。
しかしすぐに何かを思い出すと慌ててポケットに入れていたスマホを取り出した。
明から返事がきているはずだ。
画面を点けると、一件のメッセージを受信していた。
『体調悪いなら無理しなくていいよ。俺もちょっと疲れたから今日はやめておこう』
その文面を読んでズクンとみぞおち辺りが痛くなる。
今日は会えない・・
こんな情けない状態であったとしても、明の顔を見たかった。
会って、やはり自分には明だけだと確信したかった。
けれど、疲れているというのなら無理は言えない。
明に嫌われたくない。煩わせたくない。
昴は素早く指を動かし返事を打つ。
『本当にごめん。明もお疲れ様。ゆっくり休んでね。明日、もしバイト後会えるなら明の家に行ってもいい?』
このまま、次いつ会えるのかわからないのは嫌だ。
昴は祈る思いでメッセージを送った。
結局返事がきたのは夜遅くだった。
いつもはすぐにくるのに・・明も疲れが溜まっているのだろうか。
返事はOKだった。明日、明と会えることになった。
昴はホッと一息つくとベッドに横になる。
すると彩葉からもメッセージがきた。
彩葉には駅ビルを出てすぐにメッセージを送っていた。
今日のことについての謝罪とその後大丈夫だったかについて聞いておきたかったからだ。
『こちらこそごめんなさい。お互い油断してたね。僕は大丈夫です。優しいお客さんがいてすぐに助けてくれたから。だから気にしないでね』
その返事を見て罪悪感でいっぱいだった心が少し軽くなる。
あの後、誰かが彩葉を助けてくれたようだ。
親切な人が近くにいてくれて良かった。
しかし・・
もう明のバイト先へ行くのはやめた方が良さそうだ。
カフェと本屋は別のフロアだが、同じ建物である以上彩葉と会う確率は高くなる。
もし、明に彩葉のことを・・『運命の番』と出会ってしまったことを知られたら・・
明は『運命の番』に肯定的だ。
それに元々はαとΩが一緒になる方が良いと思っている。
仲の良い両親やΩとして苦しんできた幸の姿を見ているからだ。
そんな明が、もし『運命の番』と出会ったことを知ってしまったら。
明の自分への気持ちに陰りができるのは間違いない。
せっかく手に入れたのに・・明の迷いを断ち切らせて。
恋人になれたのに・・
だから、絶対に知られてはいけない。
明との関係を守っていくために。
——
「昴!お待たせ!」
改札から出てきた明が笑顔で駆け寄ってきた。
「お疲れ様、明」
昴は目元を緩めて微笑む。
それから二人横に並ぶとゆっくりと歩き始めた。
「昨日は本当にごめんね」
昴が謝ると明は笑って首を振る。
「ううん。俺の方こそごめん。最近寝るの遅かったから疲れゃってさ。でも昨日は早く寝たからもう元気だよ」
そう言って明は力瘤を作るポーズを取った。
「今日も会える時間短くてごめんな」
「俺は、少しでも明に会えたら嬉しいから。気にしないで」
「・・うん、ありがとう」
明は節目がちにお礼を言うと「あっ!」と声を上げた。
「そうそう!あそこに美味しそうな店見つけてさぁ。夕飯あそこどうかな?」
そう言って明が指差した先はタイ料理の店だった。
アジアンテイストな外装が目を引く。
「・・明、タイ料理好きだったっけ?」
「うーん。特別好きって思ったことはないんだけど、店の前通った時メニュー見てたら美味しそうに見えてさぁ。食べてみたいなぁって」
「そうなんだ・・」
「あ、でももし昴苦手だったら大丈夫!あっちにラーメン屋もあってさ」
「ううん。平気だよ。あそこのお店入ろう」
「・・本当に?大丈夫?」
明がジッと疑うような視線を向けてくる。
「うん。俺もあんまり食べたことないから。行こう!」
昴は笑って言うと、店の方へ歩き始めた。
正直なことを言えば、タイ料理は苦手だ。
昔、父親と一度だけタイ料理のお店へ入ったことがある。
両親が離婚してまもない頃だ。
独特の調味料や香草の匂いは当時まだ子供だった自分には合わなかったが、美味しいふりをして無理矢理食べた。
父親に、嫌われたくなかったから。
昔から・・人の顔色を窺ってきた。
けれどそれは自分の居場所を守るためだ。
自分の希望なんて二の次だった。
「昴?」
明が不安そうな視線を向けてきた。
「やっぱりやだったか?」
「ううん、まさか。何食べようかなって考えてた」
昴はいつも通りの笑顔を見せる。
「よかった!早く行こう!」
明も安心したように笑った。
この笑顔を見ていられるなら・・
自分の意思を殺すことだって厭わない。
「おぉ〜、辛そう〜」
明は目の前に運ばれてきたトムヤムクンを見て言った。
赤いスープの中に大きな海老が入っている。
「冷めちゃうから先食べてなよ」
昴が言うと、明は「うん」と言って一口啜った。
「うは。やっぱ辛〜!でも美味い!」
「うん、良かった」
美味しそうに食べ進める明を昴は見つめる。
明が楽しそうにしているのならそれでいい。
昴はガパオライスを注文した。
なんとなく癖がなさそうに見えたからだ。
ゆっくりとスプーンを口に運び食べてみる。
バジルの香りが少し気になるが、食べれないことはない。
「昴、美味しい?」
「うん。美味しいよ。・・明食べてみなよ、はい」
そう言って明の方へ皿を向けた。
「えっ!いいよ!昴が頼んだんだから」
「明、これも美味しそうっ言ってたじゃない。俺は昼いっぱい食べたからお腹もそんなに減ってないし、食べてくれるとありがたいな」
「・・・ぇえ。じゃあそう言うことなら・・」
明は申し訳なさそうにしながらも、一口頬張った。
「うん!美味い!」
「ふふ、いっぱい食べて良いよ」
良かった。明がおいしく食べてくれそうだ。
これでタイ料理が苦手なことは誤魔化せる。
明に気を遣わせないで済んだ。
明が楽しくいられるように、なるべく明の望みを叶えられる自分でいたい。
「・・・ねぇ、昴」
明はお皿のガパオライスを見つめながら言った。
「うん?」
「ゼミ、いそがしい?」
「え・・・」
『ゼミ』の言葉に思わずドキリとする。
しかし戸惑いを見せぬように、俯きながら笑って答えた。
「うん、そうだね。最近は毎日放課後ゼミ室に顔出してるよ」
「・・毎日」
「教授がね、本当に熱心な人で。その人の熱量について行くために自分も日々勉強しなきゃいけなくて。行けば誰かしらいるから先輩達に色々教わってるんだ」
「そう・・なんだ」
明は目を泳がせるようにして頷く。
「ゼミ、入れて本当に良かったな。海のこと、知ることができて楽しい?」
「・・うん、楽しいよ」
そう、楽しいのは事実だ。
本やネットだけでは限界のあった、その先の知識を身につけることができる。
ゼミの雰囲気も教授の人柄あってか、温かくて居心地が良い。
期待していた以上に素晴らしいゼミだった。
そう思うと、あの時彩葉が拒否することなく共に過ごせる提案をしてくれたことは本当にありがたい。
「ゼミのどんなところが楽しいの?」
明がスズっとスープを啜りながら聞いた。
「・・そうだな、一つ一つの問題をどう解決していくか、それをみんなで議論して考えるのが楽しいかな。同じ問題に向き合ってる人達と話せる機会って貴重だから」
昴は当たり障りない答えを微笑みながら言った。
「ふーん。そっか・・」
明は節目がちに相槌を打つ。
その反応に昴はモヤが広がるような不安を感じた。
昔の、明との距離が開いていた頃の雰囲気に似ていたからだ。
もしかして、何か悟られただろうか・・
「明・・」
そう言って昴が声をかけようとしたのと同時に
、明がゴクンと口の中のものを飲み込みパッと顔を上げて言った。
「あのさ、今度土日のどこかで休みとるからさ、一日デートしよう」
「え・・」
「ほら、こっち来てからまだガッツリ出掛けるってしてないじゃん。だからさ、どっか行こうよ。少し遠出してさ」
先ほどの不穏な空気とは裏腹に明が明るい声で言う。
昴はその様子に安心するとコクンと頷いた。
「・・うん。いいね、行きたいな」
「よかった!じゃあ休めそうな日わかったら連絡するな」
明は笑ってそう言うと再び食べ始めた。
良かった。
ゼミのことはあまり深く聞かれずに済んだ。
そう安心しつつも心の中がチクリと痛む。
今日、何回『良かった』と思っただろう。
明に言えないこと、知られたくないことが増えていく。
ただ、ずっと一緒にいたいだけなのに。
自分は何かを間違えているのだろうか。
そう思うのに、それ以上思案ができない。
薬のせいだろうか・・
昴はそんなことを考えながら、明が美味しそうに食べる姿をただ見つめた。
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