14 / 33

第13話

前世も今世も含めて、他人からここまでの愛情を振り向けられたことなどなかった。大きな身体ですっぽりとジュセルの身体を包み込んで抱きしめてくるケイレンに、何も言えないし身動きすることもできない。 しばらく、抱きしめられたまま二人はそこに佇んでいたが、最後にきゅっと力を入れるとそっと腕を外された。 身体を覆っていたぬくもりが、すうっと冷めていく。 その感覚に戸惑っているうちに、ケイレンは優しく微笑んで「じゃあ出かけてくる」というと、一度自室に戻ってそのまま出かけていってしまった。 ケイレンが出かけていく足音を聞きながらぼうっとしていたジュセルは、ばたん、と扉が閉まった音を聞いてようやくハッとした。 「か、片づけなきゃ‥」 朝食に使った皿やカップなどを台所に運び、鍋と一緒に洗った。すべてを洗い籠に収めてから、はーっと息を吐いてずるずるとその場にうずくまった。 「‥流されすぎ‥」 人は好意を示してくれる存在には、ここまで心のガードが下がるものなのだろうか。 ケイレンの身体のぬくもりを思い出すと、また顔が熱くなってきそうだ。 まずいって、ちょろすぎるって俺。 ‥‥やっぱり、俺って、「男」が好きだったんだろうか。 ジュセルは両手でパン!と頬をひっぱたくと掃除道具がしまってある場所に行って道具を取り出し、水を汲んで自室の窓を磨き始めた。 そのまま自室のガラス窓を全部磨き上げ、一階に二つある浴室の、片方の浴槽を掃除したところでぐったり疲れて座り込んだ。とはいえ、掃除は無心で続けられるから好きだ。特に、この家はまだどこもかしこも掃除のし甲斐がありすぎるほどだから、場所に困ることはなかった。ふと気がついて外を見れば日は高く昇っていて、とっくに昼を過ぎてしまっているようだった。一人しかいないし、昼食は何か買いに行くか、と前掛けを外して自分の財布を持った。 家から歩いて十分もしないところに品のいい市場通りがあった。生活に必要なものはたいていここでも揃えられそうだ。昨日買い物した場所は、イェライシェンの中でも一番の繁華街だったが、ここは生活に密着した店が多く価格もそこまで高くはない、 昼時ということもあって屋台もいくつか出ていた。市場通りの真ん中にはちょっとした広場があり、近くの住民や職人たちなどが思い思いに座って何か食べている。ジュセルはパルジャというサンドイッチのようなものを買った。パルトの実という大きな実に、塩梅よく火を通すとパンのようになる。それに野菜や肉を挟んだサッカン大陸ならどの国でも見かける軽食だ。まれに甘い果実やクリームなどを挟んであるスイーツのようなパルジャもある。パルトの実はサッカン大陸なら比較的どこでもとれる作物だが、火入れの加減が難しく、なかなか自宅で焼く者はいない。 ジュセルはホロ鳥の肉と野菜を挟んだパルジャを買って、広場の縁石に腰かけた。足を投げ出すように座ると、腰に少し痛みを感じた。少し掃除を頑張りすぎたかもしれない。 (でも、おかげで今日は風呂に入れそうだ) 身体の軋みに顔を歪めつつ、パルジャにかぶりついた。甘辛いたれがよくしみていて旨い。食べ始めれば空腹だったのがよくわかって、あっという間に食べ終えた。 投げ出した足を見て、靴がかなり傷んでいるのに気づく。どうしても身の回りのものに金をかけることができなくて、何度も直しながら履いていた靴だ。この国で一般的に履かれている、足首までを覆うショートブーツである。足底が分厚い板になっており、それに靴下のように柔らかい革が打ちつけてある。横を革ひもで編み上げるものと金具で止めるものがあるが、ジュセルのはひもで編み上げるタイプの靴だった。そのひもも随分ほつれが見えてきている。 当分の間、家賃は浮きそうだし、寝台を買うための金も浮いた。靴くらいは新調しようか、と思って立ち上がり、靴屋を探すことにした。 広場から少し奥に入ったところにある、小さな靴屋を見つけてそこに入ってみた。中にいるのは二十代後半ほどに見えるレイリキシャだった。愛想はなく、ジュセルが入ってきた時もちらりとこちらに目をやっただけで何も言わない。 こういう店の態度にも今は慣れたが、小さい頃は『日本の接客』が頭にありすぎて違和感が半端なかった。いつも店のヒトは怒っているような気さえしていた。だから陽気で人当たりのいい店の者がいるところでは心からほっとしたものだ。 だが、今ではそこまで気にすることもなくなった。むしろ気を遣わずに買い物ができていいと思えるようになっていた。 いくつか見繕ってサイズを見てもらうと、店員は細かくジュセルの足のサイズを測ってくれて左右違うサイズを持ってきてくれた。ヒトの足は微妙に左右でサイズが違うらしい。親切な対応に思わず笑みがこぼれた。 軽くて履きやすいものと、丈夫だがやや重いもの、二つで迷って唸っていると、店員が初めて話しかけてきた。 「若者(ワクシャ)は仕事は何してるの?」 「初級請負人(カッスル)になったばっかりだ」 レイリキシャは少し考える様子を見せた。 「仕事は警護が多い?採取や配達が多い?」 「最初は採取や配達が多いと思うな」 「採取と配達ではどちらが多くなりそう?」 細かく訊かれて、う~んと顎に手を当てた。 「慣れてるのは採取の方だから、採取が多くなるかも‥」 ジュセルがそう答えると、レイリキシャの店員は重いが丈夫な方を指した。 「なら多少重くてもこっちの靴の方がいい。足場の悪いところでも歩きやすいし、虫や毒草にも負けないからね。配達で街を歩くことが多くなってきたら、軽いものを買い直せばいいさ」 「そうか、ありがとう」 ありがたい助言を受けて靴を包んでもらった。今履いている靴も、近くを歩くくらいならまだ使えるだろうから、と言って長さの半端な革ひももおまけしてくれた。重ねて礼を言うと、レイリキシャは無表情なままひらひらと手を振った。 店から出ようとした時、別の客が入ってくるのに行き当たった。それを避けようと棚の方へ身を寄せていると、客が「あら」と言ってジュセルの顔を見た。 「あんた、ケイレンさんにべたべた引っ付いてたキリキシャね?ヤーレさんにも色目使ってた」 「‥はぁ?」 どこをどう見れば、あの場面をそうとらえられるのか。しかもヤーレに色目なんぞ使ったことはないし何なら色目の使い方もわからない。 「あたしはずっとケイレンさんを見てたの。だからわかるわ。ケイレンさんは見知らぬヒトにあんな態度を取るヒトじゃない。どんな弱みを掴んで脅してるのよ!?」 知らんがな。 ジュセルはあきれ果てた目で、怒りと嫉妬に顔を歪めている見知らぬレイリキシャを眺めた。 「俺、あんたのことだって知らないし、昨日までケイレンのことだって知らなかったけど。勝手にあっちが騒いでただけだ」 「なんっ‥あんた何様のつもりなのっ!」 ジュセルより少し大柄なそのレイリキシャが右手を高く上げたとき、後ろから靴屋のレイリキシャがぱしっとその腕を掴んだ。 「あたしの店で揉め事はごめんだよ。‥というか、あんたみたいなキャンキャンうるさいヤツに売るもんなんかないからとっとと出て行きな」 靴屋に掴まれた腕をばっと振り払い、レイリキシャはジュセルと靴屋の店員を交互に睨みつけながら店を出て、荒々しく扉を叩きつけていった。 靴屋の店員は、ふん、と鼻を鳴らして扉の様子を確認して店内に戻る。ジュセルは申し訳ない気持ちになって頭を下げた。 「俺のせいで客を逃がしちまったな‥すまない」 「‥こっちにだって売る相手を選ぶ権利くらいあるさ。気にするこたない。ただ‥あんたは『黒剣』の知り合いなのかい?」 「‥くろつるぎ?」 靴屋のレイリキシャはいくつか出していた靴を棚にしまいながら言った。 「二級請負人(カッスル)のケイレンだよ。腕もいいし見栄えもするから有名なマリキシャだね。無愛想でそっけない奴だけど、人気はあるしあいつを崇めてるような奴らもいる。‥その『黒剣』に気に入られちまったのなら‥また厄介ごとはあるかもしれない。せいぜい気をつけな」 店に入って来た時のそっけない態度とは裏腹に、店員はジュセルに助言をしてくれた。これまで全くそういう噂を耳にしてこなかったジュセルは、驚きながらも重ねて店員に礼を言って店を出た。 自分が望んだことではないが、これからもああいったやっかみを受けることがあるのだろうか。 そう考えると、晴れ渡った空とは裏腹にジュセルの心は重く沈んだ。

ともだちにシェアしよう!