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第18話
大学生の長い夏休みが終わった。
始まった頃は永遠に続くんじゃないかと時々途方に暮れたりもしたが、過ぎてみればあっという間だった。
それもこれも、全ては彼が一緒に過ごしてくれたおかげだ。
「おはよ〜、四十万」
木岐が大きな口を開けて欠伸をしながら言った。
「おはよう木岐。昨日はバイト遅かったの?」
明は横に座る木岐に目を向けて尋ねる。
「バイト自体は遅くなかったんだけど、終わった後にみんなでご飯行ったら終電ギリギリまで盛り上がっちゃって」
「えぇ!?それで1限来たのは偉すぎるでしょ?」
「まぁ、学生の本分は勉強ですから」
木岐はそう言うとニヤリと笑った。
ゆったりとした空気を纏っている彼だが、なんだかんだ根は真面目だ。
とにかく地元を離れたかった木岐は、親に相談はせずに東京に出ることを決めたそうだ。そのことを反対することなく送り出してくれた両親には感謝していると言っていた。
なぜそれほどまでに地元を離れたかったのか。
その理由は聞いていないが想像はできる・・
「四十万の家の方がS駅近いよなぁ。今度終電ヤバそうだったら泊めてよ〜」
木岐が机にクタッと突っ伏しながらこちらに目を向けた。
「うん、いいよ!遅くなりそうならうち来なよ。いっつも夜1人で暇だから、遊びに来てくれたら嬉しいかも!」
明はそう言って目を輝かせる。
実際一人で過ごす夜は長くて退屈だ。
余計なことを考えてしまうから、最近ではずっと無心で動画を見ている。
誰かが遊びにきてくれるのはむしろありがたいことだ。
気持ちが弾みながらも、明はふと一人暮らしのあの家に今まで友達を呼んだことがないことを思い出した。
呼ぶ機会がなかったのもある。
けれどそれよりも、昴に言われたことがあったからだ。
あれは東京に上京してすぐのことだった。
昴が明の家の整理を手伝いに来てくれた時。
二人で一息ついて並んで座っている時に昴がポツリと言った。
「我儘なお願いかもしれないけど・・言っていい?」
「うん?何?」
明は昴に目を向けて首を傾げる。
昴は一瞬口籠るような仕草をしたが、ゆっくりと遠慮がちに口を開いた。
「きっと・・明は大学で友達がたくさんできるよね。そしたら友達を家に呼んでご飯食べたり遊んだりすることもあると思う。それは良いことだと思うし、明が楽しいのが一番だって俺も思ってる。でも・・」
「?でも?」
「・・大勢ならいいんだけど・・二人だけ・・は出来たら避けて欲しい・・明を信用してないとかそういうことじゃないよ。ただ、俺がすごい心配で不安になっちゃうから」
「・・・へ」
明は口を半開きにして呆けた声を出した。
「この部屋で、明が俺以外の誰かと二人きりっていうのは・・想像するだけでキツい、かも・・」
そう言って俯く昴を見て、明は慌ててその背中をポンポンと叩いた。
「だ、大丈夫だって!絶対そんなことないから!家に呼ぶほど仲良い友達なんてなかなか出来ないって!だから安心してよ!」
「そんなの、分からないよ。明ならきっと気の合う友達見つけられるし」
「えぇー・・わかった!もし気の合う友達が出来ても家には呼ばない!きっとこれから家の中グチャグチャになって汚くなるし!昴にしか家の中見せられないよ!だからさ、大丈夫だから!な?」
「・・・・うん。俺の我儘でごめんね・・」
元気づけるつもりで言ったのに、結局昴はしゅんとして頭を下げた。
昴がそう言ったから。
明は家に友人を呼ぶことはしないと決めた。
それに昴の気持ちもわかるからだ。
恋人が自分以外の誰かと家で二人きりというのは明だって不安になる。
きっと、昴はそんなこと確認しなくともしなかっただろうが・・
けれど、あの頃と今では状況が違う。
友人が家に遊びにきても気にする人は・・
もういない。
ーー
ヒューヒューと風が窓に当たる音で明は目を覚ました。
身体がなんだか重い。
一度目を瞑りゴロンと寝返りを打つ。
それからハッとして目を開けると、枕元に置いてあるスマホを手に取った。
時刻を確認すると家を出発する時間はとうに過ぎている。
慌ててベッドから起き上がると、明は足元に散らかっている服から適当に着るものを選び急いで準備をして家を飛び出した。
無我夢中で出て来たので、スマホにきていた連絡やニュース速報には気が付かなかった。
その重要な知らせに気がついたのは大学に到着した後、人のいない学内を不思議に思った時だった。
「え・・臨時休講・・」
スマホに届いてた大学からのお知らせを見て、明はガクッと膝を折り曲げた。
そこには『台風接近のため臨時休講』と書いてあった。
今までニュースや天気予報を全く見ていなかったわけではない。
十月に入ってから台風が発生したとのニュースをやっていたのも覚えている。
ただ、うっかりしていただけだ。
『自分が東京に住んでいる』ということが頭から抜け落ちていて、台風の接近も電車の計画運休とやらもどこか他人事のように聞いていたのだ。
大学からのお知らせをよく読むとこう書いてある。
『午後から最寄り路線が計画運休となるため、本日の授業は全て休講になります』
午後から・・
だから朝は電車動いてたのか・・
そんなことをぼんやりと考えて項垂れた時だった。
「あっれ?四十万も間違えてきちゃった人?」
楽しそうな声が聞こえて明は後ろを振り返った。
木岐が困った顔をしながらも、どこか嬉しそうな笑顔を浮かべて立っている。
「・・木岐?えっ、木岐も?」
明は目を丸くして木岐に駆け寄った。
「そう〜。うちテレビないから全然ニュース見てなくて。台風来てるの知らなかったよ〜」
木岐はヘラッと笑いながら頭を掻く。
「まぁ、大学休みになったのはラッキーって感じだけど。でもせっかくここまで来ちゃったしなぁ・・」
そこまで言うと木岐はチラリと明に視線を向けた。
「ねぇ、四十万今日バイトあったりする?」
「え・・いや、今日はちょうど休みだったけど」
「おっ!俺も俺も!じゃぁさ、もし四十万が良ければ四十万の家でお泊まり会でもしない?」
「へっ?!」
突然の提案に明は驚きの声をあげた。
「家にいても暇だしさぁ。台風の日に一人でいるのなんか不安だし。それに四十万の家からの方が大学も来やすいから今日泊めてくれたら明日の朝楽だなぁ、なんて!」
木岐がおちゃらけた口調で首を傾げた。
明はポカンとした顔で聞いていたが、すぐに大きく首を縦に振った。
「うん、うん!いいよ!俺もちょっと不安だったし!木岐いてくれたら楽しいし心強いかも!」
明は嬉しそうに頬を緩める。
気分が沈みそうな気圧の時に家で一人でいるのは憂鬱だ。
木岐からの提案は願ったり叶ったりだった。
「よし!そうと決まればコンビニ寄って行こう〜。雨が強くなる前にさ」
「うん!」
木岐がゆっくり歩き出すと、明も弾むような足取りでついていった。
ーー
ゴォゴォと響くような音が聞こえる。
明が外に目を向けると、風で震える窓ガラスから激しく打ちつける雨が見えた。
「おぉ、本格的に強くなってきたなぁ」
木岐が炭酸飲料の入ったペットボトルに口をつけながら言った。
明の部屋のローテーブルにはコンビニで買ったお菓子や弁当が置かれている。
このお弁当は夕食の分だ。
今はまだ午後三時前だが空一面を厚く濃い灰色の雲が覆っているので、日中とは思えないほどに暗い。
そのくせ外から聞こえる音は大きく普段の昼間よりも賑やかだ。
「今、台風どのあたりにいるんだろう」
「もうすぐ関東接近ってニュースでやってたよな。四十万の地元は大丈夫そう?」
木岐に聞かれ明は自身のスマホに目を落とした。
「うん。さっき兄貴から連絡きてたけど、こっちは穏やかだって言ってた」
「ああ、お兄さんは地元に残ってるんだ?」
「うん、やっぱりΩだから両親が心配してて。でも恋人も地元に残ってくれてるし本人も家を出たいって気持ちは特になさそうだけどね」
「へぇー。そういえばあんまり四十万の地元とか家族の話聞いたことなかったな」
「え?」
明は視線を上げ木岐を見つめた。
「ていうか、あれか。俺がそういう話聞かないし言わないようにしてたもんね。四十万、気遣ってくれてたでしょ?」
ニコリと笑いながら木岐は首を傾げた。
「・・え、あ・・いや」
明は困った顔で口籠る。そんな明の反応を見て木岐は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめん。俺、自分の話聞かれても楽しいこと何も言えないって思ってたから・・こっち出てきてから結構予防線張ってたんだ。でも、四十万にはそんなことする必要ないよな、もう」
「・・木岐」
「今日は時間たっぷりあるし、色々ぶっちゃけ合う?四十万がよければだけど」
「っ!お、俺は大丈夫!うん、色々話そう!」
明は目を大きく見開いて頷いた。
出会ってからずっと感じていた木岐の壁を、木岐自らが壊そうとしてくれている。
いつか本音を曝け出せるような仲になりたいと思っていた。
だから彼から提案してくれたことがとても嬉しい。
「・・四十万はさぁ・・前の、別れた恋人が初めての恋人だった?」
木岐が指先でペットボトルを転がすようにしながら聞いた。視線はそのボトルに向けられている。
「・・うん。初めて」
そのペットボトルを見つめながら明はコクンと頷いた。
「そっかぁ・・うん、俺も。俺も初めての恋人だった。高校で出会って1年の夏頃から付き合い始めたんだけど・・」
木岐の瞳に寂しさの色が浮かぶ。
しかし口元には柔らかな笑みを残したまま、木岐は静かに話し始めた。
・・・・
名前は『梢貴也』
『きき』と『こずえ』で、たまたま出席番号が前と後ろなだけの出会いだった。
どこにでもよくある、何一つ珍しくない。
新しいクラスで初めて話しかけるのに丁度いい相手。
ただそれだけの存在、のはずだった。
「木岐君めっちゃ話しやすいなぁ。一緒にいると安心する!」
梢はそう言って木岐に満面の笑顔で話しかけて来た。
『子犬』のようなやつ。
それが木岐が梢に抱いた第一印象だった。
小柄な身体でよく笑い、なぜだか後をついて来る。
そんな風に慕われたら、普段そこまで他人に興味がなくてもあっという間に情が湧いてしまう。気がつけば二人でいることが当たり前になっていた。
木岐と梢が付き合い始めたのは、高校一年の夏休みだった。
告白は木岐からした。
この人懐っこい笑顔を他の人間に見せないで欲しい。
そんな独占欲が木岐を動かした。
それから理由はもう一つ。
梢が、Ωだったからだ。
他のαに狙われる前に。取られる前に。
梢を自分のモノにしたい。
βの自分でもちゃんと愛情をもって繋がっていれば大丈夫。αには負けない。
そう、木岐は信じて梢と恋人になった。
実際、付き合いだしてからの一年間はとても順調だった。
二人の邪魔をする者は誰も現れず、むしろ周りは温かい目で見守ってくれた。
「ねぇ、木岐は進路のこともう考えてる?」
高校二年の夏、進路希望調査の紙を見ながら梢が聞いた。
「えー。うーん、まだ特に考えてないけど・・」
木岐は首を捻りながら、横目で梢を見つめる。
不安そうにこちらを上目遣いで見る梢と目が合い木岐はニコリと笑った。
「でも、梢と離れない進路ってことは決まってる」
「っ!本当?」
梢の表情がパッと明るくなる。それから両手を広げると木岐の首に勢いよく抱きついた。
「へへ。よかったぁ。絶対、ぜっーたいずっと一緒にいようね」
「・・うん、当たり前でしょ」
木岐は梢の頭を優しく撫でるとそっと抱きしめた。
この先もずっと一緒にいる。
それは迷いなど一つもない希望だった。
二人が望んでさえいれば覆ることはない未来だと・・そう思っていた。
けれど・・
まだ大人の監視下にいる二人には、どうすることもできないことがあることをその後すぐに知ることになった。
「え?家庭教師?」
ベージュのカーディガンを羽織った梢が小さく頷いた。十一月になり肌寒い日が増えてきた。
「うん。母さんが今のままだと受験心配だからって。でもまだ早くない?3年生にもなってないし進路だって決まってないのにさぁ」
梢はぷくっと頬を膨らませる。
「まぁ、勉強はするに越したことはないと思うけど。梢、数学とか壊滅的じゃん」
「えー!それを言うなら木岐も同じじゃん!って言うか木岐の方が俺よりヤバいと思う〜」
「はは、まぁそうだけど。だからぁ、俺達が入れそうな大学目指せばいいんじゃない?」
「・・おれも・・そう思ってたんだけど、母さんはなんか、違うっぽい・・」
梢は困った顔をして頬を掻いた。
「Ωだからこそ学歴が大切だって急に言い出して、勝手に家庭教師決めてきちゃったんだ。これから週2で教わることになるらしくて・・木岐と遊ぶ時間減っちゃうよぉ」
「・・その、家庭教師ってどんな人なの?」
「うん?なんか母さんの知り合いの息子で国立大の大学生なんだってさ」
「へぇ・・」
梢は何も気にしていない顔でそう言ったが、木岐の胸にはジワリと不安の色が浮かんだ。
家庭教師ということは梢の部屋で教わるということだろう。
木岐も何度も訪れたことのある、勉強机とベッドが置かれたあまり広くはないあの部屋で。
梢と家庭教師の二人きり・・
そこまで考えて木岐は頭を横に振った。
嫌な想像を払うためだ。
「どうしたの?木岐」
梢が不思議そうな顔で見つめる。
「ううん、何でもない。まぁ、俺も塾とか考えなきゃだし同じ大学目指すために頑張ろう。時間合わせて会えばいいよ」
「ふぇー。これから勉強三昧になるのかぁ。木岐〜、俺のこと忘れないでよぉ」
「何言ってるの、忘れるわけないでしょ」
ケラケラと笑いながら木岐は梢の頭をクシャっと撫でた。
梢にはふと頭をよぎった不安は伝えないでおいた。下手に言って意識でもされた方が困ってしまう。
大丈夫。大丈夫だ。
梢の母だって木岐のことは知っている。家に行けばいつも快く応対してくれる。
万が一、その家庭教師が変なことでもしようものならきっと辞めさせてくれるはずだ。
だからきっと、この心配も取り越し苦労になるだろう。
そんな、楽観的な考えが覆るのにはあまり時間はかからなかった。
「ごめん、木岐。俺クリスマスちょっと無理かも」
学校からの帰り道、梢が下を向いたままボソリと言った。
「え・・・」
木岐は梢が何を言ったのか一瞬理解できず眉を顰めた。
「なに?クリスマスどうかしたの?」
それから冷静さを保って聞き返す。
「・・うん、あ・・あの。親が・・家で、クリスマスパーティー・・したいらしくて」
梢は口籠もりながら言った。
「・・へぇ。それはいいじゃん。じゃぁ俺達は別の日にクリスマスやれば良くない?前日でも後でもいいし」
木岐は口元に笑みを浮かべて首を傾げた。
しかし梢は下を向いたまま、小さく首を横に振った。
「・・ごめん。あの・・その辺り、全部予定が・・入るかも・・しれなくて」
「・・・」
それまで笑みを浮かべていた木岐も流石に訝しぶような表情で梢を見つめる。
しかし責めたい気持ちを抑え、木岐はじっと考えこんだ。
こんなに・・怯えたような梢を見るのは初めてだ。
肩が小刻みに震えている。
一体、何があったのだろう・・
そう思って項垂れる梢を見つめていると、ある一点に目がいった。
その瞬間にさっと血の気が引く。
心臓がドクンと跳ね、次の瞬間には梢の肩を強く掴んでいた。
「なに?これ?この痕は?」
肩を掴まれた梢がハッとした顔で上を向いた。
目の淵がジワリと赤く滲んでいる。今にも涙がひとつ溢れそうだ。
しかし木岐は肩を掴む力を弱めることなく続けた。
「首の後ろ・・痕がある・・なんなの?どういうこと?」
梢の首には藍色の首輪が付けられている。それは木岐が梢の誕生日にプレゼントしたものだ。
その首輪の下に、首筋に付けられていた赤い歯形が見えた。
「ねぇ・・梢!」
木岐が両手で梢の両肩を強く掴み、大きな声を出した時だった。
「貴也君」
聞き慣れない声が、よく知る名前を呼んだ。
そう、よく知る名前だ。ただ自分は呼ばない。クラスメイト達もだ。
彼を、梢を『貴也』と名前で呼ぶのは彼の両親くらいしか知らない。
木岐は声のした方にゆっくりと視線を向けた。
スラっとした体型に長めのコートを羽織り、黒縁眼鏡を掛けた男性が立っていた。
髪型は綺麗なツーブロックで整えられている。
明らかに高校生ではない。年上の男性だ。
その男性がこちらに一歩近づいて言った。
「貴也君、俺から話すって言ったじゃん」
その言葉を聞き梢の肩がピクリと揺れた。
それから縋るような視線を男性に向ける。
「貴也君からは言えないでしょ?ね?」
男性は眉尻を下げて笑うと木岐の方を向いた。
「初めまして。貴也君の家庭教師をしている美舟です」
「・・・」
木岐は梢の肩を掴んでいた手を離すと、その手のひらをキツく握りしめた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
彼が、これから何を言おうとしているのか。
頭の中で警鐘が響いている。
出来ることなら何も聞かずにこの場を逃げ出したい。夢だと思いたい。
けれど・・・
足だけは鎖で繋がれたように動けないでいた。
「木岐君、だよね?貴也君と、付き合ってる・・」
「・・・」
木岐は答えることなく美舟をじっと見つめた。
梢は木岐の横で再び俯く。その肩は小刻みに震えていた。
「・・ごめんね。木岐君には辛い話になってしまうけど、どうしても伝えなくちゃいけないことがあるんだ」
美舟は真剣な瞳を木岐に向けると、一呼吸置いてからゆっくりと口を開いた。
「実は、俺と貴也君は番になったんだ。だから・・木岐君には申し訳ないんだけど、貴也君と別れてほしい」
「っ・・・」
ヒュッと小さく息を吸い込む。
しかし次の瞬間には美舟の胸ぐらに勢いよく掴みかかっていた。
「なんで?お前、梢に何したんだよ?!」
そう言って拳を振り上げようした時だった。
「やめて!木岐!」
木岐の腕を梢が両腕で引き留める。
木岐はバランスを崩しながら、横目で梢を見つめた。
「・・梢・・・」
「ごめん・・木岐、ごめんなさい・・」
梢は木岐の腕を掴んだまま震える声で言う。
「・・・」
か細い梢の泣き声が聞こえ、木岐は腕をダランと力無く下げた。それから落ち着くために大きく息を吸い込み深く吐き出す。
梢が泣いているのを初めて見た。いつも子犬のように元気に笑っている梢が・・
「・・梢は、俺のこと・・嫌になったの?」
木岐は梢を見つめてポツリと言った。
すると梢は俯いたまま横に顔を振る。
「違う。違うよ。木岐のことは今も大好きだよ。でも・・俺の、本能が求めちゃったんだ・・美舟さんの、ことを・・」
「・・・」
その言葉を聞いて木岐はチラリと美舟に視線を送った。
一目見た時からそうだとは思ったが、やはり彼はαのようだ。
梢は木岐の袖を掴んで喉を鳴らしながら言った。
「ごめん、ごめんね木岐。美舟さんに勉強見てもらってるうちに・・なぜだか・・身体が疼いてくるようになって・・でも、ダメだって・・我慢してたんだけど・・でも・・どうしても・・抑えられなくなって・・」
「貴也君、俺が代わりに話すから。落ち着きな」
美舟はそっと梢に近づくと項垂れる梢の背中を摩った。
木岐は思わずギロリと美舟を睨みつける。
しかし美舟は臆することなく木岐に申し訳なさそうな顔で微笑みかけた。
「貴也君の言ってることは本当だよ。貴也君は君のことが好きだからってなんとか拒もうとしてた。俺もその意思を尊重しようと思っていたんだけど・・仕方がなかったんだ。彼のヒートがきてしまって・・αとΩの悲しい性だよ」
「・・そんなの・・」
木岐はそこまで言って再び美舟に鋭い視線を送った。
「あんたが・・もっとしっかり拒めばよかっただろ。梢の気持ちは、あんたには向いてないんだから。αとかΩとかそんなものに振り回されて、梢の一生を台無しにするなんて・・」
「・・心外だな。俺は、貴也君の一生を台無しにする気なんてないよ」
美舟はフゥと一つ息を吐いた。
「ヒートで辛そうな貴也君を見た時に覚悟を決めたんだ。彼の抱える全てのものを俺が支えて守ってあげようって。Ωである彼を守れるのは、やっぱりαでないと無理だから」
「っつ・・・」
木岐は唇を強く噛み締めた。
「・・君には本当に悪いと思ってる。でも、決して生半可な覚悟やその場の雰囲気で番になったわけじゃないことはわかって欲しい」
「・・・」
美舟の横で梢が小さく頭を下げた。
「木岐、ごめん。本当にごめんなさい・・俺・・苦しくて・・心も身体も自分のものじゃないみたいで怖くて・・でも、美舟さんと番になったら・・その不安や恐怖がスッとなくなったんだ。なぜだかすごく、安心できた」
「・・・」
「木岐のことは大好きで一緒にいて楽しくて。でも、この感覚は・・多分・・木岐に求めることは出来ないものだから・・だから・・」
「・・わかったよ」
木岐は無表情のままボソリと言った。
「よく、わかった。確かにβの俺じゃ無理だ、Ωの梢を・・支えることは。だから、仕方ないね」
「木岐・・」
「・・・じゃぁ、俺はもういきます。二人の邪魔したりとかしないから安心してください」
木岐はそう言うとゆっくりと歩き出した。
気がつけば辺りは暗くなっている。まるで今の自分の心情を表しているようだ。
世界で一番信頼し愛していた相手に、知らない間に裏切られていた。けれどそれは『仕方がない』で片付けなければいけないことだった。
αとΩのことは、βの自分ではどうにも出来ないことだから。
後ろから小さく自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
けれど振り返らなかった。
振り返ったところでどうしようもない。
もう、梢は別の人のモノになってしまったのだ。
それから、梢とは学校で顔を合わせても話をすることはなかった。梢は何か言いたげな視線を送ってきたが見ないふりをした。
また少しして、衝撃的な真実を知った。教えてくれたのは梢と小学校から一緒だという同級生だ。親から話を聞いたと言っていた。
美舟と梢の出会いは、梢の両親によって画策されたものだったのだ。
木岐のことを受け入れてくれていると思っていたが、梢の両親は本心ではそれを不安に思っていたらしい。
βではΩの梢を守り幸せにすることは出来ない。
これ以上二人が深く繋がる前にと、知り合いの息子で信頼の出来るαを紹介してもらったそうだ。
美舟がそのことをどこまで知っていたのかはわからない。
彼もまた、梢の両親の思惑に乗せられてしまった一人かもしれない。
けれど、それで二人は本当に結ばれたのだ。二人きりの部屋でαとΩの性により番になった。
自然と、本能のままに・・
βの自分には理解ができない、介入することのできない世界だ。
愛していたのに。大切に思っていたのに。
そんな、ただの『気持ち』ではなんの太刀打ちも出来ないαとΩだけの世界。
もう、関わりたくもない。
Ωにもαにも。こんな思いは二度としなくないから・・
・・・・
窓を打ちつける雨の音がより一層強くなってきた。
明はチラリと窓に目を向けてから、再び目の前の木岐に視線を戻した。
「それで、地元は絶対に離れてやるって決めて東京の大学にしたわけ。単純な理由でしょ」
木岐はスナック菓子をつまみながら笑った。
「・・その梢君は、地元に残ってるの?」
「聞いてはいないけど・・でも美舟が地元の国立大だから残ってるでしょ。離れるわけないだろうし」
「そっか・・」
木岐の話に一区切りがつき、明はグッと腕を伸ばす。
それから改めてαやΩについて考えてみた。
βにはないヒートやラット。そして番という繋がり。
その中でも強烈に惹かれ合う『運命の番』
どれも、βの自分にとってはまるでお伽話のような現実味のないものだ。
人と結ばれるには、木岐も言っていたけれど『気持ち』が重要なのだと思っている。
むしろ、それ以外に何があるというのか。
けれど・・・αとΩにはそれがあるのだ。
同じ土俵に立って戦う事ができないものが。
「四十万はさぁ、自分から振ったって言ったよね?友達に戻ろうと思ったって。それで、今はどうなの?」
「え・・あー・・」
話をふられ明は目を泳がせた。
「連絡とかとってんの?」
「あー・・いや、取ってない。というか、友達には戻れなかった。無理って言われちゃって」
頭を掻きながらヘラッと笑って答える。
「えっ?そうなの?」
木岐は目を丸くして驚いた。
「うん。言ってなかった!ごめん!新しい恋人がいるのに、前の恋人と会うのはよくないって言われて。それは確かにそうだよなぁって」
「・・それって、前に言ってたΩの人と付き合うことになったってこと?」
「うん・・」
明は視線を下に向けながら、ペットボトルのジュースをゴクリと飲み込んだ。
それを見て木岐はポンと明の肩を叩く。
それからフゥと小さく息を吐いた。
「やってらんないよねぇ、本当。四十万、ほら!このお菓子も開けよ!」
木岐は明るく言うと、テーブルの上に並べられたチョコの箱を開けた。
「甘いもの食べると自動的に脳のテンション上がるから!」
「えー、へへ。でももう結構前の話だから。そんなに落ち込んでないよ、ありがと」
元気付けようとしてくれた事が嬉しくて明は照れ笑いをした。
「木岐の言う通りさぁ、βじゃどうにも出来ない事あるよね。俺、αやΩが羨ましいって思っちゃうことあるもん」
「えぇー。俺はないなぁ。本能なんかに流されず、理性で好きな人と結ばれたい」
頬杖をつきながら木岐が言った。
「・・うーん、そっか。確かに。それはそうかも」
明は考えるように天井に目をやった。
木岐の言う通りかもしれない。
理性で、この人だと思って選ぶ方が信頼できる。
けれどそれも・・αやΩには通じないのだろうか・・
ー昴は今、どんな気持ちで彩葉さんといるのだろう。
『好き』という感情溢れる、あの愛しそうな視線を向けているのだろうか。
それとも、本能が惹かれるままに心を許して傍にいるのかな。
どちらでも・・昴が幸せならそれでいいのだけれど。
「四十万、今昔の恋人のこと考えただろー」
木岐がニヤリと口の端を上げて言った。
「えっ!わ、わかった?」
明はバツの悪そうな顔で肩を窄める。
「うん。心がどっかいったような顔してたから。やっぱり、なかなか忘れられないよなぁ・・」
木岐は両手を床につくと天井を見上げた。
「まぁ、俺は最近は結構上書きされつつあるんだけど・・」
そう言って意味深な視線を明に向ける。
「え・・?」
明は不思議そうな顔で首を傾げた。
すると、少しだけ木岐が身体を明に近づける。
何か言いだけに口を開いたが、それから先唇は動かない。
「・・・」
「・・・」
ほんの数秒だが、二人はじっと見つめ合う。
明は木岐が何か言うのを待つためだったが、結局木岐は何も言わずニコリと笑った。
それから再び身体を後ろに離すと、やっと大きな声を出して言った。
「はは!まぁ、いいや!今夜はパッと楽しもう!」
「・・・?うん」
何か伝えたい事があったように見えた。けれど木岐が言わないなら深追いするのはよくない。
明も口元に笑みを浮かべるとゆっくりと頷いた。
それから何時間話しただろう。気がつけば夜になっていた。
けれど窓の外は未だ落ち着く気配はない。先ほどネットニュースを確認した時には関東を台風が通過中と書いてあった。上陸の心配はないとのことで、もう少ししたらこの暴風雨も収まるようだ。
そんなニュースを見て安心しきっていた時だった。
それは一瞬のことだった。
バチっと何かが弾けたような気がして、その次にはふっと辺りが暗闇に染まった。
「えっ!停電!?」
明が慌てて片足だけ立ち上がる。
木岐は取り乱すことなく手元のスマートフォンを取り上げライトを点けた。
「どこかの電線でも切れたかな?今日が暑くなくてよかったねぇ」
のんびりとした口調で木岐が笑う。確かにこれでエアコンが必要な気温だったら大変なことになっていたかもしれない。
「冷蔵庫は開けない方がいいかも。閉めたままの方が冷気が保つから」
「木岐、よく知ってるね」
「昔、実家で停電になったことあるからさ。すぐに復旧するといいけど・・どうかなぁ」
そう言って木岐は外の様子に目をやった。
「雨、まだ止まなそうだね」
明も打ちつける雨を見つめて言う。
それからハッとして勢いよく立ち上がると、暗い部屋の中、足元に注意を払いながら玄関の方に向かった。
「四十万?どうしたの?」
木岐がスマートフォンのライトをこちらに照らしてくれる。
「懐中電灯があるんだ。スマートフォンのライトつけっぱなしだと充電切れちゃうでしょ」
明は靴箱の上に置かれていた大きな懐中電灯を手に取りスイッチを入れる。
部屋の中が先ほどよりもパッと明るくなった。
「おぉ〜!めっちゃ明るい!懐中電灯ちゃんと用意してるなんてえらいなぁ」
「あ、うん、これは・・」
そこまで言ってピタリと口が止まる。
「?これは?」
明の言葉が途切れたので木岐が不思議そうに首を傾げた。
明は何も言わずに木岐の所まで戻ると、ストンと座ってから眉を下げて笑って言った。
「前の、恋人が・・何かあった時のために懐中電灯もあった方がいいって持ってきてくれたんだ」
「・・・」
「はは、真面目というか心配症だったんだろうなぁ」
明は取り繕うように笑う。それを見て木岐もニコリと笑って言った。
「・・でも、役に立ったじゃん。感謝しなきゃだな」
「うん・・そうだね」
昴の痕跡をなるべく消そうとしても、こうやってふと思い出した時に出てくる。
当たり前のように一緒にいてくれたから、昴のことなのか自分のことなのか境界線が曖昧なのだ。忘れるということは本当に難しい。
「なんか、懐中電灯の灯りだけだとキャンプみたいでワクワクする」
楽しそうに言うと木岐はテーブルの上に置いてあったお菓子を開けた。
「先に眠くなった方が負けね!起きれるところまで起きてよう!」
「えぇ〜、なんか木岐強そう」
明は仰け反りながら木岐を見つめる。
きっと空気を変えようとしてくれているのだろう。
木岐のさりげない気遣いは心地よい。
「まだまだお互い話してない事いっぱいあるでしょ!時間はたっぷりあるんだし、せっかくならこの状況を楽しもう」
「うん。そうだね」
木岐の言葉に同意するように明は力強く頷いた。
電気の切れた暗闇の部屋。外は唸るような暴風雨。
一人だったらどうなっていただろう。
心細くてマイナスなことを考え続けてしまっていたかもしれない。
木岐がいてくれて良かった。
ーー
気がつくと部屋の中に灯りが付いていた。
窓からは陽の光が差している。
「おはよう、四十万」
声が聞こえて明はパッと顔を上げた。
腕がジンジンと痛い。
どうやらテーブルに突っ伏して眠ってしまったていたらしい。
「・・おはよう、木岐」
どれくらい前から起きていたのだろう。木岐は頬杖をついて穏やかな表情でこちらを見つめていた。
「電気も復旧してるし台風もいっちゃったし。気持ちのいい朝だねぇ」
そう言うと、今度は木岐の視線は窓の外に向けられる。
明もつられて外を見ると、青空が広がっているのが見えた。
「・・今、何時だろ」
ぼんやりとした口調で呟くと、木岐がスマホを見て言った。
「もうすぐ8時。ちなみに今日は休講の連絡は一切なし」
「えっ!やばっ!一限あるんだった!」
明は慌てて立ち上がる。
「俺も!でも四十万がいつ起きるかこっそり賭けしてたんだよねぇ。起きないなら一限サボろうって」
「そんな賭けしなくていいから!!行く準備しなきゃ!」
のんびりとした木岐の腕を明は勢いよく引っ張った。
何か朝食をと思い冷蔵庫を開ける。ヒヤリと冷えた空気が漂ってくる。一通り中の物を確認したが停電の影響はなさそうだ。
けれど、昨日の夜中までお菓子を食べいたのでお腹は減っていない。
何時まで話していたのはわからないが、電気が復旧する前に寝てしまったことは確かだ。
そしておそらく自分の方が先に眠ったのだろう。
木岐の眠そうな顔を見た記憶がない。
先に眠くなった方が負けという勝負は、木岐の勝ちのようだ。
「四十万〜、とりあえず顔だけ洗わせてもらっていい?」
明が冷蔵庫の前でぼんやり立っていると木岐が洗面台のある脱衣所を指差して言った。
「あ、シャワーとか浴びる?!」
「いや、そこまではいいよ。時間もないしさ」
「う、確かに・・じゃぁ、タオル自由に使って!あと洗面台にあるものも使っていいから!」
「了解〜。ありがとう」
木岐は緩く返事をすると脱衣所の中へと入っていった。
それから二人は順番に顔を洗うと、何も食べることなく玄関を出た。
外はすっかり綺麗な青空だ。それでも昨夜台風がきたことは、周りに散らばった葉っぱ達が証明している。
明が玄関の鍵を掛けていると、ふと木岐が明の肩付近に顔を近づけてきた。
「えっ!なに!?」
明は驚いて少し仰反る。
「うん?いや、四十万の洗面台にあった寝癖直しをね、使わせてもらったんだけど」
「え?寝癖直し?」
「うん、すみません。やっぱりちょっと頭の臭いとか気になったもので」
木岐はそう言うとペコリと頭を下げた。
「あ、そうだったんだ。え、全然いいけど」
「あの寝癖直しすごい良い匂いするよね。今四十万も付けてるでしょ」
木岐が再び明の肩から頭の方へと鼻先を向けた。
「えぇ〜。ちょっとまって!なんか匂い嗅がれんの恥ずかしんだけど!」
明は笑いながら両手をパタパタと振る。それを見て木岐はフッと笑うと、明の頭をポンと撫でた。
「はは。ごめんごめん!でも別に良い匂いだから大丈夫だって」
「大丈夫でも恥ずかしいものは恥ずかしいから!ほら!いこ!本当に遅刻する!」
明は口先を尖らせると、木岐の手首を掴んで歩き出した。
「うん。四十万、今日は泊めてくれてありがとう。お邪魔しました」
木岐は明に引っ張られながら微笑む。
「また遊びにきてもいい?」
「・・うん。もちろん」
明もニコリと笑うとコクンと頷いた。
台風一過の綺麗な青空を見つめる。
心に溜まっていた未練が消化されたような気分だ。
木岐がいてくれてよかった。
楽しいことを共有すれば二倍になるように、寂しさや不安を共有すれば半分にできることを知れた。
彼と、この東京で出会えたことに感謝したい。
温かい感情がゆっくりと、けれど確実に大きく育っていく。
この気持ちにまだ名前はないけれど・・
名前をつけたら、何かが変わるだろうか—
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