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第35話

「ジュセル!ジュセル大丈夫か?」 ドアの隙間から遠慮深く顔をのぞかせていただけだったケイレンは、ジュセルの涙を見るや否やドアを吹き飛ばす勢いで部屋の中に入ってくると、一飛びでジュセルの横まで来た。ジュセルの涙に濡れた顔を両手で挟み込み、心配そうな顔をしておろおろと覗き込んでいる。 「ジュセル?どうした?何か不安になったのか?身体の調子でも悪いのか?‥ジュセル泣かないでくれ‥そんなに泣かれると俺は‥どうしていいかわからなくなる‥」 指で何度も何度もジュセルの涙を掬い取っていたが追いつかなくなったケイレンは、とうとうがばりとジュセルの身体を抱きしめた。 ケイレンの広く厚い胸の中でしっかりと抱き込まれているのは、途轍もなく居心地がよかった。ここにいさえすれば、何も悩まなくていいのだ、と思えてしまう。ケイレンはぎゅっとジュセルを抱きしめながら、何度も背中を優しくさすってくれている。昔、幼い頃アミリや死んでしまったサンジュにこうやって抱きしめられていたことを思い出した。一つ実(ふたご)のサンカとリーエンが生まれる前のことだ。一つ実(ふたご)が生まれてからは、その面倒を見るためにアミリもサンジュも忙しいのがわかっていたから、ジュセルはさみしくなって抱きしめてほしい時も、二人にはなかなかそんなことを言えなかった。 ジュセルはケイレンの大きな身体に腕を回した。びくり、とケイレンの身体が震えたが、気にしなかった。大きな身体がジュセルの腕の中にみっしりとおさまっている。 その温かい身体に触発されて、ますますジュセルは泣いた。年甲斐もなく声を上げ、ボロボロと涙をとめどなく流しながら泣いた。初めはおろおろとして何くれとなく声をかけていたケイレンだったが、次第に声をかけるのをやめ、ただぎゅっと腕の中にジュセルを閉じ込めながら、背中と頭を撫でるだけにしていた。 感覚としては十分程も泣いていたような気がする。ひくっとしゃくりあげながら、ジュセルは今さらながらとんでもなく恥ずかしくなってきた。成人したヒトが辺りも憚らず大声で泣きじゃくるなんて、恥ずかしすぎる。ケイレンの大きな手は、まだ優しく背や頭を撫でてくれている。それが、たまらなく心地よくて、離れたくない、と思った。だが。 「‥‥ケイレン」 ぽつりと名を呼んで回していた腕をほどき、そっとケイレンの厚い胸を押した。ジュセルとケイレンの間に隙間ができる。ケイレンは背に回していた手をジュセルの頬に当てた。 「ん?」 「泣いて、ごめん‥」 「いいんだよ、色んなことが一遍に起こり過ぎたよな。原因は俺なんだし、ジュセルはもっと俺に怒ったっていいんだぞ。殴るとか蹴るとか‥俺まあまあ丈夫にできてるから」 ケイレンはそう小さく低い声で囁いてきた。耳障りのいいその声に、腰が砕けそうになる。 「あ、甘やかさないで‥」 「へ?」 ケイレンがジュセルの頬を両手で挟み込んで、上を向かせた。美しい顔と、黒輝石のようなきらきらとした瞳がジュセルの目の前にある。ジュセルはまたかっと顔が熱くなるのを感じた。 「お、俺を、甘やかさないでくれ‥こんな‥こんなことされ続けたら、俺‥一人で立てなくなる‥」 ケイレンはジュセルのその言葉を聞いて目を丸くした。まさかにジュセルの口からそのような言葉が出てくるとは思わなかったからだ。 ジュセルはケイレンに怒る正当な理由と権利がある。ケイレンさえ、ジュセルの生活に関わらなければ、命の危機を覚えたりせずに静かにゆったりと暮らせたはずなのだ。 ケイレンが勝手にジュセルを見染めて、一心に好きになって、ひと時たりとも離れたくないというそのわがままな感情を大勢の前で発露したせいで、ジュセルは理不尽にも命を狙われる羽目に陥ったのだから。 それなのに、ジュセルはこれまでと変わらず、ケイレンを責めることもなく接してくれる。悪いのはケイレンではなく依頼をしたその当人だと言ってくれる。そしてそんな中でも、一人で、自分の足で立とうとしている ケイレンはそういうジュセルが愛おしくて不憫でたまらなかった。 「俺は、ジュセルのことをもっとぐずぐずに甘やかしたいよ。‥俺がいないと生きていけないくらいに。ジュセルの世話は俺だけがしていたいし、ずっとジュセルの傍にいてドロドロに甘やかしてやりたいって思ってる」 「こ、困る、そんなの」 必死に言い募っているジュセルの顔がかわいくて、ケイレンは思わずその唇を塞いだ。 柔らかいジュセルの唇。下唇を挟むようにして愛撫するとその表面を舐り、それからそっと舌を唇の隙間から挿し入れた。 ジュセルは、抵抗しなかった。それどころか、おずおずと自分から舌先をケイレンの舌先に触れ合わせてきた。 (っ、ジュセル!) ケイレンはジュセルの頭を抱え込んで、むしゃぶりつくようにして口づけた。ジュセルの咥内にことごとく舌を這わせ、口蓋、歯列、その下の歯茎に至るまでじゅるじゅると愛撫していく。 その唾液は、ほんのりとした甘みを持っていた。 (ああ、ジュセル) ケイレンはぐっと下半身に熱がこもるのを感じた。‥このままジュセルを寝台に引きずり込んでどろどろに蕩かして喘がせたい。身も心も自分だけのものにしてしまいたい。そんな欲が身体の奥から湧き起こってくる。 ジュセルの舌を扱くようにして吸い上げ、ちゅぷっと音をたてながら名残惜しそうに唇を離した。ジュセルは息を乱しながら目元を赤くし、上気した顔でこちらを見上げていた。 ジュセルは、するりと手をケイレンの上着の中に入れた。ケイレンの引き締まった筋肉の手触りに、どきりとする。 そんな可愛らしいことを初めてジュセルにされたケイレンは、このまま寝台に押し倒したい気持ちでいっぱいになった。だが、その気持ちを振り払ってケイレンはジュセルの顔をもう一度両手で挟んだ。そして、ジュセルの身体をそっと押し返しながら、ニッと笑いかけた。 「口づけ‥きす?させてくれて‥ありがとう。‥俺はジュセルが好きだから頼ってもらえると嬉しいよ」 そう言うとジュセルの額に軽くもう一度ちゅっと唇をつけた。そしてすぐに身体をジュセルから離す。からりとした声になるよう、心がけながらケイレンは言った。 「‥じゃあ、昼飯頼むな!コモの麺(コモエン)食うの久しぶりだから楽しみだよ」 そう言い置くと、ケイレンはそのまま部屋から出て行ってしまった。 あとに残されたのは、中途半端に身体の中が熱くなってしまったジュセルだけだ。‥正直、このまま流されて性交(セックス)してもいいと思ったのに。 無論、非常事態であるこの時に、しかもアニスもいる家の中でなど、冷静に考えればそんなことができるはずはない。だが、あれほどジュセルを求めていたはずのケイレンが、あっさりと身を引いたことにジュセルは衝撃を受け、またその衝撃を受けた自分に驚いていた。 こんな短期間にそんな気持ちになるなんて。 自分はもっと慎重なヒトだと思っていた。こんなに流されやすい自分にも驚いたし、何よりあれから先にことを進めなかったケイレンに驚いた。 ‥‥ケイレンは、本当は俺と何かしたいなんて思っていないのかもしれない。 俺にかわいいとかって言ってるのは、子どもや小動物なんかに対する感情のようなものなのかもしれない。‥俺が、勘違いしてただけなのかも。伴侶に、っていうのも‥ひょっとしたら冗談、なのかもしれないし。甘やかしたい、っていうのも‥俺が考えるようなこととは違うのかな。 ジュセルはそこまで考えてぶんぶんと激しく頭を振った。‥たとえそうだとしても、自分が責める筋合いのことではないし、どんな感情を抱こうともそれはケイレンの自由だ。 できることを、今はするしかない。 ジュセルは部屋の中の流しで涙に汚れた顔を勢い良く洗って、厨房へと向かった。

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