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第12話
前の画面にじっと目を向ける。
指を動かす度に一つずつ文字が増えていく。
その量が増えていけば、心に空いた隙間も埋まっていくだろうか。
「えっ・・矢野君、今日もいるの?」
ゼミ室の扉を開けた彩葉が驚いた顔で立ち止まった。
「あ・・すみません」
昴は申し訳なさそうに頭を下げる。
「ううん。僕は全然構わないんだけど。でも矢野君、テスト終わってから毎日来てない?」
彩葉は部屋の中に入ると、昴の前に腰を下ろしながら言った。
「・・はい。まとめたいことが沢山あって。でも・・」
そこまで言って昴はチラリと彩葉に目を向ける。
「うん?」
「あ、あの・・夏休み中、俺がゼミ室くる日は事前にお伝えしたほうがいいですよね?そうすれば彩葉さんも薬を飲む機会が減らせるし」
「・・あぁ。そのこと気にしてくれてるの?ありがとう」
彩葉はニコリと微笑んだ。
「それなら僕もそうしたほうがいいよね。今日も連絡なしで来ちゃったし。でも、最近はもう大学行く日は薬を飲むのが癖になってるからそんなに気にしなくても大丈夫だよ」
「けど・・やっぱり薬を飲むと多少頭がぼんやりしませんか?レポート書く時支障が出ちゃったら・・」
「それが最近は結構平気なんだ。慣れって怖いよねぇ。矢野君もそうじゃない?」
ケロッとした顔で彩葉が首を傾げる。
「・・はい。確かに俺も最近はぼんやりすることは減ったかも」
「でしょ?まぁ薬に慣れるっていうのはあんまり良くないんだろうけど。あ、はいこれ。一つどうぞ」
彩葉はグミの袋を開けると、昴の前に差し出した。
「ありがとう、ございます」
昴は遠慮がちに右手で袋からグミを一つ摘む。
「矢野君、何時からいるの?教授はどこにいったのかな?」
「俺は8時半から来てます。教授は昼食食べに出かけました。昼だと混むからって、11時ちょっと前くらいに」
「じゃあちょうど入れ違いくらいか。というか矢野君朝から来てるの?夏休みくらいもう少しゆっくり起きたらいいのに」
彩葉はモグモグとグミを噛みながら目の前のパソコンを広げた。
彼もここで今から作業を始めるようだ。
夏休みに入ってから三日が経ったが、連日来ているのは昴と彩葉だけだ。
昴は夕方までいるが、彩葉はアルバイトがあるため二時くらいにここを出て行く。
「家にいてもやることないので。それより早くちゃんと頭の中にあることを形にしたくて」
「あー、それはわかるなぁ。アウトプットして目で見てわかるように整理しておきたいよね」
「はい」
そう返事をすると昴は再びパソコンに目を向けた。
「みんな、就活やアルバイトで結構忙しそうだよね。今日はこの後何人くるかなぁ」
正面の彩葉も画面に目を向けたまま呟く。
最近ゼミではそれぞれが調べたことをまとめる作業をしている。それを最終的に教授が確認し、夏休み後半に行われる合宿で発表しあうのだ。
「教授にチェックしてもらう時間を考えたら、レポートのリミットはあと2週間てところですよね」
昴はカチャカチャと文字を打ちながら言った。
「そうだね。まぁみんな優秀な人達だし大丈夫だろうけど」
「はい・・」
そう昴が答えてからしばしの沈黙が続いた。
二人とも集中して作業をしているので、その沈黙は気にはならない。
むしろ、同じテンポで鳴り響くキーボード音に居心地の良さすら感じる。
これが他に一人でも増えると、空気はガラッと変わるから不思議だ。
「・・・あの」
その沈黙を破るように彩葉が声を発した。
「はい?」
昴は画面を見つめたまま返事をする。
「・・ごめん。言いづらいかもしれないけど・・恋人とは、うまくいってるの?大丈夫そう?」
「・・・え」
キーボードを打っていた手がピタリと止める。それからゆっくりと視線を前に向けた。
「・・なんでですか?」
動揺を悟られないように昴は彩葉の瞳をまっすぐ見据えた。
逆に彩葉はその視線を避けるように、昴の手元に目をやる。
「うん。ほら、夏休みなのに朝から一日中ここにいるし・・それに、指・・」
「え・・」
「さっきお菓子あげた時に気がついたんだけど、指輪、してないなって・・」
「・・・」
そう言われ、昴は無言で右手の薬指を撫でた。
そこにはもう細身のシルバーのリングはついていない。
あの日、明に別れを告げられた日に家に帰ってからすぐに外した。
捨てる気にはならなかったが、彼を繋ぎ止めることの出来なかったあのリングがひどく陳腐で無価値なものに思えてしまい、今は目のつかない場所に置いてある。
「あ、ごめんね。すごく頓珍漢なこと聞いちゃったかな」
昴が黙っているので、彩葉は空気を変えるように明るく言った。
「恋人だからって毎日会うわけでもないか!ほら、僕恋愛経験が疎いから分からなくて。余計なこと言ったね。ごめ—」
「別れました」
彩葉の謝罪の言葉に被せるように昴がポツリと呟いた。
「え・・」
「・・・なので時間はたっぷりあるんです。俺はまだバイトもしてないし、夏は帰省する気もないので、勉強に力を入れようかと」
昴はなるべく抑圧のない話し方で言った。
「あ、そうだったんだね」
綺麗な瞳をパチクリとさせながら、彩葉はカチャッと眼鏡を直す。
少し動揺しているのだろうか。
「あの・・ごめんね。あまり話したくなかったよね」
「・・いえ。秘密にすることでもないので。気にしないでください」
昴はそう言うと目元を緩めて笑った。
決して・・この人のせいで別れたわけではない。
自分のせいだ・・自分の気持ちを、明にちゃんと伝えられなかったからだ。
この人は関係ない。
明はああ言っていたけれど、自分には今も明しかいない。考えられない。
だから『友達』としてだなんて、まだ思えるわけもなく連絡は出来ていない。
それでももし、明から連絡がきたのなら『友達』のふりはするだろう。
昔の片思いの頃のように。
そう、片思いに戻っただけなのだ。
『運命の番』と出会ったとしてもそれは変わることはない。
そう思わなければ、今ここにいる自分の選択を恨みたくなってしまう。
「・・そういえば、矢野君は教授の監修した水族館には行った?」
彩葉が話題を変えるように言った。
「え・・いや、まだ行けてないんです。夏休みの間には行こうと思ってるんですけど」
「あっ、本当?実は僕もまだ行けてないんだ。良かったら一緒に行かない?」
「え・・」
「1人で行くより他の人の話しや考えを聞きながら見たいなって思ってたんだよね。他のみんなは忙しそうでなかなか予定合わなそうだし。どうかな?」
彩葉は和かな笑顔をこちらに向ける。
昴は戸惑いの表情を浮かべながら首筋を掻いた。
「・・けど、その水族館ちょっと遠いですよね?行くなら1日がかりになるだろうし・・彩葉さん、俺と一緒で大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ!何心配してるの?矢野君だって大丈夫でしょ?」
そう言った彩葉の目は笑っているが強い意志を感じる。
お互い『運命の番』という言葉はずっと避けている。ただの『ゼミの先輩と後輩』であろうとするためだ。
『その決意を下手な気遣いで曲げてはいけないよ』と言われたような気がした。
「はい・・大丈夫です」
昴は彩葉の瞳を見つめて頷く。
すると彩葉は少し安心したように、首を横に傾けて笑った。
「ふふ。よかった!水族館、勉強のつもりで行こうね」
二人で行くことに深い意味はない。それを意識させるための言葉だろう。
これはデートでも遊びでもない。
ゼミの勉強の一環で行くのだと。
「はい」
昴は先ほどより大きく頷いて返事をした。
この人といると、やはり考え方が似ていることを実感する。
自分で上手く伝えられなくても、この人には伝わるように。この人の考えも自分にはわかるのだ。
すごく気持ちが楽だな・・
そんな思いがふと頭に浮かぶ。
けれどそれは、恋愛感情とは結びつかない。
お互いそう思っているはずだ。
それが・・明には上手く伝えられなかったのが悔しい。
ーー
「・・いい所にある水族館ですね」
昴は目の前に広がる太平洋を見ながら言った。
「でしょう?少し遠いから頻繁には来れないけど、僕はここの水族館大好きなんだ」
彩葉も横に並び海を眺めながら言った。
電車に乗って一時間半ほど。
東京を抜け神奈川県にある水族館へとやってきた。
水族館は海の目の前にあり、中に入る前からすでにその壮大さを教えられた気分だ。
地元の島々が浮かぶ海とは全然違う。
どこまでも邪魔するもののない、水平線を綺麗に見渡せる海だ。
その壮観な姿を昴はフゥと息を吐いて見つめた。
「じゃぁ、中に入ろうか」
彩葉が身体を水族館の方に向けて指差した。
「あ、はい」
昴もその後に続くように向きを変えると、ゆっくりと歩き始めた。
「教授の展示は少し奥に行ったところみたいだね」
入り口でもらったマップを見ながら彩葉が言った。
昴も手に持ったマップに目を向ける。
この水族館はワンフロアで横に広い作りとなっているようだ。
最初に魚やクラゲの展示が続き、その後にペンギンやアザラシなどの海の生物の展示、それからヒトデなどの海の生き物との触れ合いコーナーになっている。
1番奥にはイルカがショーをするためのプールもあるらしい。
なかなか見応えがありそうだ。
その中で目当ての展示は入り口から少し奥にある企画展示のスペースにある。
「最初に教授の展示を見に行きますか?」
昴は地図から顔を上げて彩葉に聞いた。
「うーん。順序通りに進んでいけばいいんじゃないかな?矢野君、最初の常設展示も見たいでしょ?」
「はい。水族館は久しぶりなのでゆっくり見て回りたいです」
「うん、僕も!じゃぁ最初から見て回ろう!」
彩葉はニコリと笑うと軽やかな足取りで薄暗い中へと進んでいく。昴も遅れを取らないようにその後をついて行った。
今日は平日だが夏休み中ということもあり館内はなかなかの混み具合だ。
家族連れや若いカップルが多い。みな目の前の水槽を泳ぐ魚を見ながら楽しそうに話している。
魚に興味がある、というよりは物珍しいものを共有することで会話が弾んでいるようだ。
水族館は明には楽しくないだろうと断ってしまったが、もし二人で来れていればああやって話しながら楽しく見れたかもしれない。
そんなことをふと思ったがそれも後の祭りだ。
その機会を絶ってしまったのは自分なのだから・・
それから昴は彩葉とお互いの知識や疑問を話し合いながら、ゆっくりと見て回った。
一つの水槽の前で三十分近く立ち止まることもあった。
彩葉から新しい情報や知識を教えられるたびに感嘆の声が漏れる。
明と別れて以来、凍りついたように動かなかった感情がゆるりと溶けていくのを感じた。
「よし、じゃぁ次見に行こうか」
彩葉がそう言って目の前の水槽から離れ移動しようとした時だった。
急に彼の動きがピタリと止まった。
すぐ後ろにいた昴はぶつかりそうになり慌てて立ち止まる。
「わっ・・どうしたんですか?彩葉さー」
そう声をかけようとした瞬間。
先に彩葉が目の前の人物に声をかけた。
「・・あれ?明君だよね」
ー・・聞き間違いかと思った。
心の奥でその存在を切望し過ぎて、勝手にその名前に聞こえてしまったのかと・・
昴はゆっくりと顔をずらし、彩葉の前にいる人物に目を向けた。
見慣れた、けれど懐かしくも感じる、離れてからこれまで一日も忘れたことのない顔がそこにあった。
「・・あ、彩葉さん」
戸惑いの表情を浮かべた明が、ぎこちなく頭を下げた。
「こんにちわ。びっくりしました・・」
すると彩葉は嬉しそうな様子で明に近づいて行く。
「僕もだよ〜!まさかこんな所で会えるなんて!すごい偶然だね!」
「は、はい」
明は一瞬チラリとこちらを見たが、すぐに彩葉の方に視線を戻した。
「あれ、もしかして明君はこの辺りに住んでたりするの?」
彩葉はそんな明の様子には気がつかないまま首を傾げる。
「いえ、違います。今日は友達と遊びに来てて・・でも暑いしどこかで涼もうって話してたらちょうど水族館を見つけたんで入ったんです」
明のその言葉を聞いて、昴は明の少し後ろに立つ人物に目を向けた。
ゆるくパーマのかかった明るい髪色の男性が口元に笑みを浮かべて立っている。
背は明よりも十センチほど高い。
初めて見る人物だ。
友達と言っていたが大学の友人だろうか。
そういえば明が頻繁に口にする名前があった。つい嫉妬に駆られ、ちゃんと話を聞いてあげられなかったけれど・・
隣にいる人物がその友人なのだろうか・・
昴がじっと見つめていると、その彼と目が合った。
しまったと思い慌てて下に視線をずらす。
今、自分はどんな顔をしていただろう・・もしかしたら妬みの滲んだ酷く歪んだ顔をしていたかもしれない。
昴が気まずそうに俯くその前で、彩葉は明とさらに会話を続けた。
「そっか。最近本当暑いもんね。僕は今日ここの水族館の企画展示が目当てで来たんだ。ゼミの教授が監修してるから見ておかなくちゃと思って」
「あ・・そうなんですね。じゃぁ今日はゼミの皆さんと?」
そう聞きながら明が周りに目を向けた。
「ううん。今日は後輩の子と2人で」
彩葉はそう言うと、一歩後ろに下がり昴の隣に並んだ。
「後輩の矢野君。とっても優秀な子なんだ」
「・・・」
明の口が口角をあげたまま固まる。
何か言わなくてはと思いながら声が出ないでいるようだ。
しかしそれは昴も一緒だった。
お互い視線を合わせたまま、その場でじっと立ち尽くす。
『久しぶり』と声をかけたい。
『元気だった?』と問い掛けたい。
けれど・・・
今この場では、それが出来ない。
「四十万!そろそろ始まるよ」
二人の沈黙を破るようにして、明の後ろの人物が言葉を発した。
「え・・」
「イルカショー!そろそろだって!」
「あっ、そっか」
明はスマホで時刻を確認する。
「あ、あの。俺達今からイルカショー見ようと思ってて。なので、すみません」
明はそう言うとペコリと小さく頭を下げた。
「あっ、うん。また今度、お店にも遊びに来てね」
彩葉はニコリと笑って手を振る。
「・・・はい」
明は小さな声で返事をすると友人の方へと体を向けた。
「ほら、急ごう!四十万」
すると友人は明の手首を掴み、早足で歩き始める。
「わっ!木岐!早いって!」
ぐいっと引っ張られ前のめりになった明が驚きの声を上げた。
「だって四十万イルカショーが1番見たいって言ってたじゃん!今の時間逃したら次2時間後だよ」
「あっ、そうか。それは急がなきゃだ」
明は眉尻を下げて微笑むと友人の後を同じペースでついていく。
「せっかくなら水かけられる位置に座ろうよ!」
「えぇ?木岐水かけられたいの?」
「だってここ涼みにきたんだよ?ちょうどいいじゃん!」
「あはは。まぁ確かに」
二人は笑い合いながら、どんどんと奥の方へと進んで行った。
その後ろ姿を見つめながら、ジワジワと黒く滲んだ感情が広がっていく。
明の手首を掴むあの手を、今すぐ引き離したい。
隣で笑いあえるその場所を、今すぐ返して欲しい。
イルカのショー?
明は見てみたかったの?
そんなこと、知らなかった。
友達として連絡してくれたなら・・
気持ちの整理はつかなくても一緒に来たのに・・
「矢野君」
名前を呼ばれ昴は視線を彩葉の方へ向けた。
「今の子だよ。前に僕が職場でヒートになった時助けてくれた子。明君って名前なんだ」
「・・そう、なんですか」
昴は冷静さを装いながら言葉を続けた。
「すごく・・仲良さそうですね。お客さんなんですよね?」
「うん。あの子が海洋学の本を探してるって言ってて、それで僕嬉しくなっちゃって教授の本を紹介したんだ」
「え・・海洋学?」
明が海洋学の本を探していたなんて初耳だ。
「まだ海洋学については素人ですって言ってたからこれから勉強を始める子なのかも。高校生か大学一年生くらいかなって勝手に思ってるんだけどね」
「・・・」
「矢野君?どうかした?」
「あ・・いえ。大丈夫です。次行きましょう・・」
昴はそう言うとゆっくりと歩き始めた。
明が海洋学の本を探していた。
きっとそれは・・自分が興味があったからではない。
理解を、しようとしてくれたのだ。
俺が、何を学び何を研究しようとしているのかを。
明なりに知ろうとしてくれていたのだ・・
それなのに・・
昴は両の掌を強く握りしめた。
彼が向き合ってくれようとしていたことを、拒否してしまった。
水族館に行こうと言ってくれたのに・・
あの時断っていなければ、きっと一緒にイルカショーを見れただろう。
明は歩み寄ろうとしてくれていたのだ・・
そのことに今更気づく自分の不甲斐なさが悔しくて仕方がない。
「矢野君」
そんなことを考えながらボンヤリと目で魚を追っていると、彩葉がツンと袖口を引っ張りながら声をかけた。
「僕達もイルカショー見に行ってみる?」
「え・・」
「ずっと立ちっぱなしで水槽見てたから疲れたよね。休憩も兼ねてショー見に行こうよ」
「・・・」
「ね?」
彩葉は笑顔で首を傾げた。
それから気遣うような視線をこちらに向けてくる。
「はい・・すみません」
昴は項垂れるように頭を下げた。
気を遣わせるような態度をとってしまった自分が恥ずかしい。
「えーなんで謝るの?僕も喋りすぎて疲れちゃったんだよ。夢中になるとつい休む事忘れちゃうよね」
「そう、ですね。俺も・・水槽を見ながら話してたら嫌なこと忘れられるような気がしました」
「そう?僕のお喋りも役に立ったかな?」
白い歯を見せて彩葉が笑った。
「・・はい、ありがとうございます」
「あっ、素直だ!偉い偉い」
「・・子ども扱いしないで下さい」
昴は唇の先を尖らせてチラリと睨みつけた。
「だって僕の方が二つ年上だよ。あっ、ほら。イルカショー始まる!行こう」
彩葉が早足で歩き出したので、昴もその後をついて行った。
彩葉と話していると、彼のペースに引き込まれ素直な言葉が出てくる。
明にももっと・・そんな風にいれたらよかったのだろうか・・
イルカショーのプールに着くとすでにたくさんの人が席に座っていた。
音楽が鳴り出したので、昴と彩葉は一番後ろの空いている席に急いで腰掛ける。
前方を見ると一番前の席に明が座っているのが見えた。
隣の友人に何か話しかけている。
たしか「きき」と名前を呼んでいた。その名前には聞き覚えがある。
珍しい苗字の友人が出来たと言っていた。「木岐」と書くのだということも言っていた気がする。
同じ西日本の出身だから話が弾むのだとも・・
「みなさんこんにちわ〜」
司会のスタッフの声が聞こえたと同時に勢いよくイルカがジャンプした。
歓声がわっと湧き上がる。
それを合図に音楽に合わせたイルカのショーが始まった。
そこまで広くないプールを、三頭のイルカが綺麗に列を成して泳ぎ出す。
トレーナーの合図で一頭が綺麗な円を描いてジャンプしたかと思えば、別のイルカは高いジャンプで吊るされたボールを弾ませる。
その度に周りから楽しそうな声が上がった。
昴はイルカを見ながらも、その視線の延長線上で前方の座席に目を向けた。
明が目を丸くさせてショーを見つめている。
イルカの動きを一生懸命追っているようだ。
一頭のイルカが勢いよく泳ぎ出し高くジャンプした。
次の瞬間、そのイルカが明の席の前で大きな音を立てて水の中に飛び込む。
「うっわあぁ」
バシャンと散った水飛沫が明に降りかかった。
その量は服全体をたっぷりと湿らせられるほどだ。
「うっわぁ!やっば!」
楽しそうな声をあげて明が隣に目を向けた。
隣に座っていた友人の木岐も全身びしょ濡れになっている。
何を話しているのかはわからないが、二人ともお互いを見合って笑っている。
「あ、見て!もう一回くるよ」
隣の彩葉の言葉で前を向くと、今度はイルカが尻尾で最前列の客に水をかけていき始めた。
「うわぁ、前の人達びしょびしょだね」
彩葉が驚いた顔で呟く。
「あ、明君達前にいた。あはは、二人ともびしょ濡れだ!」
明と木岐がお互いを盾にするようにふざけ合いながら戯れ合っている。
しかしそれも意味なくイルカの襲撃を受けて全身水を浴びていた。
二人はそれも可笑しいのか大きな声で笑い合っている。
「・・・」
昴はそんな様子をただ呆然と見つめた。
明は・・俺といる時だって笑ってくれていた。楽しそうに・・
けれど・・あんなに遠慮なくはしゃぎあうことはあっただろうか・・
・・多分、ない。
それは俺が・・俺が遠慮していたから。
明を困らせる事はしたくなくて、明を守ることを優先してしまって。
遠慮のない楽しみ方を避けていたから。
そんな俺では、きっと・・・
明のあんな笑顔は引き出せない。
「・・矢野君も濡れる席行きたかった?」
彩葉が伺うような視線で聞いてきた。
「え・・・」
「明君達のことじっと見てたから。濡れたかったのかなぁって」
彩葉はそう言うと白い歯を見せて悪戯っ子のように笑った。
「・・まさか。あんなに濡れたらちょっと・・鞄の中に濡れたら困る物も入ってるし」
「あはは。僕も!今日タブレット持ってきちゃったから、あそこまで濡れたら困っちゃう」
「あ、彩葉さんもですか。俺もタブレット持ってきました。気になることがあったらメモ出来るように」
「ふふ、一緒一緒。せっかく水族館に来たからには色々吸収して帰りたいもんね」
「はい・・」
昴は口元を上げて薄く笑う。
そう、自分はこちら側なのだ。
水族館に来た意味も、楽しみ方も、明とは違う。
あんな風に声を上げて笑うために来たわけではない。
だからやっぱり・・
一緒には来なくて、よかった・・
「お疲れ様〜、矢野君。足痛くない?」
水族館を出ると、彩葉がグッと腕を上げ体を伸ばしながら言った。
あれから結局イルカショーのあと三時間ほど水族館の中を見て回った。
明達の姿はショーの後は見ていない。
イルカショーが終わって帰ってしまったのかもしれない。
涼みにきたと言ってたのだから、長時間滞在する気はなかったのだろう。
「彩葉さんも疲れてないですか?どこかで休みます?」
昴はそう言うと辺りを見回した。
「あ、じゃあさ、あそこちょっと座ろうよ」
彩葉がそう言って指さしたのは、水族館の前の海が見渡せる防波堤だった。
「え・・あそこでいいんですか?」
「うん。やっぱり海見たいじゃない?」
彩葉がニコリと微笑む。
「・・そうですね」
「でしょ!ほら、行こう」
足取り軽く一歩を踏み出す彩葉の後を、昴はゆっくりとついて行った。
時刻は十八時を過ぎているがまだ空は明るい。日中の焼けるような暑さの余韻が残っていて、額にじわじわと汗が滲んでくる。
防波堤に座ると、潮風がふわりと吹いて髪の毛を優しく揺らした。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
彩葉が海を見つめながら言った。
「いえ、こちらこそ。すごく勉強になりました」
昴も前を見つめたまま応える。
「それならよかった!教授も喜ぶだろうから明日感想を伝えてあげよう!」
「はい」
「・・・あのさ・・」
彩葉が何かを躊躇うように両手の指を絡めながら口篭った。
「・・はい?」
昴はその間に気がついて、彩葉に目を向ける。
すると彩葉は意を決したかのように昴の瞳を見つめ返して言った。
「もしかして・・本当は水族館、あんまり来たくなかった?」
「え、なんでですか?」
「・・途中で、矢野君少し元気なくなってたから。もしかして恋人と来た思い出とかあったのかなぁって」
「・・え」
「それなのに、僕が無理に誘っちゃって付き合わせたなら申し訳なかったなって思って」
彩葉は眉尻を下げて伺うような表情を浮かべた。
昴はごくりと息を呑むと小さく首を横に振った。
「・・いえ、違います。水族館には、一緒に行った事はなかったので・・大丈夫です」
「え、そうなんだ。僕てっきり・・でも、じゃぁなんで元気なかったの?」
「・・・」
「あ、ごめんね。答えたくなかったら大丈夫だから!」
彩葉は両手を振りながら気遣うように言った。
「・・・」
昴は再び海をまっすぐと見つめるとスッと息を吸う。潮風の匂いを感じると気持ちが落ち着くような気がした。
それから小さな声でボソッと呟く。
「・・一緒に、来なくてよかったなって・・」
「え?」
「俺とじゃきっと・・楽しめなかったから。一緒に来なくて正解でした」
「・・なんで、そんなこと思うの?」
「・・・」
「・・矢野君達は、納得して別れたわけじゃなかったの?」
「え・・」
昴は彩葉の方に目を向けた。
「矢野君の・・様子を見てるとまだ引きずってるよね?どうしてまだ好きって感情があるのに別れることになっちゃったのかなって・・」
「・・それはー」
そこまで言って昴は俯く。
なぜ、別れることになったのか。
その理由を俺はちゃんと理解できていなかった。
けれど・・今日、明と会って彼の言いたかった事が少しわかった気がする。
今の自分に・・一番合う人は誰なのか。
それは明にとってもそうで・・明が明らしくいられる相手は誰なのか。
そんな事、考えた事無かったけれど・・考えたくなかったけれど・・
それが、自分ではないことは確かなのだ・・
「恋人に・・言われました」
昴は溢れるようにポツリと言った。
「え?」
「昔の俺と、今の俺は違うから・・今の俺に合う人を選ぶべきだって・・」
「・・・」
「でもそれは・・俺だけじゃなくて相手にとってもそうかもしれないって思いました。小さい頃から好きで、自分のその気持ちを疑ったことはなかったけど・・今のあの子に相応しい相手は他にいるのに、俺の気持ちで縛りつけているだけだったのかもしれないって・・」
「・・それは、あまりに卑屈じゃない?」
彩葉が苦笑いを浮かべて首を傾げた。
「矢野君は良い人だってわかるよ。まだ出会って数ヶ月の僕にでもわかるようなこと、長い時間一緒にいた恋人が分からないわけない。なんで、そんなに自信がないの?」
「・・・良い人と好きな人って違うじゃないですか」
昴はフッと息を吐いて笑った。
「あの子が本当に好きなのは、明るくて引っ張っていってくれる人なんです。一緒にはしゃげてふざけ合えるような。俺とは全然違う」
「・・・そう、なの?でも矢野君と付き合ったんでしょ、それなら・・」
「前にも言いましたよね。俺が頼み込んで付き合ってもらったって。ちょうど失恋したあの子につけ込んだんです。その失恋相手がそういうタイプの人でした。俺とは正反対の、明るい人で」
「・・・」
「だからかな。ずっと、自信が持てなかったのは・・でも一緒に過ごしていくうちにそんな気持ちも薄らいでいってたんです。けど・・東京に出てきて、お互いの世界が変わって・・」
昴はそこまで言うと、彩葉の瞳をじっと見つめた。
「よく、分からなくなりました。付き合うってなんだろう。ただ・・好きっていうだけじゃ、一緒には居られないみたいです」
「・・・」
「・・すみません。こんな暗い話聞かせて・・」
目を丸くして黙る彩葉を見て、昴は俯いて謝った。
「・・・ううん」
彩葉は小さく頭を横に振ると、波音を立てる海に目を向けた。
それから、スッと小さく息を吸うと「ねぇ!」と弾むような声を出した。
「僕達、試しに付き合ってみるのはどうかな?」
「・・・」
昴は一瞬何を言われたか分からず、下を向いたまま目を見開く。
それからゆっくりと顔を上げて彩葉の横顔を見つめた。
「え・・・今、なんて・・」
「付き合うことがどういう事かわからなくなったんでしょ?それは今まで恋人がいた事がない僕もわからない。だから、二人で考えてみるのはどうかな?」
彩葉は海を見つめたまま言葉を続ける。
「僕は矢野君のこととても良い人だなと思ってる。一緒にいて話しやすいし楽しい。矢野君と過ごす時間が僕は好きだよ。そういう好きっていう気持ちで付き合うのはダメかな?」
「・・・」
彩葉はこちらを見ることなく言い終えると、口元に笑みを浮かべたまま黙った。
どんな返答でも良いように、急かすことなくこのゆったりと流れる時間に身を任せているようだ。
ザザッと寄せる波の音が耳を掠めた。
その音を聞きながら昴は喉が渇いていくのを感じた。
彩葉さんと、付き合う。
明ではない、明とは違う、けれど・・
波長や考え方が合う、この人と・・
彩葉さんに自然と素直になれるのは、本能的に惹かれているからなのだろうか?
明が言っていた『今の自分』が求める相手。
恋人とはそういう相手を選ぶということなのか・・
それを、確かめることが出来るかもしれない・・
「・・あ・・」
昴は乾いた喉で掠れた声を絞り出す。
「あの・・こんな、俺でよければ・・」
そう言って小さく頭を下げた。
「・・ふふ、よかった」
彩葉がやっとこちらに視線を向ける。
「返事、どっちでもいいつもりで聞いたけどやっぱりちょっと緊張してたみたい」
「え・・・」
「一応、告白みたいなものじゃない?フゥゥ。みんなこういう感じでやってるのかなぁ」
彩葉はグゥっと両手を前に出すと体を伸ばしながら言った。それから柔らかな笑みを浮かべて昴を見つめる。
「大丈夫。そんなに肩肘張らず僕達に合ったペースで付き合ってみよう、ね?」
「・・・はい」
昴も目元を緩めると、彩葉の綺麗な瞳を見つめ返した。
「よろしく、お願いします」
『運命の番』だから付き合うのではない。
彼だから、一緒にいてみようと思うのだ。
同じものを好み、同じものに感動できる。
良いことも悪いことも言い合える。
自然なままでいられる相手。
明とは、違う。
ただ・・彼を欲し彼を求め、不安定でも繋ぎ止めていたかった、重く潰してしまいそうな執愛ではない。
あの・・焦がれるような感情は今も胸の中で燻ったまま、いつか焦げ跡になって・・
自然と触れる日がくるだろうか。
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