16 / 33
第15話
ハリスの上がっていた口角がすっと下がった。ティーカップを静かに下ろして正面からケイレンの目を見据える。ケイレンも怯むことなくその視線を受け止めた。
「‥‥理由を聞いてもいいかい?」
「それは私的なことですからお答えできません。当面、警護の仕事や日をまたぐ仕事は受けないことにしています」
ハリスは左手首に嵌まっている腕輪を無意識にさすりながらケイレンを見つめ、にっこりと笑った。空気が揺らぐ。ハリスがシンリキを出せるだけ出しているな、とケイレンは思った。
シンリキはヒトの精神に働きかけられる力だ。精神的に病んでしまったり記憶を失ったりした人の治療に使われることが多い。ゴリキ(五つの力)の中で、最も高能力者 が少ないのがシンリキシャである。シンリキの高能力者 は、やろうと思えば人を精神的に操ることさえできるのだ。それを防ぐために、シンリキのコウリキシャは多くの場合、早い段階で能力制限の装身具着用が義務付けられている。着脱は国の機関でないとできないことになっており、これはサッカン十二部族国だけでなく、他の国や大陸でも同じような対応になっている。
腕輪に制限された中でも最大の力を、ハリスが自分に向けているのがわかったケイレンは、心を強く持ちジュセルの姿を思い浮かべた。心がすうっと凪いでいくのがわかった。
ハリスはしばらくじっとケイレンを見つめていたが、何の変化も見えないのを見るとふう、と息を吐いた。そして再びティーカップを持ち上げ、お茶を口に含んで飲み込んだ。
「‥‥当面、っていつまで?」
「まだ詳しくは決めていませんが‥長引く可能性はあります」
「伴侶を見つけたの?」
急に核心に切り込む質問をされ、ふっと自分の表情が揺らいだのをケイレンは感じた。心を引き締めながら答える。
「‥‥好きだ、と思うヒトには出会いましたが、相手からの好意はもらっていません。‥相手は関係ありません」
「そう」
ハリスは短くそう言うと、机の上に置かれた酒の包みを手に取った。
「お気遣いありがとう、開けてもいいかな?」
ケイレンが頷くと、酒の瓶を包んでいた布をハリスが取り去った。琥珀色の美しい酒がガラス瓶の中で揺らいでいる。ハリスは少しだけ目を見開いた。
「ハルミ酒、じゃないか。随分と奮発したね」
「後出しで依頼を断ることになりますから」
断ることは決定事項である、という態度を崩さないケイレンを見て、ハリスはにこりと笑った。
「‥わかったよ。じゃあ、また警護の仕事を再開するときには私に一報をくれる?」
「承知しました」
ケイレンはそう言って軽く頭を下げると、すぐに立ち上がった。テーブルの上の香り高いお茶には手を付けていない。
「お茶くらい飲んでいって」
「いえ、急ぎますので。では失礼します」
固い声でそう答えると、もう一度頭を下げてケイレンは足早に部屋を出て行った。すぐに診療所の扉からも出て行く音がした。
ハリスは声を上げた。
「マキル!」
先ほどお茶を持ってきたマリキシャが急いでやってくる。
「御用ですか?」
「”裏”と機工通信を繋いで」
「わかりました」
マキルが下がると、ハリスはじっと酒の瓶を見つめたままそこに座っていた。
思わぬ闖入者に、せっかくのいい買い物をした気分を損ねられたジュセルは、気分を変えようと屋台で売っていたラッカ水を買った。ケイレンと一緒に飲んで美味しかったのが心に残っていたからだ。美味しいものを飲み食いすれば、たいていの嫌なことは忘れられる、というのがジュセルの信条だった。市場で当面の食材を買った後、タプケという木の入れ物に詰めてもらったラッカ水と靴の包みを持って帰宅する。靴を片づけて、ラッカ水をごくごく飲んだ。
味は、やはり昨日のレストランで出されたラッカ水の方が美味かったが、これでも普段なら十分贅沢で美味しい飲み物だ。半分ほど飲んで、流しの水につけて冷やしておく。
そこからまた、家じゅうの掃除を始めた。自分の部屋はあらかた済んだので、浴槽以外の浴室の床を磨き、台所に取りかかる。埃や虫の死骸(!)などが転がっていた窯の中を全部かき出して拭き清める。今朝、ざっとしか拭いていなかった用石コンロもすべて拭き上げた。調理台も磨き、その下にあった収納部分も掃除する。いい加減拭き掃除ばかりしていたので、拭き掃除用のボロ布が足りなくなってきた。
どうしようか、と考え込んでから、自分の部屋に下がっていたボロボロの飾りカーテンのことを思い出した。それに昨日見た使用人用と思しき部屋にも、カーテンの面影すら残っていないようなぼろ布が下がっていた気がする。三部屋あったが、正直あの三部屋が一番汚れており、とてもではないが人が住めるような状態ではなかった。
さっそく自室と使用人部屋に向かい、元の色すらおぼつかないボロ布を回収して細かく切った。これだけあれば当分の掃除には困らないだろう。掃除が済んでいる方の浴室でそれらをよく洗った。
腕が疲れてきたので、ボロ布を広げて干してから台所に戻り、冷やしておいたラッカ水を飲んだ。程よい甘さが喉に染み渡るようだ。残っていたものを一気に飲んでしまったので、入れ物の木筒 を簡単にゆすいでおいた。これを売主に返すと、共銅貨(=大陸共通銅貨)一枚を払い戻してくれるのだ。
ずっと身をかがめて掃除をしていたので、縮こまっていた筋肉をほぐすように身体を伸ばす。腕や足をひねって筋を伸ばし、軽くその場で跳ねていると後ろから声がかかった。
「ジュセル、今戻った。何してるの?」
ケイレンが用事を済ませて戻ってきたようだ。手には二つの大きい木筒 を持っている。
「ああ、ずっとしゃがんで掃除してたからストレッチ‥じゃなくて、身体の筋とかを伸ばしてたんだ。固まっちゃって」
えっ、という顔をしてケイレンがすぐさま近くに寄ってくる。調理台の上に木筒 をほっぽり出してジュセルの両腕を掴んだ。
「どこか、痛くなったり変な感じがしたりしてないか?無理をするな、環境も変わったばっかりで疲れているんだから」
ジュセルは掴まれた腕を、ねじって振りほどきながら答えた。
「だ、大丈夫だよ、そんなやわじゃねえし‥心配しすぎだ」
少しケイレンから距離を取ると、またケイレンの眉尻が少し下がる。‥イケメンのくせにそんな顔すんなよ。ジュセルは自分の顔が赤くなっているのではないかと思ってケイレンと目を合わせなかった。
ケイレンはそんなジュセルには気づかず、横で心配そうな顔をしてこちらを眺めながら、
「俺はしばらく、依頼は受けずにゆっくりするつもりだから、家の掃除とかもやるよ」
そう言って笑いかけてきた。自分の家だしな、と言いながらこちらを見て、ジュセルのサックスブルーの髪をわしわしと撫でまわしてくる。
やめろ、というように頭の上の手を振り払うと、調理台の上に置かれた木筒 が目に入った。
「これは?」
ジュセルが尋ねると、ケイレンが嬉しそうに笑った。
「ラッカ水。昨日、ジュセルが気に入ってたみたいだったから。屋台で買ったから昨日ほどは美味しくないかもしれないけど」
「あ、ああ、ありがと‥俺も買ったんだよな」
そう聞いたケイレンは、え、と言って目を見開き、あからさまにがっくりした顔をした。しおしおとなりつつ台の上の木筒 を取り上げた。
「ごめん、重なっちゃって‥二本も買っちまった‥」
しょんぼりしてしまったケイレンに、慌ててジュセルが言い足した。
「いや、もう飲んじまってなくなってたし、嬉しいよ、ありがとう」
ジュセルの言葉を聞いたケイレンは、ぱっと顔を上げてジュセルを見た。いかにも嬉しそうに顔をほころばせ、ジュセルを見つめている。恥ずかしくなってきたジュセルは、ケイレンから二本の木筒 をひったくると流しの水につけた。
「冷やしとく!‥掃除終わったら飲ませてもらうから‥ありがとな」
そう言って振り返るとすぐ近くにまでケイレンが迫ってきていてぎょっとする。
「う、わ、何だよ!」
「ジュセル、抱きしめたい」
研磨された黒輝石のようにきらめく黒い瞳が、まっすぐにジュセルを射抜いてくる。その勢いにのまれ、ジュセルは知らぬうちに頷いてしまっていた。
「ありがとう‥!」
そう言うや否や、ケイレンの大きな身体がふわりとジュセルの身体を包み込み、たくましい腕に抱きしめられる。ジュセルの頭に自分の頬をすり寄せながら、「‥かわいすぎる‥!俺を殺す気なのか‥?」と呟いているのが聞こえてきた。
ともだちにシェアしよう!

