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第15話

時刻を確認すると、もうすぐ十五時だった。 今日のゼミ室はいつもより人が多い。 合宿が近づいてきたので、みなレポートの追い込みに入っているからだ。 昴は文字を打つ指を一旦休めると、テーブルの端に座っている彩葉に目をやった。 彩葉は教授に何かを質問しながらパソコン画面を見つめている。 レポートはもうほとんど仕上がっていると言っていたので、細かい直しをしているのだろう。 彩葉から『夜ご飯食べて帰ろう』とメッセージがきたのは今日の朝だ。 家を出る直前に気がつき、すぐにOKの返事をした。 付き合い始めてから一緒に食事をするのは今日が二度目だ。 彩葉と付き合いだして十日ほどが過ぎた。 基本的には以前と何も変わらない。 強いて言うなら、他愛のないメッセージのやり取りが少し増えた。 それがただの先輩と後輩の関係を超えた唯一の変化だ。 ゼミの人達には付き合っていることは言っていない。 『僕達はまだ模索中の関係だからね』と彩葉は言っていた。 模索中の関係。 それはその通りだ。 『恋人』とは。『付き合う』とは。 その正しい形が何なのか、お互い手探りの状態で今は一緒に過ごしている。 昴が再びパソコンに向かおうとしたところで、机に置いていたスマートフォンが振動を始めた。 画面に表示された名前を見て、思わずぐっと息を呑む。 正直なところ、今は電話に出たくない。 けれど気づいてしまった以上、無視をするのは心苦しい相手だ。 昴はフーと呼吸を整えると席を立った。 それからスマートフォンを片手に静かにゼミ室を出ると、少し離れた廊下で応答のボタンをタップした。 「もしもし・・」 『あ、よかった。出てくれて』 幸の凛とした声が聞こえた。 「どうしたの?申し訳ないんだけど、今大学で作業中で」 『やっぱり。今日も大学にいるんだ。ゼミで忙しいって言ってたもんね』 どこか含みを持たせたように幸が言った。 『ねぇ。今昴はどこにいるの?何号館?』 「・・なんで、そんなこと聞くの?」 嫌な胸騒ぎを感じながら昴は聞いた。 『今、昴の大学にいるから。でも広くて全然わからない。だから迎えにきて。早くしてくれないと暑くて倒れちゃうよ』 「な・・なんで!?」 思わず大きな声が出てしまい、慌てて周りに目をやった。 廊下には誰もいない。 昴は早足で歩き始めると、建物の外へと向かった。 「・・俺は5号館にいるけど、幸はどこにいるの?というか一人できたの?危ないからあんまり・・」 そう言って扉を開け外に出た時だった。 「相変わらず、心配はしてくれるんだね」 横から声が聞こえそちらに目を向けた。 頬が少し赤くなった幸が飲み物を片手に立っていた。 「幸・・・」 「久しぶり、昴」 幸が口元だけ緩めて微笑む。 「昴の大学広いねぇ。ちょっと探検してたんだけどビックリしたよ」 「・・幸、なんでここに・・」 「うーん・・」 幸は勿体ぶるように飲み物を一口飲むと、昴の瞳をジッと見据えて言った。 「振られちゃった、可哀想な幼馴染を慰めに?かな」 「・・・っ」 昴はその言葉に顔を顰める。 「聞いたよ明から。出会ったんだって?運命の番と。それで、可哀想に。明に手放されちゃったんだ」 「・・・別に・・手放されたわけじゃ、ない」 昴は視線を下に向けながら、絞り出すような声で言った。 「あぁ、そうだよね。友達に戻ろうって言われたんだよね。別に完全に縁を切られたわけじゃないよね」 「・・・そう、だよ。俺と明は・・友達に戻ったんだ。だから、明が遊びたいって言うならまた友達として・・」 「馬鹿じゃないの?」 先程までとは違う声のトーンが聞こえた。 昴はハッとして顔を上げる。 まるで射抜くような幸の鋭い視線がこちらに向けられていた。 「ねぇ、なんで別れてまで明に気を遣ってるの?もう明に気に入られる必要なんてないんだから、思ってること言えばいいじゃない」 「え・・・」 「だってそうでしょ?もう恋人じゃないんだから。だったら、自分の考えを押し殺してまで合わせる必要ない」 「・・・」 「思ってることちゃんと言いなよ。嫌なものは嫌だ、無理なものは無理だって」 「・・無理な、もの」 昴はそう呟くと手のひらを固く握りしめた。 そんなものは、もうわかっている。 ただ、明のために我慢すればいいと・・思っていた。 けれど・・悲しいけれど・・ 幸の言っている通りだ。 どんなに我慢しても、彼のためと思っても・・本当に欲しいものは手に入らない。 それならば、耐える必要はないのかもしれない・・ 例え、それで繋がりが切れてしまっても・・ あの笑顔が、あの子の隣りが、もう自分のものになることがないのなら・・ 「矢野君?」 後ろから名前を呼ばれ、昴は振り返った。 彩葉が心配そうな顔で扉から出てくるところだった。 「彩葉さん・・」 「深刻そうな顔で急に出て行ったからどうしたのかと思って・・」 そう言った彩葉の視線が昴の前にいる幸をとらえた。 「あっ・・お客さん?」 「えっ・・と、あの・・」 しまったと思い、昴は咄嗟に幸を隠すように身体をずらした。 しかしそんなことはもちろん無意味だ。 幸は昴の後ろから顔を出すと、綺麗な瞳を細めて品定めするように彩葉を見つめた。 それから涼しい声でポツリと呟く。 「あぁ、この人なんだ。昴の運命の番」 「え・・・」 彩葉は幸と昴の顔を交互に見つめた。 「・・あっ、もしかして・・矢野君の・・?」 どう思ったのかはすぐにわかった。 それは誤解だと訂正しなくては・・ そう思い口を開こうとしたが、幸の方が動くのが早かった。 「こんにちわ」 幸は一歩前にでると彩葉に小さく会釈した。 「昴の幼馴染です。今日は、昴の大学がどんな所か気になって見にきただけなので。もう帰ります」 「え・・あ、そうなんですね・・」 彩葉は少し気まずそうに笑みを浮かべる。 そんな彩葉を見て、幸はニコリと笑って言った。 「別に気にしないで下さい。俺にとって昴は『過去の人』なので」 「・・過去?でも・・」 彩葉が戸惑っていると、幸はくるりと踵を返した。 「じゃぁ、基依君が待ってるからもう行くね。バイバイ昴」 そう言ってひらりと手を振るとさっさと歩き出す。 昴はその背中を呆然と見つめた。 「えっ・・あ、追いかけなくていいの?」 彩葉は心配そうにこちらに目を向ける。 「・・大丈夫です。もう話は終わったので」 昴は首を横に振ると、幸の後ろ姿が遠ざかっていくのをただ見つめた。 それからしばらくしてその姿が見えなくなると、彩葉がボソッと小さな声で言った。 「矢野君、すごい美人さんと付き合ってたんだねぇ」 「えっ・・」 「綺麗な子で驚いちゃった。でも今日会いにきたってことは、まだあの子も未練が残ってるんじゃ・・」 「ち、違います。幸は、あ・・今の子は本当にただの幼馴染で」 昴は早口で言いながら手を振った。 「え、そうなの?でも矢野君は過去の人だって」 「・・そ、それは・・その、確かにちょっと色々あったんですけど・・けど恋人だったわけでは・・なくて・・」 「・・恋人ではなかったけど、告白されたとか?」 「・・・ええと・・まぁ・・」 消え入りそうな声で返事をする。 「でも・・それも昔の話で、幸にはもう長く付き合ってる恋人がいるので、今更何かあるわけじゃないんです」 「じゃぁ、今日はただ本当に矢野君の大学を見にきただけ?」 「・・そう、ですね・・」 「・・・」 昴の歯切れの悪い言い方に彩葉は訝しむような目を向ける。 しかしすぐに力なく笑うと、ポンと昴の肩を叩いた。 「僕はね、嫉妬とかはあんまりしないんだ」 「え・・」 「昔の恋人とか恋愛遍歴とか、そういうもの全てが今の君を作っている大切な要素だと思っているから。だから僕は気にならない」 「・・・」 「よし、じゃあ戻ろう!それで早くキリがいいところまで終わらせて食事に行こう!」 「・・はい」 昴は小さく頷くと彩葉と共に建物の中に入っていった。 昔の恋人。 そうか、明はもう・・過去の人になるのか。 そうやって、切り離していくことでしか忘れられないのなら・・ 幸が言っていたように、伝えた方がいいのかもしれない・・ —— 「どうだった、矢野」 駅に着くと、待ち構えていたように基依が近づいてきた。 「どっか行ってていいって言ったのに・・」 幸は呆れた顔でため息を吐く。 「別にいいだろ。特に行きたいところなんてなかったんだよ」 「ふーん。まぁ、いいけど」 本当はわかっている。基依なりに心配と、それから少しの嫉妬をしていることを。 昴の存在が、もう特別ではないと言えば嘘になる。けれど未練があるとかそういうことではない。 幼い頃に思った『昴を守ってあげたい』という気持ちが、まだ少し残ってしまっているだけだ。 「会ったよ、昴の運命の番」 「えっ?!」 基依は目を丸くして大きな声を上げた。 「なんで?あいつに紹介されたのか?」 「違うよ。気づいただけ。同じ大学の先輩みたい」 「・・どうして気づいたんだ?」 「まぁ、勘かなぁ・・」 「勘て・・そんな適当な・・」 そう、勘だ。 昴を追ってきた時の雰囲気。そしてあの人を見た時の昴の様子。 それだけであの二人がただの先輩後輩ではないことはわかった。 あの人が現れた瞬間、昴の空気が少し緩んだような気がした。 緊張や構える必要のない相手ということだろう。そんな相手は昴にとって珍しい。 つまり、特別な存在ということだ。 革製の首輪をしていたが、それがなくてもΩだとすぐにわかる。 線の細い髪をなびかせ、優しげで透き通るような瞳をした綺麗な青年。 あの人が昴の『運命の番』 明は、あの雰囲気に怖気付いたのだろう。 戦う気力も無くし、負けを認めた。 最後はきっとβだからと、言い訳をして・・ 「矢野は、落ち込んではなかったか?」 「・・大丈夫じゃない?あの、運命の番がそばに居るなら」 「大丈夫って・・運命の番が現れたからってそんな簡単に切り替えられるものか?そもそも・・」 基依は悔しそうに顔を歪ませて続けた。 「俺は・・あの二人がそんなことで別れるなんて思ってなかった。少なくとも矢野は・・」 「・・・俺は、なるようにしてなったと、思ってるよ」 「え?」 幸の言葉に基依は眉間に皺を寄せ首をひねる。 「だって・・明と昴は、二人とも自分に自信がないから」 「自信?」 「そう。二人して自信がないから、気を遣いあってお互いの顔色をうかがって付き合ってた。でも二人だけで完結してる時ならそれでも上手くいってた。喧嘩もしないだろうし。けど、そこに誰かが介入したらその均衡は崩れてしまう、簡単に」 「・・・」 「だから、ある意味良かったんじゃない?運命の番が現れて。恋人でいるには、あまりに不安定だったって気づいたでしょ」 「・・幸、あいつらのことそんな風に思ってたのか」 基依は少し困惑した顔で恋人を見つめた。 「まぁ・・でも、昴がしつこいから大丈夫だろうとも思ってたよ。けどやっぱり『運命の番』の影響力は強いんだろうね。あの昴だって、気持ちが流されてるんだから」 「・・『運命の番』・・か」 基依がボソッと言うと、幸はチラリと鋭く睨んだ。 「なに?なにか基依も思うことある?」 すると基依はニヤリと笑い大きく首を横に振った。 「何もねーよ。俺らは全く心配いらないなと思っただけ」 「・・どうして?」 「だって俺達、お互い何も気遣ってないじゃん。言いたいこと言い放題」 「・・何、それ」 幸はフッと小さく笑う。 「だから俺達の間に運命の番が現れたって何も変わらない。これからもずっと、面倒くさい幸の面倒は俺が見てやる」 「・・一言多い」 唇を突き出して幸は基依の腕をペシっと叩いた。 とても、心強い言葉だ。 『運命の番』 その存在に自然に惹かれる者もいれば、無意識に引っ張られていってしまう者もいる。 もし自分が出会ったらどちらになるだろうか。 けれど・・ どちらになっても、基依が連れ戻してくれると信じている。 だから不安はない。 でも・・ねぇ、昴。 君はどうする? 自分で踏み止まるか、本能に従うのか。 明はもう諦めてしまっているから、君が決めなくちゃ。 どちらを選んでも・・ 君が心から笑える選択ならば・・ 俺はそれでいいと思ってる。

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