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第16話

(かわいいわけねえだろ) そう思うのに、ケイレンの大きな身体と太い腕に抱きしめられると、なんだかそう言われてもいいような、安心するような気がしてくる。何事からも守ってもらえるような、頼ってもいいのだと思ってしまいそうな。 (だめだ。俺はちゃんと独り立ちして、自分で稼いで生きていかないと) 自分にそう言い聞かせておかないと、ついつい楽な方に流れていきそうな気がして怖くなる。 それほどに、ケイレンの腕に抱かれることは安心感を与えてくれる。麻薬のようだ、とジュセルは思った。昨日までならすぐに振り払っていた腕を、今はなかなか振り払えない。 抱きしめられていた腕を、そっと動かす。するとそれを察したようで、ジュセルの動きを邪魔しないようにケイレンは力を抜いてくれた。一瞬、迷ったジュセルの腕は、何とかケイレンの胸を弱々しく押し返すことができた。 「掃除‥するから」 そう言って、ボロ布を広げていた方の浴室に向かった。顔が熱い。ドキドキする。 俺マジでちょろすぎないか‥? 浴室に入ってから、そう考えてジュセルは頭を抱え込んだ。 前世では、なかなか恋愛感情が持てなかった。多分だが、割と女性にはモテていたような気がする。告白もされた記憶があるし、友人にもその手のことでからかわれたりしていた。 だが、あまり女性に性的な魅力を感じなかった。 だから、つきあってもなかなか深い仲になれず、女性の方から手を出されたことも少なくない。女性も結構肉食なんだな‥という印象を持っていた。 確かにセックスすれば気持ちはいいし、すっきりはする。しかし、女性がとても頑張ってくれてようやく勃起する、という前世のジュセルの状態は、女性のプライドや心をなかなか傷つけていたようで振られ方は結構毎回酷かった。 だから社会人になると、もう女性とつきあうこと自体をしなくなった。自分は他人に恋愛感情を持てない人間なのかもしれないと思ったからだ。だとしたら、つきあうこと自体が申し訳ない。 そうやって三十を過ぎても仕事ばかりの生活をしていたら、両親が心配しだして相手を勝手に探すようになった。一つ上の姉の知り合いの女性を紹介されたとき、断り切れずに会うだけ会った。 そこで相手にぐいぐい来られて、三十も半ばを過ぎようとしているし、こんなに相手が結婚したそうなのだから多少自分に感情が乗らなくてもいいのかも‥と思った。 だがその時、頭の隅をよぎったのは、営業先にいる企画課の三十歳の男性だった。 彼は物腰が柔らかく穏やかな性格で、前世のジュセルが会社を訪ねるといつも優しく対応してくれていた。彼と話すのは楽しくて、思わず時間を過ごすこともよくあった。最終的には連絡先を交換して、何度か個人的に飲みに行ったこともある。 俺は‥同性愛者なんだろうか。 男性に対して初めて強い好意を抱いた自分が、怖くなった。同性の恋愛なんて何も生まないだろうし理解もされないのに、と考えた。世の中のマイノリティ側に行く勇気は、前世の自分にはなかった。 だから、たいして好意も持たない女性との婚約に逃げたのだ。 (‥でも結局、その相手にも浮気されてたら世話ないけど) 不貞の現場を目撃しても、ああそうか、としか思わなかった。自分にも責められるべきところはあったのだ、と考えた。 しかし、紹介した立場の姉は怒り狂っていた。どうも前世のジュセルと見合いをする前からの付き合いの男だったらしい。ただその男には結婚する意志も甲斐性もなく、不安になっていたことから、女性は姉の話に飛びついたらしかった。 そういう諸々の出来事に翻弄されているときに、おそらく自分は死んだ。 そこまで考えてから頭を抱え込んでいた手を離し、目の前に広げてあったボロ布を取り上げて桶に入れ始めた。‥まだ掃除は終わっていない。自分がやるべきことをしよう。独り立ちをして金を稼いで、家族のために頑張ろうと決めたはずだ。 自分の幸せを考えることなど、その次にやればいいのだ。 よいしょ、と桶を持って浴室を出ると、廊下の少し離れたところにケイレンが立っていた。 「‥どうしたんだ」 仕方なく声をかけると、壁に背をもたせかけたまま、ケイレンがこちらを向いた。 「‥ジュセル、‥‥無理を、してないか?」 辛そうな声を絞り出したケイレンに、ジュセルはゆっくりと近づいた。ケイレンのすぐそばまで近づいてから、もう一度声をかけた。 「無理って、何が?」 「‥‥俺は、どうしてもジュセルをかわいいと思ったり‥愛おしいと思ったりすると、身体が動いてしまう。図々しいお願いを聞いてもらって、一緒に住んでもらって触れさせてもらって‥‥この二日で‥ジュセルが疲れてしまってるんじゃないか、嫌になってきてるんじゃないかと、思ったんだ‥」 低い声でそう言葉を落としていくケイレンは、ジュセルと目を合わせようとしない。俯いて床に目を落とし、ジュセルに対して身体を斜めにしている。 ‥‥どうするのが一番いいんだろうか。 ジュセルは自分の心に問いかけた。 ケイレンのことがそれほど嫌なのか?‥‥そうではない。 一緒の空間で生活するのが嫌なのか?‥‥そんなことはない。 では、ケイレンのことが好きなのか?‥ 「わからない」 ジュセルが呟いて、ケイレンがぴくりと肩を震わせた。 「わからないんだ」 ジュセルは桶を床に置いて自分もうずくまった。目をみはったケイレンがゆっくりとその傍に自分も膝をついて座った。 膝を抱え込むようにして、ジュセルは額を足にくっつけた。 「‥‥あんた、『黒剣』って呼ばれてるんだってな」 思いがけないジュセルの言葉に一瞬驚いた顔を見せたケイレンだが、黙って頷いた。頷いた気配を感じて、ジュセルは言葉を繋いだ。 「あんたにべたべたくっついてるって、何様のつもりだって」 「‥‥誰に言われた」 底冷えのするような恐ろしい声が横から響いてきて、ジュセルはぎょっとして顔を上げた。暗い廊下に座りジュセルを見ているケイレンの黒い目が、その顔が、今まで見たこともないほど厳しく鋭いものになっている。 ああ、きっとこれがこのヒトの本来の顔なのだろう、とジュセルは悟った。この鋭い顔つきなら『黒剣』と呼ばれていても納得できる。 ジュセルはふいと目を逸らしてまた顔を伏せた。 「知らねえ。靴屋で会っただけのレイリキシャだし‥多分、請負人(カッスル)なんだろうけど」 「‥ジュセル」 ケイレンが身体を動かしてジュセルのすぐ隣にまで近づいたのがわかった。そこから、今度は優しい声で話しかけてくる。 「ジュセル、触れてもいいか?」 恐る恐るといった感じに発せられた言葉に、ジュセルは黙って頷き、許諾の返事を与えた。ケイレンはゆっくりとした動作で、うずくまっているジュセルを抱え込むようにして抱きしめた。 「べたべたしてるのは俺の方だから」 「‥‥うん」 「疲れてないか?ジュセル」 「‥‥あんたの、せいじゃない‥」 「そうか‥ジュセルは優しいな‥」 前世も男で、今世も自認としては男で、(シンシャ)のサンジュが死んでから自分がしっかりしなければと、知らぬうちに気を張っていたのかもしれない。 そうじゃなければ、今ケイレンの腕の中でこんなに安心する理由がわからない。 ‥‥自分はやはり、「男」が好きだったのか‥? ずっと胸の奥に燻っていた疑問が心の表面にぽかりと浮かんできて、自分でも思いがけないことを言っていた。 「ケイレン、キスして」

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