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第19話
「台風来てるみたいだから明日は休講になりそうだよ」
ゼミ室に入るなり、彩葉がみんなに聞こえるように言った。
目の前に座っていた久ヶ原は小さくガッツポーズをする。
昴はパソコン画面を見つめたまま、帰りに図書館に寄って行こうかと考えた。
明日、家で出来る作業を進めておきたいからだ。
「あれ、やっぱり矢野君も同じ考えかぁ!」
図書館に入ろうとしたところで、弾む声が聞こえた。声の方に目をやると彩葉がニコニコとしながら近づいてくるところだった。
昴は一瞬唾を飲み込んだが、平静を装うように口を結ぶ。
「明日家に籠るなら、作業進めたいよね」
彩葉は学生証を取り出すと、図書館のゲートにそれをかざした。
「・・はい。俺もそう思ってここに来ました」
昴は相槌を打つと、彩葉の後に続いて図書館の中へと入った。
「最近はどう?後期に入って授業も難しくなってきたんじゃない?」
「そうですね。でも前期より時間割に余裕があるので大丈夫そうです」
「ふふ、1年生あるあるだ。前期はよく分からず詰め込んじゃいがちで後期でやっとペース掴めてくるよね」
「はい」
彩葉が笑うのを、昴は横目でこっそりと見つめる。彩葉の視線は前に向けられていて、こちらを見そうにはない。
「そうそう。矢野君一人暮らしなんだから、明日の台風にもしっかり備えておくんだよ」
「え・・」
「ベランダに飛ばされそうな物があったらしまっておくとか、食べ物飲み物買っておくとか。あ、あと停電になる可能性も考えて懐中電灯とかも」
「懐中電灯・・」
「ちゃんと用意してある?」
「・・いえ、そうですね。帰りに買っておきます」
「うん」
東京にきてすぐに、懐中電灯は買った。
けれどそれは自分用ではなかった。
明の家に置くことで満足し、自分のために買うことはすっかり忘れていた。
「じゃぁ、僕はあっちの方探しに行くから」
彩葉はピタリと足を止めると、右側を指差す。
そちらは海に関する本ではなく生物学に関する本が置かれている本棚だ。
「今は生態学からのアプローチで論文をまとめてて」
「あ、そうなんですね・・」
昴の視線が気になったのか、彩葉がフォローするように言った。
「じゃぁ、気をつけてー」
「あ、あの・・」
彩葉の挨拶を止めるようにして昴が声をかけた。
「彩葉さんも、台風気をつけてくださいね。なるべく家から出ないように」
「え・・ふふ。心配してくれるんだね」
彩葉は眉尻を下げて微笑みながら首を傾げる。
「・・当たり前です。彩葉さん、危なっかしいですから。足元にも気をつけてください。滑って転ばないように」
「・・・・ねぇ」
しばしの間の後、彩葉の綺麗な瞳がこちらに向けられた。
何もかもを見透かしたかのような視線だ。
彩葉は口元の笑みを消すと、真っ直ぐ昴を見つめて言った。
「もう、伝えたの?」
「・・・いえ、まだです」
「・・どうして?」
「・・夏休みが終わって、論文の修正とか後期の選択とかで落ち着かなかったので・・その、なかなか・・」
口籠もりながら言う昴を見て、彩葉はフーと息を吐いた。
「足踏みしちゃってるんだね。先延ばしにしちゃうと、余計に一歩が重くなるよ」
「・・はい」
昴は小さな声で返事をする。
彩葉は慰めるように昴の肩を優しく叩いた。
「・・大丈夫。僕は君の『味方』だよ。戦友だと思ってくれてもいい。僕は僕。君は君で戦って・・それで時々、疲れたらゆっくり話したりしようね」
「っ・・・」
彩葉のその言葉を聞いて昴は下唇を噛み締める。
それから昴は彩葉の瞳を逸らさずに小さく頷いた。
「・・はい。ありがとうございます・・」
「うん。じゃぁ、またね」
彩葉はニコリと笑うとスタスタと歩き始めた。
昴はその背中が見えなくなるまで見送る。
簡単に壊れそうな細くて小さい背中。
あの夜・・その背中に両腕を回し、抱きしめて一つになろうとした。
お互いの意思で触れ合ってみようと・・
ーー
彩葉の肌から、微かに甘い匂いがして昴の心臓が跳ねた。
Ωが興奮すると漂ってくるフェロモンかもしれない。
けれど、それに流されてはいけない・・
まだ抑制剤も効いている。
昴は自身の気持ちを落ち着けるようにゆっくりと息を吸い込み吐き出した。
部屋の電気は消してある。
けれど暗闇にはぼんやりと彩葉の真っ白な肌が浮かんで見えた。
「・・ねぇ、なんだかすごく・・焦ったいね」
昴の下で彩葉は頬を紅潮させながらじっと見つめて言った。
「え・・・」
「・・矢野君の唇がゆっくり肌をなぞってくるのがくすぐったくて。こういうのを・・愛撫っていうの?」
「・・・」
触れ合いを始めてから三十分ほどが経った。
彩葉が初めてだということを考えて、ゆっくり焦らずそして慎重に進めることにしたのだが、それがどうやら彼には焦ったいようだ。
「あ・・はい、すみません。長かった、ですか?」
昴は被さっていた身体を起こし、小さな声で謝る。
「ううん。こういうものなのかぁ、って思っただけ。矢野君、僕のこと壊れ物みたいに丁寧に触ってくれるから・・それがなんだか気恥ずかしくて」
「・・・彩葉さんの、大切な身体ですから・・」
昴が言うと、彩葉は目をパチパチとさせた後伺う様な顔で聞いた。
「ねぇ・・いつも、身体を重ねる時はこういう風にするの?」
「え・・」
「こうやって、丁寧に優しく。これが矢野君のやり方?」
「・・・」
丁寧に、優しく。傷つけないように。大切に・・
確かに、いつもそう思っていた。
けれど・・気がつけばあの子の身体を、心を自分のものにしたいという欲望が大きくなっていく。
そして誰にも触れられないようにと、自分の痕跡を残すことばかり考えるようになっていた。
あの感情は・・やはり、αの本能からくる支配欲だったのだろうか。
自分がαでなかったら、もっと優しく大切にすることができたのか・・・
「あっ、ごめん。僕すごいデリカシーのないこと聞いちゃったかな・・」
黙り込む昴を見て、彩葉はパッと両手で自分の口を塞いだ。
「過去の体験を聞くのはよくないよね。しかも今、こうやって触れ合ってる最中に・・」
「・・・いえ・・でも、彩葉さんに触れるのは今日が初めてですから。過去は何も参考にならないはずです。感じ方は人それぞれだと思うので・・」
「・・・」
「続き、してもいいですか?」
「・・うん」
昴の言葉を聞いて何か安心したのか、彩葉は先ほどよりも柔らかな表情で頷いた。
お互い上半身は何も身につけていないが、まだ下は衣服を身につけている。
昴は彩葉のクロップド丈のパンツに手を掛けるとゆっくりと引き下げていった。
「っ・・・」
彩葉の肩がピクリと揺れる。少し恥ずかしそうに頬を染めると視線を横に逸らした。
昴は下着の上から彼の膨らみに手を添える。
そこは小さく震えながらもちゃんと起立していた。
優しく丁寧に・・
これより先に進めば・・止まらなくなるかもしれない。
この、綺麗な身体を本当に汚していいのだろうか。
昴はゴクリと喉を鳴らす。
確かに心臓はドクドクと早く脈打ってきている。
欲情が高まってきているのか。
「・・矢野君、きて・・」
ポツリとと小さな彩葉の声が聞こえ、昴は触れていただけの手をそっと動かし始めた。
最初は布越しに。それからそこが熱くなり始めたのを感じ、下着の中に手を入れた。
「あっ・・・」
彩葉の喘声が漏れた。
「ぅう、ん・・あっ・・ぁぁ」
上下に擦り始めるとさらにそれは強くなる。
「ぃ、いや・・や、矢野くん・・」
その声を聞いて昴は手の動きを止めた。
「あ・・す、すみません・・」
急すぎただろうか。そう思いそこから手を離そうとする。
しかし「あっ、ち・・違う」と彩葉は言うと、昴に縋るような視線を向けた。
「大丈夫・・やめないで・・その、気持ちよくて・・驚いただけだから・・」
「・・本当ですか?」
「うん、お願い。続けて」
「・・・はい」
昴は再び彩葉の起立をゆっくりと扱き始める。
彩葉は目を瞑ると、与えられる快楽を我慢するように肩を硬らせた。
そこはどんどんと熱く固くなっていく。
「ぁっ・・あっ・・はぁ」
ビクビクと身体を震わせる彩葉の目にはうっすら涙が浮かんできた。
「ぅん・・ぁぁ、きもち、ぃい」
彩葉が熱を持った視線で昴を見つめる。
その瞬間、ブワッと強く強烈な匂いが広がった。
昴はハッとして背筋を伸ばす。
甘ったるい匂いが直接頭に浸透してくるようだ。
体が熱くなり、心臓は痛いくらいに早い。
「や・・やのくん・・」
彩葉の瞳からポロポロと涙が溢れてきた。
火照った全身を引くつかせ縁の赤い瞳をこちらに向ける。
「ぁっ・・あつい・・からだが・・や、やのくん・・」
昴はゴクリと唾を飲み込んだ。
ー彼の中に入らなくては・・
瞬時にその考えが頭をよぎった
ー自分の昂りを入れ、彼の中に欲情を吐き出す。
そうして、彼と一つに溶け合いたい・・
そう思っているのに・・
身体が動かない。
頭の中は彼と一つになることでいっぱいなのに。
αとしての本能が湧き上がってきているのに。
彼を欲するこの感情が本能によって引っ張り出されただけだと・・まるで別の自分が俯瞰的に見ているみたいなのだ。
身体は熱く震えるほど興奮しているのに、その熱とは裏腹に心だけ冷静になろうとしている。
「や・・やのくん」
苦しそうに自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
涙がとめどなく溢れてきている。
「お願い・・やのくん、たすけて・・」
荒い息遣いで肩を揺らしながら彩葉が乞うような瞳を向けた。
「彩葉さん・・」
昴は唇を硬く結ぶと再び彼の熱を持った起立を扱き始める。
「ぅう・・あっーぁっ・・」
「・・っ」
彩葉の身体が熱くなるほどに甘く強烈な匂いも増していく。
昴は口をキツく噤んだまま、苦しそうな彼の熱を解放することだけに気持ちを集中させた。
「・・っ!あっ!あぁ・・」
彩葉がビクッと痙攣させ背筋を反らす。
それと同時に昴の手のひらに温かい白濁の液が広がった。
「・・ふっ・・はぁ・・はっ・・」
彩葉は荒い息遣いのまま、ベッドの上に全身を預けるように倒れこむ。
身体は微かに痙攣を続けていて、まだ苦しそうだ。
「・・彩葉さん・・」
その様子を見て昴がそっと彩葉の肩に手をおこうとした時だった。
「触らないで!」
彩葉が大きな声で叫び、昴は驚き手を引っ込めた。
「・・や、やのくん・・薬、くすり・・取って!」
「え・・で、でも・・」
「あるから!・・明日の分、本当はあるから!だから、早く!」
彩葉の気迫に押され、昴は急いで立ち上がると彼の鞄の中を探った。
昨日薬を飲むときに見たピルケースが目に入る。
確かに、そこにはまだ二錠薬が残されていた。
昴はそれを取ると彩葉の方に持っていく。
彩葉はそれを素早く受け取ると震える手で口の中に放り込んだ。
それから長い深呼吸をして彩葉は胸を上下させる。ゆっくりと、落ち着くように呼吸を整えているようだ。
ほどなくして、胸に手を当てたまま彩葉がこちらに目を向けた。
「・・大丈夫。落ち着いてきたから」
「・・・」
「矢野君、顔洗っておいで・・」
「え・・」
「唇、切れてるよ。血がついてる」
そう言われ慌てて口を拭うと、手の甲に赤い血がべたりとついた。
「かなり強く噛み締めたんだね。息を・・しないようにするためだったのかな?」
「・・いえ、これは・・」
「抑えてたんでしょ。呼吸を止めて匂いを嗅がないように。引きずられないように・・」
「・・・」
「いいよ、大丈夫。顔洗ってきたらゆっくり話そう」
「・・はい」
昴は視線を下に向けると、小さな声で返事をした。
それから、改めて二人は服を着ると向き合うようにしてお互いのベッドの上に座った。
しかしいまだに昴は俯いたままだ。
どう、言えばいいのか。何から、聞けばいいのか。
頭が整理できていない。
しんと音のない部屋で先に声を出したのは彩葉だった。
「・・ごめんね。騙すようなことして」
「え・・」
昴はそっと顔を上げる。
こちらを申し訳なさそうに見つめる彩葉と目が合った。
「本当は・・薬残ってたのに。嘘ついたから・・だから、ごめんね」
「・・なんで、そんなこと、を・・」
掠れそうな声で恐る恐る聞く。
すると彩葉は迷うように瞳を上下にさせ、小さく息を吸ってからゆっくり言った。
「矢野君の未練を、断ち切らせてあげたかったから」
「・・・え」
「昨日の夜、矢野君うなされてたよ。まるで小さい子みたいに『待って』って泣きそうな声出してた」
「・・・っ」
昴はグッと息を呑み込み片手で口を覆う。
「・・あの、他に・・なにか、言ってました、か?」
「うーん。はっきりとした言葉はわからなかったけど・・とにかくずっと悲しそうだった。眉を顰めてさ。起こしてあげたほうがいいのか迷ったもん」
「・・そう、だったんですか。すみません・・」
昴は項垂れるようにして下を見つめた。
そして昨日見た夢を思い出す。
いつもなら夢のことなんてすぐに忘れてしまうのに、昨日の夢はハッキリと覚えている。
夢の中とはいえ、久しぶりに明と話したからだ。
ただ、彩葉の言う通り楽しいものではなかった。
「昨日の、その矢野君の様子を見て・・なんとかしてあげたいなと思ったんだ。こんな、いつまでも辛くて悲しそうな気持ちは早く忘れさせてあげたいって」
「・・・」
昴は再び顔を上げると彩葉を見つめた。
彩葉は柔らかな表情を浮かべている。
「僕は、恋愛経験は乏しいけれど・・一緒にいて楽しくて安心できる人と恋人でいたいと思うんだ。恋愛に心が乱されたり振り回されて疲れちゃうのは嫌かな。矢野君はどう?」
「・・え」
「君は・・僕といる時はどう感じる?前の、恋人とはどうだった?」
「・・・」
昴は口を一文字に結び頭の中で思考を巡らせた。
それから彩葉といる時の自分と、明といた頃の自分を思い出しながら慎重に口を開いた。
「・・彩葉さんと過ごしていると、気持ちがとても落ち着くんです。感じ方や考え方が近いから、彩葉さんのどんな言葉も素直に受け止めることができるし安心して聞くことができます。こんなに一緒にいて・・穏やかな気持ちで過ごせる人は、初めてだって・・思ってます」
「・・・うん」
彩葉は口角を上げながら小さく頷く。その様子を見ながら昴はゆっくりとした口調で続けた。
「・・前の、恋人といた時は・・顔が、見れないと寂しくて・・そばにいないと心配で・・今何をしてるんだろうとか、誰といるんだろうとか考えると落ち着かなかった・・」
「・・・」
「自分に、自信もありませんでした。俺はあの子に会えるだけで幸せだったけど、俺自身はあの子を幸せに出来るだけの存在になれているのかって・・それを確かめるのも怖かった・・いつもどこか不安に思ってました」
「・・・うん」
彩葉は再びゆっくり頷く。それから一度下を向いてから顔を上げると、昴の瞳を真っ直ぐ見据えて言った。
「・・矢野君は、どちらの人と恋人でいたい?」
「え・・・」
「一緒にいて心穏やかに落ち着つける人か、一緒にいて苦しんだり悩んだりするけれどそばにいて欲しい人か」
「・・・」
「僕なら・・さっきも言ったけど前者だな。恋人とは穏やかな気持ちで一緒にいたいもの」
「・・俺、は・・」
昴は口を噤むと彩葉から視線をずらした。
早く答えなくては・・
心で焦りながらも、すぐ返答できない迷いを見透かされそうで彩葉を見ることができない。
わかっている。
どう考えたって、恋人として共に過ごすなら安心できる相手が一番だ。
穏やかで楽しくて理解し合える、この人といることが幸せなのだと・・
「・・どうやら君は違うみたいだね」
「・・・」
彩葉の言葉で昴は視線を戻す。すると彩葉は眉尻を下げ微笑みながら言った。
「矢野君とは、気が合うと思ってたんだけどなぁ。でも恋愛に関しては気が合わないみたいだね、僕達」
「・・・」
「恋愛の価値観が違うなら、恋人ではいられないね」
そう言って彩葉はニコリと笑った。
「・・彩葉さん・・」
「そんな申し訳なさそうな顔しないでよ。僕達はもともと『恋人とは何か』を考えるために付き合ってみたんだから。お互いの考えがはっきりわかったんだから意味はあったでしょ」
彩葉はポンと昴の肩を叩いた。
努めて明るくいてくれようとしている。
ならばこちらも、誠実に応えなくてはいけない。
昴は言葉を選ぶようにして話し始めた。
「・・彩葉さんの考えが・・正解だって俺も・・思ってます。安心できる人といたいって・・その考えは、一緒です。でも・・頭で考えていることと、心が求めていることが・・きっとチグハグで・・俺は・・ただ、ずっと・・心の中にあの子の場所を作っておきたい・・もう気持ちが繋がらなくても、あの子の存在を消すことができない・・寂しくて不安でも、あの子がいる世界を・・生きていきたいんです」
「・・・この先、君は一人だとしても?その子が、他の誰かと歩み始めてても?」
「・・はい。あの子がいない世界を生きるくらいなら・・・」
そう言いながらも心は揺れる。
明が誰かと結ばれる世界を想像すると胸が騒つく。
それでも・・・この空虚な気持ちのまま生きるよりは、彼を想う気持ちでその穴を埋めていたい。
「さっき、あの子のことを幸せにできるか不安だったって言いましたけど・・そもそも、こんな考えの俺じゃ、あの子以外の人のことを幸せにはできない。だから・・俺は、一人でいいんです・・」
「・・・・」
彩葉は何も言わずにふーと長く息を吐く。
それから首を傾げながら言った。
「さっき・・思ったんだ。君に触れられながら・・運命の番って、相手を欲するっていうより、共同体っていうか・・離れてた半身を見つけたから元に戻りたい、みたいなそんな感覚なのかなって」
「・・・」
その言葉を聞いて昴は目を見開く。
「だから、君は一人じゃないよ。僕は君の半身。ただそれは恋愛とか、そういうのとは違う。離れていても理解し合える。僕達はそうい関係でいれたらいいよね」
「・・・彩葉さん」
「君が、君なりに幸せを掴みにいくのを応援してるよ」
「・・・」
彩葉の強く優しい眼差しを見つめ昴は唾を飲み込んだ。
「彩葉さんが・・幸せになることを、俺も望んでいます。あなたが、悲しむようなことがないように・・何かあれば俺もあなたを支えられるように、頑張ります」
「えぇ〜。それはどうかなぁ。矢野君なんだかんだ頼りないからなぁ」
彩葉はおちゃらけたように言った。
「まぁ、困った時は相談するかもしれないけど。でも、僕は僕。君は君だから。君が本当に1番大切にしたい人を大切にするんだよ。僕だってそうするから」
「・・・」
「僕達は絶対的な味方。ね?」
その言葉を聞いて、昴の心がフッと軽くなる。
『味方』
そういう考え方は思いつかなかった。
けれど、なぜだかしっくりとくる。
二人の関係を表すのにピッタリな言葉な気がした。
「・・はい」
昴はやっと口元を少し緩めて頷く。
彩葉も昴の表情が和らいだのを見てニコリと笑う。それから上目遣いで伺うように聞いた。
「・・矢野くんは、もう一度気持ちを伝えにはいくの?」
「え・・」
「前の恋人に。今もずっと想ってるって」
「・・・」
彩葉の問いに昴は口を閉ざして考え込む。
自分の気持ち。その答えは先ほど導き出した一つしかない。
きっとこの先も、何があっても揺るがない明への感情。
「・・・そう、ですね。あの子が、聞いてくれるなら・・まだ俺のことを、少しで考えてくれているなら」
「・・矢野君って、本当αらしくないよねぇ。もっと自分に自信持ちなよ」
彩葉が元気づけるように腕を叩いた。
「少なくとも、君の気持ちの強さは本物じゃない?なんたって運命も跳ね除けるくらいなんだから」
「・・・」
「僕、思うんだけど『運命の番』って本能や魂に最初から刻まれているものなのかなって。けど、それよりも自分で選んで刻んだ気持ちの方がよっぽど強固で信頼できる気がするんだ。だから・・ね、自信もって?」
「・・はい、ありがとうございます・・」
「うん」
二人きりの部屋が先ほどよりも温かく居心地がいい。
熱を求め合おうとするより、きっとこうやって穏やかに話し合う方がこの人とはあっているのだと、昴はそう思った。
ーー
いつも通りの時間にスマホのアラームが鳴った。
身体が重い。
まだ瞼は閉じたままだが、台風がきていることがわかる朝だ。
今日は彩葉が言っていた通り休講になった。
何時ごろ起きようか。そんなことを考えながらベッドの上で横に寝返りを打つ。
それからぼんやりと昨日の彩葉とのやりとりを思い出した。
夏休みが終わり、彩葉とは再び普通の先輩後輩となった。
あの一晩のことを話すことはない。
触れ合ったことなどまるでなかったかのように、笑顔で挨拶し会話をする。
おそらく自分の方がまだ意識してしまっているのだろう。
盗み見るように彩葉の様子を窺ってしまうことがある。
この先、自分は彼の『味方』であっても、助けてあげられない事がある。例えば・・彩葉にヒートが起こってももう触れることはしない。出来ない。
だから、少しでも早く彼を救えるような存在が現れてほしい。幸せに出来る人と出会ってほしい。
そんな、自分本位な考えが浮かんでしまうたびに、こんな自分では明には会いに行けないと躊躇ってしまっていた。
けれど昨日彩葉は言っていた。
『戦友』だと。
きっと彼には見透かされていたのだろう。
こんな情けない考えが。
発破をかけてくれたのだ。『僕は僕で戦っているのだから、僕のことは気にしないで大丈夫』だと・・
そうやって背中を押してもらったのだから、こちらもちゃんと動かなくてはいけない。
動いてもう一度、ぶつかりにいかなくては。
明に拒否される可能性があっても・・
自分の気持ちをもう一度、明に伝えてせめて知っていてもらいたい。
ずっと・・想っていることを・・
時間が進むにつれて窓に当たる雨や風の音が強くなっていく。
昴は昼食を食べ終えるとテレビをつけて台風の状況を確認した。
どうやらほとんどの電車の路線がすでに運休しているようだ。
明の最寄りの路線も動いていない。
・・大丈夫だろうか。
昴は外の様子に目をやりながら思った。
東京に出てきてから、こんなに大きな台風がやってくるのは初めてだ。
おそらく明の大学も休講にはなっているだろう。
部屋は二階だから浸水の心配はないと思うが、ベランダに出しっぱなしの洗濯に使うハンガーなどはしまっていないかもしれない。
昴はスマホの画面を見つめた。
電話を・・いや、せめてメッセージを・・気をつけてと一言伝えてもいいだろうか。
それからしばらくの間考え込んだが、一つため息を吐くと昴はスマホを机の上に置いた。
久しぶりに連絡を取るのに、このタイミングはきっと違う。
何かのキッカケをダシにして連絡をするのではなく、ちゃんと改めて話をしたいと思っているのだから。
明だってもう大人だ。
別れているのに過保護に心配されては煩わしく思われるかもしれない。
今日は、控えておこう。
昴は頭を切り替えると、雨と風の激しく打ちつける音を聞きながらレポートを書き始めた。
じっと画面を見つめ集中して指を動かし続ける。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。気がつくとお腹がグルルと空腹の音をあげた。
時刻を確認すると夕飯を食べる時間はとっくに過ぎている。いつもならそろそろ寝る準備を始める時間だ。
昴はパタンとパソコンを閉じた。
料理を作る気力はないが何か食べなくては。
そんな事をぼんやりと思いながらもなかなか重い腰が上がらない。とりあえずデスクから離れローテーブルの前にやってくると、テレビの電源を入れた。
パッと画面が映される。
画面の上に『台風関連情報』が流れていくのが目に入った。
その中の一つを読み目を見開く。
『停電』と書かれた後の地区が気になったからだ。
その文字はすぐに横に流れていっていってしまったが、確かに書いてあった。
明の住んでいる場所が・・
昴は急いでスマホを手に取る。それから再度停電情報について調べた。
「・・・やっぱり」
停電が起こっている地区の一覧を見てボソッと呟く。
思った通り明の住んでいる地区で停電が起こっているようだ。
連絡してみようか。
そう思ったが、電気が使えない状態で下手に明のスマホの充電を減らすようなことはしてはいけない。
それにこの時間ならもしかしたらもう寝てしまっていることも考えられる。
電気も使えず外にも出れない夜なら、さっさと寝てしまう方が賢明だろう。
けれど・・東京に出てきて、一人で過ごす台風の夜に真っ暗な停電。
明は心細くはないだろうか。不安になってはいないだろうか。
停電の街では空き巣などの犯罪も起こりやすいと聞く。
考えれば考えるほど悪い想像が浮かんでくる。
昴は公共交通機関の情報を確認した。
電車はどこも運休している。
これでは今から様子を見に行くのは無理だ。
しかし台風は夜のうちに過ぎる予報になっていて、明日の朝からは通常通り運行する予定になっている。
明日の朝・・様子だけでも見に行こうか。電気がまだ止まっていたら、何か困っているかもしれない。
もし行ってみて・・それで、何もなければそれでいい。
無事でいるのを確認できたのなら・・
・・・
綺麗な青空を見上げる。
台風は一晩で去っていったようだ。
電車も予想した通り朝から動いていた。
昴は明の家の最寄駅で降りた。
通勤通学の時間と被っていることもあり、皆忙しない顔で駅へと入っていく。
街の様子を見る限り電気は復旧しているようだ。
急に押しかけたらきっと驚かせてしまうだろう。
けれど、あんなことを言って別れを告げた手前・・
どう切り出していいかわからないまま、ここまで来てしまった。
もし一限から授業がある日ならそろそろ家を出る時間のはずだ。
昴はゆっくりとした足取りで明のアパートへと向かった。
もしこの道中で会えたならなんと声をかけよう。
『少し心配だったから』『大丈夫だった?』
そんな風に何気ない口調で言えるだろうか。
もし『どうして?』と聞かれたら、彩葉とは別れたことを告げもう一度・・明に告白を・・
そんなことを考えながら歩いている間に明のアパートの近くまで着いてしまった。
昴はそこで足を止める。数十メートル先に明のアパートと、そこにある明の部屋の玄関が見えた。付き合っている時は、それが見えたら早く明に会いたくて早足になった。
けれど今日は違う。
ここからどう動くべきか迷い、足が止まってしまった。
ここに来るまでに途中で会うことはなかった。
まだ家にいるということだろう。
昴はじっと明の玄関を見つめる。
もし明が出てきたらまずはここから様子を窺って、近づいてきたらそれとなく声をかけようか・・
そして、それから・・
そんなことを思案している時だった。
玄関の扉がゆっくりと開いた。
—明が出てくる。
身体が期待と緊張で強張った。
しかし・・次の瞬間には胸を一突きされたような衝撃が走った。
玄関から出てきたのは明ではなかったからだ。
明よりも背が高く柔らかな佇まい。
水族館で明と一緒にいた人物だ。
確か名前は『木岐』といっただろうか。
その木岐が扉の中に向かって何か言っている。
すると玄関から飛び出すように明が出てきた。
明は木岐に話しかけながら鍵をかけている。
「・・・」
昴はその光景を手のひらを握りしめながら見つめた。
この時間に二人で部屋から出てきたということは、明の家に泊まったということだろうか。
あの、明の部屋で・・二人で一晩を明かしたと・・
昴が見つめていると、ふと木岐が明の方へと近づいた。
それから明の首筋に顔を近づける。
まるで首元にキスしているようだ。
木岐は顔を上げると今度は明の頭の方へと鼻先を近づける。
明が恥ずかしそうにしながら笑みを浮かべると、木岐も釣られるように笑って明の頭を優しく撫でた。
そして二人で手を取り歩き始める。
それを見た瞬間、昴は急いで駆け出した。
このままでは鉢合わせしてしまう。
しかし駅に行けばまた会ってしまうかもしれない。
昴は角を曲がり一つ隣の道に入ると二人が通り過ぎるのを待った。
二人は昴のことには気づくことなく、談笑しながら通り過ぎていく。
その懐かしく愛おしい笑い声が耳に響き心臓がキュッと痛くなった。
二人の後ろ姿が見えなくなるのを確認すると、昴は再び明のアパートの近くまで戻りそれを見上げた。
東京に出てきて、初めて明の家を訪れた時。
明に我儘なお願いをした。
『友人でもこの部屋で二人きりにはならないで欲しい』と・・
自分勝手な頼みだったと思う。醜い嫉妬心から出た言葉だ。明を信用していないわけではないのに。
ただ嫌だったのだ。明が自分以外の誰かと二人きりになるのが。
あの時、明は快く了承してくれた。笑顔で受け入れてくれた。
けれど・・
もうあのお願いは自分との関係が切れた時点で反故されたのだ。
当たり前のことなのに。
それなのに・・こんなにもショックを受けている自分の愚かさが情けない。
明を抱いたあの部屋で、俺に抱かれたあのベッドで・・
二人で寝たのだろうか・・
昴はハッとすると思念を振り払うかのように顔を横に振った。
こんなところで何てことを考えているのだ。
明は今、自分の恋人ではない。
誰と居ても、どう遊んでも、付き合っていても・・問題ないのだ。
一度、手放してしまったのだから・・
気持ちを、伝えようと思っていた。
いや、今も思っている。
覚悟はしていたことだ。
もしかしたらもう、手遅れかもしれないことを。
それでも・・
明を想うこの気持ちだけは、手放せない。
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