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第9話
「あれ、4限休講だって」
ニ限の授業中、木岐がこっそりスマホを見ながら呟いた。
「え、マジ?」
明は嬉しそうな声を上げる。
三限は授業をとっていない。四限が休講ならば今日は今受けている授業で終わりだ。
バイトまでは時間がある。久々に買い物にでも行こうか。
そんな事を心弾ませながら考えていたが、ふと一つの案が浮かんだ。
あまり楽しいことではない。どちらかといえば、不安な気持ちが大きい。
けれどこんな機会でもなければ見に行けないかもしれない。
明は目の前の黒板をじっと見つめながら決意を固めた。
昴の大学は、明が想像していたよりもずっと都会の真ん中にあった。
自分の通っている大学とは雰囲気が違う。
一歩キャンパス内に入ると綺麗な並木道の脇にはいくつもベンチが並び、そこで学生達がゆっくり寛いだり談笑したりしていた。
ーー大学での昴の様子が見たい。
そう思い立ってやって来たものの、どこに行けば昴がいるのか全く分からない。
時間的には三限が終わる頃だ。
今日は何限目まで授業なのだろう。
明はとりあえず近くに案内図がないか辺りを見渡した。
並木道には途中にいくつも分かれ道が出来ていて、様々な建物へ繋がっている。
その中でも薄茶色の壁に三角の屋根が特徴的な年季の入った建物が目に入った。
他の物とは少し雰囲気が違う。
なんの建物だろうかと目を凝らしてみると『図書館』の文字が見えた。
—そう言えば、大学の図書館をよく利用するって昴言ってたな・・
そんなことを考えた時だった。
沢山の本を積み上げた人影が、こちらの方へと歩いてくるのが見えた。
小柄な体で重たい本を支えながらやってくる。
重ねられた本の隙間からチラリと見えた顔に明の心臓が強く跳ねた。
私服姿で見るのは初めてだがお店で会う時と印象は変わらない。
線の細い髪を揺らしながら彩葉が本を持ってこちらに向かってくるところだった。
明は咄嗟に木の影に隠れる。
ここで彩葉に会ってしまったら、なんと説明すればいいのかわからない。
本を持っているということは図書館に行くつもりなのだろうか。
明の隠れた木の前を通過して右に曲がればすぐだ。
下手に動くよりここで彩葉が通り過ぎるのを待っていた方がいいかもしれない。
明は影から少し顔を出し様子を伺った。
すると彩葉の後ろを背の高い男性が小走りで近づいて来るのが見えた。
「彩葉さん!」
その声を聞き明は再び顔を引っ込める。
「彩葉さん、一人でこんなに持って行ったら危ないですよ」
少し語気を荒げたような昴の声が聞こえた。
あまり聞き馴染みのない口調に、明は思わず顔を覗かせる。
二人はちょうど明が隠れた木の前で向き合っていた。
昴は呆れたような顔で彩葉に手を差し出す。
「かしてください。俺が持って行きますから」
「えぇ。大丈夫だよ!図書館もうすぐそこだし」
彩葉が眉尻を下げながら笑って言った。
「バイトじゃもっと重たい本運んでるんだから。僕のこと見くびらないでほしいな」
「仕事とこれは違いますよ。俺が借りた本もあるんだから俺に持たせてください」
「だから大丈夫だって・・」
彩葉がそう言いながら踵を返そうとした時だった。
重ねられた本が一冊落ちそうになり彩葉は咄嗟に片手を伸ばした。
「あっ!」
そのアンバランスさに耐えられなくなり、彩葉の体が斜めに倒れそうになる。
「彩葉さん!」
その体を昴が片方の腕で抱き抱えるように支えた。
それからバランスを崩した本の山を空いている方の手でさっと直す。
「あ・・ありがと」
昴に肩を抱かれ彩葉が気まずそうな顔でお礼を言った。
「あ、いや・・こちらこそ」
昴も慌てて手を離すと、一歩後ろに下がる。
それから小さく息を吐いて彩葉に目を向けた。
「ほら、やっぱり危ないじゃないですか。俺の言うこと聞いてください」
「うーん・・腕力には自信あるんだけどなぁ。というか矢野君お母さんみたいだね」
彩葉はクスリと笑う。
「心配症のお母さんって感じ」
「え、なんですかそれ」
昴はムッとした顔をしながら、半ば強引に彩葉の持っていた本を上から半分ほど取り上げた。
「あ、もう・・」
彩葉は下唇を突き出し頬を膨らませる。
「彩葉さんが教授の役に立ちたいのは分かりますけど、それと無茶をするのは別です。俺は手空いてたんだから声かけてください」
「・・わかったよ、ありがとう」
「・・わかってくれたなら、よかったです」
昴は小さく息を吐くと歩き始めようとした。
しかしその前に彩葉がクスリと笑った。
「ふふ。矢野君、最近遠慮がなくなってきて良い感じだね」
「え?」
「最初は緊張してるのが目に見えてわかったから。もちろん僕がいるからっていうのもあるだろうけど」
「・・それは・・」
「でも今はそういう壁みたいな物もなくなってきたし一安心。やっぱりうちのゼミは楽しく仲良く真面目にがモットーだからね」
「・・はい、そうですね」
「それに矢野君が真面目さゆえの口うるさいキャラってこともわかってきたし」
「それは!彩葉さんが自分の限界値を考えずに無茶するからです。前もたくさん本を持ち過ぎて転びそうになってたじゃないですか。普段本を運び慣れているからって、あまり過信しないほうがいいですよ」
「結構言うねぇ、矢野君」
「遠慮がなくなって良かったって言ったの彩葉さんです」
「ふふ、確かにそうだね。良い感じ良い感じ。じゃとりあえず本持って行っちゃお」
「・・はい」
昴が返事をすると、二人は横に並んで歩き始めた。
明は二人が前を通過するまで両手で口元を隠し息を殺すようにして隠れる。
それから二人の背中が図書館の建物の中に入って行くのを確認するとゆっくりと木の影から出てきた。
「・・・なんか、違ったな」
ボソッと呟いて、来た道を早足で戻って行く。
それから早足は小走りになり、最後には何かを振り払うように全速力で駅まで駆け抜けてきてしまった。
荒い息を落ち着かせるために、深呼吸をしながら駅のホームに立つ。
走って熱った体の首筋にふと冷たさを感じて手をやった。
チャリと小さな音が鳴る。
細いシルバーのリングが太陽光を受けて鈍く光っていた。
もう体の一部みたいになっていたそれを、改めてじっと見つめる。
ずっとつけていたから、その存在が当たり前のようになっていた。
けれど・・その当たり前は、永遠に続くものではないということをわかっていなかった。
なにか、一つの変化でもあれば簡単に崩れてしまうこともあるのだと・・
学生と思われる人達がポツポツとホームに並び始めた。
おそらく昴と同じ大学の学生だろう。
ここが、今彼がいる世界。
確かに・・俺と昴の世界は別々になってしまったのかもしれない。
だって、あんな昴は初めて見たから・・
あんなに砕けた雰囲気で人と会話する姿を、今まで見た事がない。
俺といる時や、幸といる時とも全然違う。
地元にいた頃の昴とは別人のようだ。
遠慮がちで、自分の意見より人の意見を尊重して、一歩後ろに下がって穏やかに微笑んでいる。それが昴だった。
そう、思っていた。
けれど・・
「本当の昴は、さっきみたいな姿なのかな・・」
明はじわじわと墨のように心の中が薄黒く染まっていくのを感じた。
この感情が何かはわかる。
嫉妬だ。
昴が遠慮することなく自然体でいられる環境に、そしてその存在に・・嫉妬しているのだ。
本来ならば・・
恋人の自分がそういう存在であるべきなのに・・
電車がホームに近づいてくる気配がした。
明はパッと顔を上げる。
そして力強く首から下げたリングを握った。
ダメだ・・弱気になるな。
これからは、自分がそういう存在を目指せばいい。
大丈夫。
昴の恋人は俺なのだから。
ーー
「昨日は歓迎会何時までだったの?」
明が聞くと、昴はカレーを食べかけていた手を止めた。
今日は土曜日。『バイトで疲れてるでしょ』と昴が明の家で夕ご飯にカレーを作ってくれたのだ。外食よりお金もかからなくてありがたい。
「終わったのは22時前くらいかな。俺だけまだお酒飲めなかったんだけど、先輩達はみんな結構飲んでてすごかったよ。飲み会ってあんな感じなんだなって驚いた」
そう言って困ったような顔で昴は笑ったが、嫌悪感は全く感じない。
人が大勢集まって盛り上がるような場をあまり得意としない彼だが、楽しい飲み会だったようだ。
そんなちょっとした変化に胸がちくりと痛む。
しかしこんなことで弱気になってる場合ではない。
自分が昴のために出来ることを今はするだけだ。
「昴、行きたいところある?」
明は少し前のめりになって昴に聞いた。
「行きたいところ?どうして?」
それだけ聞くと昴は再びパクリとスプーンを口に運ぶ。
「再来週の日曜日休みにできたからさ、昴の行きたい所に行こうよ」
「え、本当?」
昴が嬉しそうに目を細めた。
明もその反応に胸が弾む。
「うん!どこがいい?少し遠出してもいいし」
「うーん、そうだなぁ・・」
「どこでもいいよ!昴が行きたいところ!」
少ししつこいかなと思いつつ、強調して言ってみる。
すると昴は何かを思いついたのか、パッとこちらに目をやった。
「なに?どこかあった?」
「・・少し遠いんだけど、今度地域ごとの生態系をテーマにした展示をする水族館があって」
「へぇ!いいじゃん!そういえば昴と二人で水族館って行った事ないよな?!」
「うん、遠足でしか行ってないよね」
「あー!確かに行った!懐かしい!」
小学生の時バスに乗って水族館に行った事を思い出す。
あの時もクラスは違ったから一緒に見て回った記憶はない。
「じゃぁそこにしようか?!」
明が言うと、昴は視線を下にして黙り込んだ。
それからパッと顔を上げると口元に笑みを浮かべ首を横に振った。
「・・・やっぱり、水族館じゃなくていいよ」
「え、なんで?」
「明、水族館あんまり好きじゃないでしょ?俺は明が楽しめる所に一緒に行きたいから」
「え・・・」
「ほら、水族館は暗くて眠くなるから退屈だって言ってたじゃん。遠足終わりに幸と3人で帰った時」
「・・・」
そういえば、そんなことを言ったかもしれない。
実際、昴に言われるまで遠足で水族館に行ったことはすっかり忘れていた。それほど印象に残っていなかったということだ。
海の生物にはあまり興味がなかったし、暗い照明の中、魚が淡々と展示されてる様は当時の明には面白みに欠けていた。
さっさと見終わってしまって、時間を持て余したのを覚えている。
けれど・・
「そ、それは昔の話じゃん!今は違うかもしれないから大丈夫だって!」
明は明るく笑って言った。
「いや、いいんだよ。もしかしたらゼミで行くかもしれないし」
「え・・」
「夏休み中に行ってもいいねってゼミの先輩達が言ってたんだ。だから再来週は明の行きたいところに行こう。明、東京来たら行ってみたい所たくさんあるって言ってたでしょ?リスト作って二人で回って行こうよ」
「・・・」
「明?」
無言のまま少し視線を下げた明を昴が心配そうに見つめた。
「どうしたの?」
「・・・ううん」
明は小さく首を横に振る。
「なんでもない。そうだな。行きたいところ考えとく!」
そう言うとニコリと笑ってカレーを食べ始めた。
昴は、気を遣ってくれているのだ。
退屈になってしまうかもしれない所より、楽しめる所に行った方がいいと。
それは彼の優しさだ。
けれど・・
興味のあるものは、同じくらい興味を持っている人と見た方が楽しいのも事実。
ゼミで行くのならそっちの方が昴のためにもなるだろう。
そう思ったら、あれ以上『俺と行こう』とは言えなかった。
俺ではきっと、彼の好きなものを心から共有は出来ないから・・
ーー
「あ!こんにちわ」
書店のフロアに一歩足を踏み入れると、まるで彩葉が待ち構えていたかのように笑顔でやってきた。
「・・こんにちわ」
明は小さくお辞儀をする。
「よかった!明君が来てくれるのを待ってたんです。お礼をちゃんとしたかったから」
「え・・」
思わず口元がひくつく。
「あの日、僕ヒートになった恥ずかしさもあって・・明君にちゃんとしたお礼もしないまま仕事に戻っちゃったでしょ?後で冷静になったらすごい失礼だったなと思って」
彩葉はそう言うと、本当に心から申し訳なさそうな顔をして小さく頭を下げた。
「あの時は本当に助かりました。ありがとうございます」
「・・あ、いや・・そんな、全然・・」
明は両手を振りながら困ったように後ずさった。
彩葉が・・どんな人なのか、改めて知りたくて今日はきたのだ。
昴の『運命の人』
そう思えば、二人の雰囲気が似ているのも納得がいく。
魂で惹かれ合う二人なのだから。
「・・あの・・お聞きしたいことが、あって・・」
明は言いずらそうに言葉を選びながら口を開いた。
「はい?」
彩葉が顔を上げてこちらに目を向けた。
「・・あ、彩葉さんは・・その・・今は恋人とかはいらっしゃるんですか?」
「え・・」
驚いたように彩葉が目を丸めた。
その反応に明は慌てて「あ、すみません」と頭を下げる。
いきなり不躾な質問をしてしまった。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「いる」と答えてもらえれば・・少し安心できるから・・
彩葉はクスリと笑うと頭を小さく横に振った。
「ううん、いないよ。僕、あんまり恋愛経験がないんだ」
「・・・」
明は下を向いたまま目を見開く。みぞおちの辺りが押されたように痛い。
「恋人もいたことがないんだ。ありがたいことに好きだって言ってくれる人はいたけど、Ωだとわかってからは警戒心と理想が強くなっちゃって・・自分から好きだと思える人と恋人になりたいって思ってるんだ」
「・・・そう、なんですか」
明は少しだけ顔を上げて応える。
「・・でも、それじゃぁ発情期の期間は辛かったりしないんですか・・?」
昔、双子の兄の幸は発情期を一人で耐えることが辛く、そのために恋人を作り身体を重ねることをしていた。
Ωの発情期とはそれほどに苦しいものなのだと思っている。
しかし彩葉は明の質問に対して大きく首を横に振った。
「大丈夫だよ。僕は周期も安定してるから事前に抑制剤を飲んでいればヒートはほとんどおこらないんだ。もしなっても弱いタイプだしね」
「・・そうなんですね」
しかし、それならば・・
「・・じゃぁ・・この間ヒートを起こした時辛そうだったのは、やっぱりそれだけ『運命の番』の力が強いってこと、なんだ・・」
心で思ったことが口から思わず出てしまう。
「え・・」
彩葉はポカンとした顔で明を見つめた。
「あ、いや・・あの・・そんな相手が近くにいるのは、大変じゃないかなって・・ゼミの後輩なんですよね・・」
明は慌てて誤魔化すように言ったが、自ら昴の話題を振ってしまったことに気づき顔を顰めた。
しかし彩葉はその表情を心配してくれたと受け取ったのか、安心させるようにニコリと笑った。
「ふふ、大丈夫だよ。その子、αなのにαらしくないんだよね。Ωのこともよくわかってくれているし、優しい子だから僕は安心してる」
「・・で、でも・・もし、万が一この間みたいにヒートが起こってしまったら・・ラットを起こしたαは理性がきかないって聞くし・・」
自分の恋人が褒められているというのに、彼を悪人にでもするような否定的なことを言ってしまった。
昴の良さを・・彩葉に理解されているということに不安を感じたからだ。
「うーん。そうだな・・」
彩葉は明の言葉に考えるように首を捻る。
それから何かを思い出したかのように目を見開くと穏やかな顔で言った。
「きっと大丈夫だと思う。その子がね、この間言ってたんだ。『温かい家庭に憧れがある』って。自分の家はそうじゃなかったから、将来はそんな家庭を作りたいんだって。そういう理想を持ってる子なら、万が一のことがあっても自分の本能をちゃんと抑えられるんじゃないかな」
「・・・」
「明君?」
その場で黙ったまま立ち尽くしている明を彩葉が覗き込こむようにして声をかけた。
明はハッとして顔を上げる。
「あ・・・は、そう、ですね・・」
なんとか言葉を繋げようとするがうまく出てこない。
衝撃で頭の中がグラグラと揺れている。
明は両手を力強く握りしめると、彩葉の顔は見ずに言った。
「あ、あの。俺、この後バイトがあるので。すみません」
「え・・あ、うん」
彩葉が不思議そうに返事をするのを聞くと、踵を返して早足でエスカレーターへと乗り込んだ。
最後まで彩葉の方には目を向けられなかった。
多分きっと・・今自分は酷い顔をしているから。
それからカフェの入っているフロアに着くと、やっと大きく息を吸いこんだ。
さっきまで上手く呼吸も出来ていなかったようだ。
彩葉から聞かされた言葉を聞いて、とても冷静ではいられなくなった。
昴は・・温かい家庭を望んでいる?
そんなこと初めて聞いた。
確かに、昴の家は『温かい家庭』とはかけ離れていただろう。
小さい頃から両親の喧嘩する声を聞いて育ったからだ。
昔、昴が明の家で『この家の子どもになりたかった』と言って泣いていたのを思い出す。
うちの家族・・
ずっと恋人のように仲の良い両親と、その両親に愛されて育った子ども達。あの家にはいつも平穏な空気が流れていた。
昴の理想はああいう家庭ということだろうか・・
もしそうなら・・・
自分は昴のその理想を叶えてあげることはできないかもしれない。
βの自分では・・・
彼の望むものを、与えてあげることは出来ない・・
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